密教や神道およびヨーガは光明や神霊(プルシャ)を心の内に抱く

2023-02-24 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

密教では「太陽の光輝く光明を心内に抱く」と設定し、太陽の光明を思想的に観察、あるいは、空海の体験になぞらえて「暁の明星<朝の金星>」を観想すると言います。それは元はと言えばインド・ヨガあるいはヴェーダンタのウパニシャッドが言うところのブラーマン(宇宙大我)とアートマン(小我)との結合をその思想的根源にしているようです。一方、神道は、高級神霊は太陽の如く輝く神霊であるから現実の太陽を常に拝むというのが神道の太陽礼拝だそうです。(「神道の現代的解義」P202より)

密教、そしてヨーガ、神道と違いはあれど、いずれも「光輝くものを自らの内に抱く」という点において共通しているところが興味深いです。

私は神道の瞑想にはそれほど詳しくはありませんが、度々耳にする「鎮魂帰神<チンコン・キシン>」とはこのことを言うようです。

神道は常に「太陽の如く輝ける神霊」を瞑想して、神を我が霊の内に迎える瞑想を行うのである。それを「鎮魂帰神」と言う。また「鎮霊<ミタマシズメ>」と言って、この太陽の如く輝ける高級神霊の計り知れない<愛と叡智と勇気と平和と喜悦と寛容>の精神に同化するのである。(同書P203-204)

神道の「振魂」も似たことを意味するようです。これは神道の「神人一体」の思想を基にしており、過去には、高級神霊と一体化した人を高級神霊と同一人とみなし、人間と神霊の一体化とみなしたそうです。そのような例が天皇の祖先であるオウヒルメがアマテラスと同一であるそうです。同書によればインドの聖者サンカリチャリヤ(シャンカラチャリア)は光輝く神霊と一体になったとのことで、このような例は度々あるようです。

私の体験と比較してみると、まず、2年ほど前に胸のアナハタの後ろから近づいてきて繋がって一体になったハイヤーセルフがまず最初で、それ以降はずっとくっついて融合したままですが、その次にここ最近になって頭の上のサハスララに濃いオーラの意識体が急に張り付いてきて体の軸を通って喉を通ってアナハタに入っていった体験が類似しております。それを天皇のような例と比べるのは例えが大きすぎて比較としてどうかと思いますけど、似ている部分もあるわけです。

いずれも、この種のお話と類似性はあれど、完全に一致はしていなくて、そうは言いましても、胸の内にある大切なものは(神道的な言い方で)神霊といえばそうですし、(ヨーガあるいはヴェーダンタ的な言い方で)アートマンと言えばそうなのですけど、とにかく、胸の内に「大切なもの」が降りてきてくれていて、それを大切にしたい、という気持ちが常にあります。言い方は色々とあれど、この種のお話と私の最近のお話とが類似していて、私の最近の状況を解釈する助けになります。

ヴェーダンタでアートマンというと本来の意味は純粋な観察者のことで行動はしないのでこの場合は実のところアートマンというのは不適切ではあるのですけど、特にヨーガ系の聖典では胸の内にアートマンを抱く、というようなお話が出てきます。アートマンというと文字の意味的によくわからなくなりますので、それよりも、ヨーガ的にプルシャと言った方が適切のように思います。プルシャ自体は純粋精神ですが常に物質であるところのプラクリティと一緒にあり、完全にワンネスではなくて、個性のような違いを持っている。プルシャを超えて創造神あるいは本来の意味でのアートマンあるいはブラフマンまでいくと完全にワンネスですが、プルシャという場合はまだ違いというものがあるわけです。これはエゴとしての個のことではなくて、性質やその存在自体に違いがあるということです。プルシャより前のアストラルやコーザルまでは物質ですがプルシャは物質ではなく物質を超えた純粋精神です。その、物質を超えたプルシャにはそれぞれ違いがあって、個性があって、その、個別のプルシャを胸の内に抱く、という点でヨーガあるいはウパニシャドは表現しているわけですけど、その点、密教や神道に類似しているわけです。

文献によってはここでプルシャではなくてアートマンと表現している場合もありますけど、そういう言い方にした場合、既にこのことを経験している人にとってはあれのことかとすぐにわかるのですけど、文字の意味的にアートマンとしてしまうとそれは純粋な観察者ですしアートマンは唯一のもので違いはなくて2つのアートマンとかなくて1つのアートマンしかありませんので、その唯一のアートマンを胸の内に抱く、というのも、アートマンという言葉の本来の意味からしたら意味不明のものになってしまいます。とは言いましても、そこはニュアンスの読み替えで、このようなコンテキストにおいてアートマンと出てきたら、(本来の意味におけるアートマンの意味はひとまず置いておいて)、それは個性を持ったプルシャ(神霊)のことだ、と読みかえれば良いわけです。

この辺りのお話はスピリチュアルとも共通しているのですが、読む人は割と系統別に読むので同じだとは気づかないか、あるいは、全く別のお話だと捉えてしまいがちです。しかしながら、この辺りのお話は、スピリチュアルとも共通しているように思います。

キリスト教は三位一体のことを言っていて、(流派によっては三位一体はキリストにしかできないと主張しているようですけど)、実のところ、本山博先生の著作によればプルシャ(神霊)を胸の内に抱くことがキリスト教でいう三位一体のことに相当するようです。

こうしてみると、ヨーガでプルシャ(神霊)との合一と言われていることは、古今東西様々な精神的教えの中に共通しているように思えます。