神は必ずしも悟っていない

2022-04-17 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

神が何なのかは流派によって解釈がまちまちで、神というものが絶対的な存在で悟りの境地と同等と理解されていたり、あるいは、神であることと悟っていることとは別物という解釈も存在します。

この辺り、日本人には身近ですのでわかりがよくて、例えば、身近な偉人が祀られて神になったりしますけどその偉人が必ずしも悟っていたかというと、それは、それぞれだと思うのです。菅原道真や多くの武将が神として祀られていて、その場合、悟っているかどうかはほとんど問われないわけです。

ギリシャの神々はとても人間ぽかったりしますし、インドのヒンドゥの神々も基本的には悟っていない、という解釈になっています。

インドの哲学体系の中での神々は、さまざまな魂たちによってつぎつぎに占められる、高い公職のようなものである。しかし彼らのひとりとして、完全な者はいない。「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 著)」

特にヨーガの考え方によると、神々になるに値する状態になった時に、神になることを選べば神となるが、神になることを選ばずに更に高みを目指すと悟りに到達する、と考えられているようです。

それは、神になるとこの世界の一部を支配する立場に就くことができるが、その一方で、悟りへの妨げになる、というのです。

これは古典でもあるヨーガ・スートラで言われていることで、それ故に、ヨーガをしている人にとっては神は高い地位の先駆者であって悟っている者ではない、と解釈され、神を敬いはするものの、神を超えてその先の高みに登ろうという立場を基本的に取るようです。

そうは言いましても神に近づくだけでも大変なことですので神よりも高みに登るなどそうそうできることではありませんけど、これは比喩的な側面もあって、現世界的な欲望に染まらずに修行に専念しなさい、という、教訓的な面もあるように思えます。

それに加えて、無執着の徹底、という点も強調されて、無執着により神からの要求と希求すらも跳ね除けることで高みに登る、という基本姿勢が取られています。