低いレベルのゾーンと高いゾーン

2024-04-15公開 (2023-12-01 記載)
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

集中の歓喜のゾーンにも様々なレベルあるいは深さがあるように思えて、高校時代にプログラミングを集中して行っていた時に時折訪れた激しい歓喜は、それ自体はとてつもない喜びと癒しと力強さと輝く光のようなものをそこに感じて、それはそれで、当時の私のメンタルの状態からすれば(相対的に)限りなく高いところにあったということはできますけど、一方、絶対的な尺度からしたら、それは低いレベルのゾーンであったわけです。

と言いますのも、高校時代の場合は、年に数回現れるかどうかという頻度でゾーンが不意に発生していて、集中して作業を行なっていると、不意に、とてつもなく理解が高まる時があって、それがゾーンだったわけです。

その後、そのゾーンはずっと私と共にありますけど、その深さは、少しづつ深まってきているわけです。

最初は、集中して数年に一度現れるという程度のものが、1年に1度になり、数ヶ月に1度になり、そして、週に1回、週に数回、そして、集中しさえすればゾーンに入れる、というところまで達した後、次第に、そのゾーンの状態の一部が日常生活になったわけです。

それは、基本のレベルが底上げされた、ということもできて、ゾーンの状態は集中状態ですから、集中すると基本のレベルより少し上に引き上げられるわけです。一方、もともと平常状態でいるレベルがあるわけですが、それが少しづつ上がることにより、集中してゾーンに入った時に到達できる意識レベルが引き上げられていったわけです。

よく、これらのゾーンに茶々を入れる人がいて、「平常状態で平穏でなければ、どうしようもない」とか、わかった風なことを言う人がいますけど、実際のところ、ゾーンを繰り返していくと、基本のレベルも少しづつ底上げされて、平常状態の平穏さが少しづつ深まるわけです。

ですから、ゾーンに茶々を入れている人の意見はあまり本質的ではなくて、ただ単に他人にやっかみを入れたいというだけの、ただの雑音ですからあまり気にする必要はなくて、何でも良いのでゾーンを繰り返していけば平穏な心境に近づいていくわけです。そもそもゾーンに入るだけの集中力がない人が想像でそういうお話をされる場合もありますから、ゾーンのお話はゾーンに入れる人に聞くべきで、ゾーンを知らない人の意見はあまり参考にならないと思います。

そうして、そのようなゾーンを繰り返していって、やがて、ゾーンと平常状態の境目が減ってくる、というのは、その通りだと思います。普段からゾーンのような状態にいると、集中して作業しても平常状態と割と同じような感じになり、常にゾーンにいることもそれなりにできるようになります。

それでも、その、平常状態のゾーンの均衡状態を突破することができます。

一旦は限界のように見えた、平穏の静寂なゾーンの通常状態の意識、それすらも、その限界を超えてゾーンが高まることができます。

これはもはや、ゾーンの神秘と言うこともできます。

最初は、ただ単に、意識の集中のゾーンというだけでした。そして、それが静まることにより、ゾーンが安定し、平穏な状態で日常を過ごすことができるようになります。それはいわば、「感情」のレベル(=スピリチュアルでいう、アストラルなレベル、アストラル界に相当)に相当して、感情が安定する、ということです。

そして更に、その感情が鎮まり、理性の世界に入ります。ここでもゾーンはあって、理解が高まる、ということが起こります。そして、この場合でも、集中時の理解の高まりと、その安定、平常状態での理解、という、ゾーンの深まりと平常化、という段階を経ます。

それが終わりではなく、スピリチュアルなレベル、神秘なレベルにおいてもゾーンはあって、ここでも、集中することによってゾーンに入り、一応のワンネスとも、「今ここ」とも言える状態に入り込むことができます。集中が深まって、対象と一体になる、というのは今までの段階と同じといえばそうですが、神秘なレベルになると、更に、その対象との「境目」が減っていくのです。

私は今のところこの辺りにいるわけですが、おそらく、本当の意味でのワンネスではなく、制約のあるワンネス、空間や時間など何某かに制約されたワンネスということなのかなと思います。その集中状態においては対象の物事がこと細やかに分かります。ただ、その、わかる範囲というのは自分が割と得意とする分野に限定されていて、本当のワンネスであればおそらくもっと広範囲にわかるのでしょうが、まだ限定されているのです。

この辺り、2つの軸で考えるのが良いと思っています。
・平常状態
・集中状態(=ゾーン)

ゾーンは入り口でもあって、一方、いつまで行っても、自分の今いる平常状態からもう少しだけ先を目指すという点においてはゾーンはどこまでも存在するように思うのです。