感謝が一つの解だが感謝だけしていれば良いわけでもない

2022-02-11 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

最近は割と感謝だけしていればいいのかなという気になることも多いわけですけれども、そう言ってしまうと色々と誤解があるように思うのです。

特に、感謝を単なる習慣あるいは行動の言い訳や正当化あるいは善意に見せるためのアリバイにしてしまってはいけないと思うわけです。感謝をしていさえすれば何でもしてもいいというわけにはならないわけで、表現として「感謝だけしていればいい」とか言ってしまうと誤解があるように思うのです。

最近の私の瞑想では単純にハートでただ「ありがたい」と思う瞑想をしていたりしますので、それは瞑想の境地としては正しいのですけど、それはあくまでも瞑想の境地のお話であって、日常生活の道徳のお話をしているわけではないのです。

顕教では時に分かりやすい教えをするために「感謝さえしていれば良いのですよ」みたいな「分かりやすい」教えをすることがあるわけですけれども、それはあくまでも顕教が広めた道徳のお話であって、私はそれをことさらに否定しているわけでもありませんが、顕教が言うようなニュアンスで日常生活において「感謝をしていればいい」「感謝するだけで良い」などと言っているわけではないのです。

私の場合はあくまでも瞑想中の境地で「感謝だけしていれば良い」と言っているのであって、行為や道徳あるいは言葉としての感謝だけをすれば良いと言っているわけではないのです。

ここに、言葉の説明による大いなる誤解が生じる余地があるように思います。

感謝という言葉を聞いた人が、言葉だけが一人歩きして普通の道徳の感謝だと勘違いをして「ああ、感謝していさえすれば良いのか」と思って、それを行為の言い訳・正当化に利用したり善意のアリバイにしたりして自分の行動を見なくなってしまったりするのは本意ではないわけです。自分の本当の行為を綺麗な言葉で覆い隠して見えなくしてしまうのであればそんな感謝などいらないと思うわけです。

そんな、現実を覆い隠す言葉なのであれば感謝であろうとも実は不要ということもできて、感謝などしない方がマシな場合もあるかもしれません。

そうは言っても感謝の言葉の力は偉大ですのでそんな状況すらも打破する力があると信じたいところではありますけど、顕教の皆さんがいくら感謝のことを説いて言葉で感謝を伝えていてもなかなか悟ることができない状況を見ると、おそらくはただ単に感謝の言葉を使うだけでは不十分なのかなと思います。それでも感謝を伝えるだけマシだとは思うのですけど。

そのように、感謝は良いことではあるけれども、感謝だけしていれば良いというわけでもないわけです。感謝していれば悟るかというと顕教の皆さんのようにそういうわけでもなく、実際には、まず最初の到達点としては静寂の境地があって、その次に、感謝の気持ちが表れるわけです。

ですから、基礎としての静寂の境地がないのに感謝のことを言っても、無駄とまではいいませんけど、なかなか効果が出にくいと思うのです。それに、ある程度の基礎がないと感謝の言葉を口に出すだけでも苦しいでしょうし、その苦しさを乗り越えられるだけの精神力があれば良いですけど、それよりも、もっとやりやすい道を辿った方が挫折しないと思います。

実際には、瞑想で感謝の気持ちが沸き起こるようになるとそれが日常生活にまでも広がってきて普段の生活で何気ない日常に対して割と常に感謝の気持ちを出せるようになるわけですけれども、それはわざわざ「行為」をしているわけではなくて、いわば「状態」のことですので、感謝の状態にはあっても、わざわざ意図的に感謝をしようと思っているわけではありませんし、何か理由があって感謝をしていると言うよりは順番が逆で、感謝の気持ちが湧き出てくるので、たまたま目の前にある状況に対して感謝の気持ちが映し出される、という感覚なのです。ですからこうなるともはや感謝は行動ではないので顕教が言うように「感謝しましょう」などと言うのとは違っていて、しかしながら、状況があれば感謝をするということはしますので感謝をすることはするのですけど、わざわざ意図しなくても、特に何かがなくても感謝の気持ちが湧き出てきていますので、そのことも行動だと言うのならばそう言えなくもないですけど行動ではなくて状態だと言うのならばそれもそうかもしれない、というような言葉で表現するのが難しいものなわけです。

そのように、わざわざ意図しなくても感謝が湧き出てくる状態があるわけです。そうなる前は、感謝をしようと思って意図的に感謝してもいいですし理由があってする感謝もあっていいですけど、感謝と言ってもちょっと違う種類のものがある、と理解しておくと誤解がないと思うわけです。