グランティ(結節)の場所の諸説(同テーマ&時系列の前記事)

神様の愛というのは本当の愛のみであり、理屈の愛ではない

2022-07-19
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

よく、神様の愛のことを理解するために理屈をどうこうこねて「善も悪もないのです」とか「愛だけなのです」とか説明されることがありますけど、言葉としてはその通りなのですけど、実際は、もっと単純なのです。

愛だけなのですから、お話はそれでおしまいなのです。

愛だけ。お話はそれだけです。

善も悪もない、というのは、それはそうなのですけど、そもそも善も悪もないのですから、愛だけになってしまえば文字通り善も悪もなくて、ないのだから、どうこう言う必要もないわけです。

ないものを何か説明もできません。善がないのだから存在しない善を説明することも不可能で、悪もないのだから存在しない悪を説明することも不可能なわけです。

そうは言いましても言葉で説明するときにはそのように言うくらいしか方法がなかったりしますけど、愛だけなのですから、本来はそれで十分なわけです。

そのことがわからない場合、腑に落ちない場合、頭ではわかってはいても十分に体感できていない場合、瞑想をするなりヨーガ(体操)をするなり、少しづつ神を知る方法はあります。

悪のように見える存在であっても神の手のひらで踊らされているだけ、と言う意味は、悪であっても善であっても等しく神の愛に包まれていて、本人にその自覚があるのかどうかという違いはありますけど、どちらにせよ神の意志は浸透しているわけです。

これは信じるとか信じないとかに関わりなくそうなのであって、本人に自覚があるかどうかに関わらずそうなわけです。

ですから、信じた場合にだけ神の愛に包まれるわけでもなく、信じなくても既に神の愛に包まれています。愛は全ての空間に満ちていて、神の意志は悪の存在にまで浸透しています。

神の視点からすると、(悪のように見える存在の)「行動」、と言うものが、見方によっては悪に見えてしまうだけだ、と言います。「動かない」と言う状態(あるいは静止した状態に戻そうとする行動)が見方によっては「善」に見えて、最初に動いた存在の「行動」が悪に見えてしまうことがあります。それは視点のみのお話であって、実際は善悪はないのです。

それと、(神からの)「分離(あるいは悪)」と言う状態は自我(エゴ)が自分自身だと勘違いしてしまった状態ですけど、その状態ですと自我を強化する方向に行動が加速されますが、そのような自我の自己強化の行動すらも、自我の機械的な運動として神の視点からすると正当化されます。

神の視点からすると、自我(エゴ)の欲望あるいは自尊心を高めるという自発的行動は割と機械的な化学反応のように扱われ、その結果として悪の行動を取ったとしても、それすらも機械的な反応あるいは化学的な反応として観察されますので、人間界の視点では善悪のように見えてしまいますが、神からすれば、それはただの機械的な反応に過ぎないわけです。

機械や物であったとしても神の愛に包まれていますから、ましてや、人間であれば悪の存在であったとしても神の愛に包まれているわけです。

自我(エゴ)が本当の自分であるという勘違いをしているから自我を強化して自尊心を高める方向に行動するわけで、本当の自分が自我ではないことを知って自覚をし始めたら悪というのは自然に解消されます。そもそも善も悪もなくて、全ては神の愛に元々包まれているわけです。

自分が過去にしてきた行動によってその結果がカルマとして現れたりしますけど、カルマは物質界のお話であって、神の愛はカルマの法則をも超えておりますんので、全ては愛に包まれているのです。



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