ヴィパッサナー状態を保つための努力が減る

2021-11-23 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

これは程度問題なのですが、ここ最近、またもやヴィパッサナー状態(観察状態)を保つために必要な努力の量が減ったように思います。

特に意識しなくても基本は薄いヴィパッサナー状態が保たれて、更にもう少し注意を向けるとヴィパッサナー状態が深まるのですが、それほど意図しなくてもそれなりの観察状態が継続されます。

例えば、階段を登る時、外を歩く時、ヴィパッサナー状態において視界や皮膚など観察されるものの感受の感覚は少し前とさほど変わらないといえばそうなのですが、その観察のために要する努力がまた一段と減って、特に意図しなくても薄い観察状態が続いています。

今後、おそらくは更に濃い観察状態へと少しづつ遷移してゆくのかなと思うのですが、その観察の深さは以前は努力を使って一時的に保たれていたのが、ここ最近は、これはもはや程度問題になってしまうのですけど、少し前ほどの努力が不要で、そもそも努力することなくても多少の観察状態が継続しています。

ですから、これを持ってして努力なしの観察状態、などと言ってしまっても良いのかもしれませんけど、それでも意図的にもっと深い微細な観察状態に入ることもできますので、まだまだ深まりがある以上は、この段階を持って「努力なし」と言うにはまだまだ早いような気も致しますし、その一方で、一応は努力なしといえばそうなのですから、努力なしの観察状態及びその深さ、と言う組み合わせで表現してもいいような気も致します。

ヨーガの本などを見ると単純に「努力なしのサマーディ」とだけ書かれてあったりしますけど、実際に体験してみるとそのような一枚岩ではなくて、今は努力なしですと薄い観察状態のサマーディになっていて、その今の状態をベースにして更に意図することで深いサマーディに入ってしっかりと観察することもできますので、意思の力の入れ具合によってサマーディの変化があると言う段階なのであればまだ過渡的な状態と言うことなのかもしれません。

ただ、そうして意図をしたりして思うのは、おそらくはサマーディの本質はそのような観察の「意図」及び「観察の深さ」そのものではなくて、観察の意図や深さからどんどんと離れてゆくことで、逆説的ではありますけど、離れてゆくが故に意図や観察の深さとは無縁になって観察状態が続くようになり、そのように観察と心や五感の働きが離れるが故にしっかりと全てを把握することができるようになる気が致します。

ヴィパッサナー状態が始まった頃は視界がスローモーションで感じられ、最初はそれ自体がヴィパッサナーかと思ったのですけど、その五感の動きそのものがヴィパッサナーというよりはその背後にある観察の動きが現れてきたが故に五感の動きをしっかりと把握できるようになった、ということです。理屈を考えればそれはその通りで、五感そのものは肉体やプラーナあるいはアストラル次元と結びついていて高次元のカーラナやプルシャのものではありませんのでヴィパッサナーやサマーディとは言ってもまだアストラル次元の働きでしかないわけです。

今回のことを思うに、日常生活で努力なしにヴィパッサナーの観察状態が続くということは観察の働きが強まったということであり、それは肉体やアストラル次元の五感や感情ではなくて少なくともカーラナ次元以上の働きが出てきた、ということかなと思っております。

その状態において以前のようにスローモーションで見ようとしたりしてもその意図や努力はあくまでも肉体やアストラル次元の五感に属するものですので、本来の観察の働きのカーラナ次元以上の動きとはあまり関係がないわけです。

そうは言いましてもそれらは密接に結びついておりますので現在の状態を測る上でこのような働きの状態を観察するのは無駄ではないと思います。