道元の時代の天台本覚論とインドのヴェーダンタ

2022-04-14 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

道元の時代における同論とヴェーダンタの共通点が興味深いです。

「日本仏教を捉え直す(P89)」によると、天台本覚論は中国の天台智顗の考えを基にしつつも日本の天台宗で当時に編み出された「既に悟っているのだから修行などしなくてもありのままで仏」のような考え方で、同論に道元は疑問を持って比叡山を去ったとのことです。

この種の、修行などせずとも良いだとか、「理解」しさえすれば良い、だとか、そのような、「修行不要」の考え方が、どこか同論とインドのヴェーダンタとで似ているように思います。実際には随分と違うのではありますけど、一見すると似たように見えて、好きなように解釈すれば同論のようになってしまうのかもしれません。

同論は随分と極端ですけど、それは、ヴェーダンタでいうところのアートマンのお話と似ているといえば似ております。

アートマンとは人間の本質で、ヴェーダンタのいうところによれば、普通の人間が自分と思っているのは心(チッタ)としての記憶や知能の反作用であるアハンカーラという自我のことであって、アートマンは本当の自分ということで真我(しんが)とも訳されます。

その、アートマン(真我)が本当の自分だとして、その本当の自分は既に全てを知っていて満ちていて永遠である、というお話と、それと重なるようにして心(チッタ)及び知能の反作用としてのアハンカーラによる自我という意識(それは幻想でもある)が存在しているのですけど、アートマンのお話をいつの間にか自我のお話と勘違いして捉えてしまうと「私(自我)は既に悟っているのだから修行など不要」みたいに都合よく解釈してしまうこともあるのかもしれませんけど、それは、そもそも、本来のお話を理解していないからそうして間違って便利に解釈してしまったりするわけです。

実際のところは、修行が不要なのはアートマン(真我)の方であって、自我の方、その自我はヴェーダンタ的にはジーヴァと呼んだりするのですけど、そのジーヴァの方は自我や記憶(心、チッタ)としての幻影としての私という感覚で生きている自分のことで、そのジーヴァの方としては普通に修行とかが必要になってくるわけです。

この辺り、流派によってはごっちゃになっているところもあって、半分は理解しているものの半分は理解していないようなところですと、修行が不要というお話と修行が必要というお話が入り混じっていることもあります。そのような、入り混じっているところでは「修行」という言葉を使わずに「理解」とか言って半分のところを表現しようとしていたりしますけど、それよりは、普通にジーヴァとアートマンに分けてしまった方がわかりがいいと思うわけです。

入り混じっているところは、本来、修行が不要なのはアートマンというお話が何故かジーヴァの方に入り込んできていて、ジーヴァとしても理解だけすればアートマンの意識になって輪廻転生からの解放(モクシャ)が得られる、みたいに言っている流派もありますけど、まあ、確かにそれはアートマンの側から見ればそういうお話ですけど、ジーヴァの方から見ればそれは普通に修行だと思うわけです。ですけど、一部の流派は何故か、修行という言葉を「それは行動だから、行動はアートマンには不要」とか言って、アートマンとジーヴァのお話がごちゃ混ぜになっていたりするわけです。

確かにアートマンとしては修行は不要ですけど、ジーヴァの行動は全て行動でしかなくて行動以外にならなくて、それでも、ジーヴァがアートマンに近づくために修行が必要なわけですけど、ごちゃ混ぜにしている流派の言うところによると、そのような修行は不要だとか言っていて、それでいて、実際にその流派のやっていることを見ると修行っぽいことを色々としていて、言葉では修行ではないと言いつつも修行しているような、不思議な光景が見れる時があります。

そのように、アートマンとジーヴァをごちゃ混ぜにすると表現に無理が出てきてしまいますけど、それよりは、アートマンとジーヴァを明確に分けた方がわかりがいいと思うのです。

アートマンに修行は不要で最初から悟っている。まあ、それはいいでしょう。しかし、ジーヴァとしては普通に修行が必要、とした方がスッキリすると思うのです。