光とそうでないもの(その逆のもの)の対立は、統合されるまで継続するように思います。光が強くなればその逆も強くなる、とは昔から言われている通りで、光を強くしようとして術や何やらに頼ったとしても、その逆のものが近くに留まっていつしか一気に押し寄せてきてしまうような種類のもののように思います。そして崩壊するわけです。
光とその逆のものは、普通の生活をする上では光を意識することが多いと思います。光は繁栄をもたらすものであり、明るく、生き生きとしていて、満ちているものです。そして、光でないものは、怖いもの、恐ろしいもの、破壊をもたらすものとして捉えられています。
これは、光を創造あるいは維持、光とは逆のものを破壊として捉えることができます。
インド・ヨーガの特にシバ派などの流派は「創造・破壊・維持」の3つの神を基本にしていて、創造はブラフマ神、破壊はシバ神、維持はヴィシュヌ神をそれぞれあてているわけです。そこに優越はなくて、世界の秩序としてそれは捉えられています。
破壊神を崇める、という考え方は古来からありますが、これら3つのうち特定の属性のみを良しとするからバランスが崩れると思うのです。
例えば、創造あるいは維持の側面を良しとして、それを例えば善と定義したとしましょう。創造することが善であり、維持することが善である、としたとしても、創造するためには破壊が必要であり、創造や維持を善としているのに、破壊に対しては目を背けるのです。背けるばかりか、流派によっては破壊の属性を悪とみなしています。これはバランスを崩した見方だと言えます。個人的にはそう思います。
特に、いずれかの属性のみに立っているとバランスを崩し、苦しくなってしまうように思うのです。創造や維持の側面を善とみなしても破壊の面に対して苦しさを感じるようになってきてしまいます。一方、破壊の側面に立った場合は、創造や維持に対して苦しさを感じてきてしまいます。そのいずれかもバランスを崩した状態なわけです。
この世界はこのいずれかでもなく、3つの属性全てが成り立つ状態であり、それこそが「ありのまま」であるわけですが、人間が何かの思想やこだわりなどによっていずれかあるいは一部の属性を良しとした場合にバランスを崩すわけです。
そして、このようにバランスを崩した場合、そのバランスを取り戻すには色々な方法がありますが、個人的に一つ挙げるとすれば、「放棄」をすることです。放棄をして、一切を委ねる。そして、自らの体と心に何がしか苦しいことがやってきたとしても、それを受け入れる。破壊も創造も維持もありのままに受け入れるわけです。
あるいは、バランスを取り戻すために今まで避けていたものに極端に取り組む、ということも時に有用かもしれませんが、そうなると自らの行為が良くないカルマを生み出すこともありますから、逆のものに取り組むよりは放棄の方が長期的に見て良い結果を生むように思います。
この世界は魑魅魍魎がたむろしている世界とはよく言われますが、そのようなものも一旦は受け入れて放棄して、世俗の全てをありのままに受け止めることで統合された価値観にたどり着くことができるように思います。本人にとってはあたかも世界が変わったかのようになり、いつの間にか世界が変わっていた・・・ と思いきや変わっていたのは自分だった、という状況になるわけです。
この放棄を成し遂げるには、人によってはかなり辛い状態を抜けなくてはなりませんが、抜けた後は、光にも闇にも左右されない、自由な人生に辿り着くことができるわけです。
そうして自由な状態に達することで、ようやく、本当の自分の人生が始まるとも言えるわけです。