対象のない信仰心こそが本物

2022-05-27 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

世間一般では神々とか御神体とか教祖など何がしかの対象がある信仰が必要のように言われていたりしますけど、特に対象のない、あるとすれば場所的、あるいは地域的、または自分の周囲の空間に限定されてはいても特定の対象のない状態における信仰こそが本物なわけです。それに至る以前の段階として対象のある信仰があって何がしかにすがったり願ったりしますけど、その前段階ではまだ見習いの状態なわけです。

私の見たところ、そのような見習いの期間があるかどうかは、本物の信仰心に至るかどうかとあまり関係がないようなのです。このようなことを言うと信仰に生きている人から「そんなことない」みたいな反論が出たりするかもしれませんけど、実際のところ、見習いの信仰心があっても本物に至るでしょうし、見習いの信仰心がなくても割と急に本物の信仰心に目覚めることもあるようなのです。

そこには成功率の問題と難易度というお話があって、見習いの信仰心の場合はそれはそれで見せかけの信仰心に惑わされてしまうという落とし穴がありますし、一方、それ以外の場合でも世俗の欲望の落とし穴なんてものは沢山あるわけです。

一般的には見習いの信仰心を通じて本物の信仰心に至ることが良いとされているわけですけれども、必ずしも信仰心とは言わなくても、何か、とても興味のあることとか物作りなどの仕事に一心に取り組むことで信仰心の芽生えのようなものは必ず起きてくる筈なのです。

一見すると、人によっては段階を踏んで見習いの信仰心から本物の信仰心に至るように見えることもあるでしょうし、はたまた、見習いの信仰心を飛ばして急に本物の信仰心が現れるかのように見える時もあるかもしれません。では、本当に見習いの期間を飛ばしていきなり本当の信仰心に至るかというと、そうではなく、それに変わる何がしかの修行の期間がある筈なのです。

どちらにせよ、何がしかの、修行と言うかどうかはそれぞれですけど心の浄化の修行あるいは行為・仕事などを通じて心身が引き締まって認知が微細に深くなり、その結果、ふと本物の信仰心に目覚めるものなのです。

その、本物の信仰心に目覚めた時に「たまたま」御神体を拝んでいたらそれが信仰心の対象かのように思えてしばらくは慣性でそれを拝み続けるでしょうし、あるいは、何がしかの神様あるいは教祖を「たまたま」拝んでいたらそれを最初は崇拝し続けることでしょう。ですけど、本物の信仰心に目覚めてしまえば、最初こそ慣性が続きますけど、やがて、それは対処に縛られずに、いわば「場」に対しての信仰心、あるいは表現を変えれば「場と共にあることによる信仰心」と言えるものだと言うことに気付いて自覚していきますので、それに気がつき始めたら信仰心を持ちつつも慣性を少しづつ離れて「対象から自由」に次第になってゆくのです。そしてしばらくすれば、対象のない信仰心、あるとしても「場」としての信仰心に変わってゆく、あるいは、実際は変わると言うよりはそのことを自覚してゆくのです。この信仰心は場と共にあることによる信仰心であることを自覚してゆくわけです。