(同テーマ&時系列の次記事)楽しみはあってよくて、執着しない

執着と楽しみを区別する

2022-05-11
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

時々、この区別ができていなくて、悟りを求めるためには楽しんではいけない、みたいに勘違いされている方がいらっしゃいます。特に仏教系なのでしょうかね。釈迦の教えに従うとあまり楽しんではいけなくて、楽しんでいるようでは悟りなんて無理、みたいに発言する方が時々いらっしゃいます。

まあ、仏教の特定の流派の教えに従うとそういう解釈になるのかなと思いますけど、私から言わせれば、そう言っている人は楽しむことと楽しみへの執着とを混合しているかあるいは区別がついていないのですよね。

これは言葉遊びとか言葉尻のお話ではなくて、実際に、認知として別物として普段からそれと認識できるかどうか、というお話です。これは、単なる表現のお話ではなくて、サマーディ(三昧)とは一体何なのか、という根本的な理解が足りていないからこのような発言に至ると思うのです。

私から言わせれば、楽しみは楽しみとしてあってよくて、ですけど、執着はしないのです。

人間ですからある程度の楽しみの追求というものはあって、その場合でも、サマーディの意識下において選択的に行うと言うことであればそれは執着ではないのです。楽しんでいるときに、またその楽しみが欲しいとか欲求したり、あるいは、楽しみが消えてしまうことを嘆き悲しんだりするのは愚かなことだと仏陀が説いていてそれが執着だと言うお話それ自体はその通りなのですけど、それは、楽しんではいけない、と言うことではないのですよね。

ブッダが言っているのは、サマーディの状態においては執着はなくなる、ということかなと思うわけです。

時折、仏教を勉強された方が、楽しむことそれ自体がいけないことだ、みたいな解釈をしているのを見るのですけど、それは、本筋から言えば、そう言うことではないのです。

ブッダが言っていたのは、文字通り、執着するのがいけない、みたいなお話であって、おそらくはブッダはネガティブな意味だとか禁止だとかは言っていなくて、ただ単に、現象として、悟りを得ればそのような執着がなくなる、とだけ言っていたのが基本で、その状態に至るために、ブッダが今までやっていた修行方法を同じようにやらせてみて、そのために、禁欲みたいなお話も出てきたのかなと思います。あるいは後世の人たちが自在に解釈して禁止みたいにルールにしてしまった可能性もあると思います。

当人に聞けないので想像するしかないわけですけど、ブッダがそのような禁止令をしのだとしても、そのように禁止したことと、悟りの境地とは、若干違う筈なのです。ブッダも、その辺りをきっとわかっていてやっていたのではないかと想像しますけど、修行のためにルールを設けて禁止することと、悟りの境地とは少し異なるのです。

(続きます)



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