この思いが天に届けと願いを捧げる

2022-03-20
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

この世に感謝しかなくて愛で全てできているとしたら、私ができることは祈りを捧げることくらいなのかもしれない、という気が最近はしてきています。

私はキリスト教徒ではないですけどキリスト教徒がよくやるように両手を胸の前で合わせて、遥か上に向かって助けを求める、それはいわば仏教の浄土真宗がいうように「他力本願」しかここから先に引き上げてもらうには方法がないような気がしております。

これはキリスト教などでよく誤解されるように他人への依存とかいうことではなく、天から降りてきている神様のエネルギーを信頼して全てを委ねる、という種類のものです。

キリスト教徒にしてもヒンドゥ教徒にしても仏教徒にしても祈りというのは重要とされていて、それは割と誤解されやすかったり具体的にどういうことなのか理解しにくいものだったりしますけど、ここにきて、祈りというのものがどのようなものなのか、少しづつおぼろげながらその実態が見えてきたようにも思います。

この種の祈りとか、天とか、神様とか、そういう言葉はよく誤解されやすくて、それは比喩的に言えば「光」だったりもするわけですけど、祈りは光だけではないですし、祈りは神様だけのことではないですし、その神様というものの実態も誤解されやすい言葉だったりするわけです。

ヨーガではよく「瞑想中に見えたり聞こえたり感じたりするものは重要ではない」みたいなことを言いますけどそれはサマーディ以前の人向けの注意のお話で、サマーディ以降は瞑想中に見えたり聞こえたりするものはそのものズバリそのものであるわけです。

サマーディ以降であれば瞑想中に見える光の存在はそのものズバリ光の存在でありますし、ハイヤーセルフとの繋がりも重要なものです。サマーディ以降に見聞きするものは全て真実で、ですからもちろん重要で、ヨーガがよくいうように「重要ではない」なんてことは全くないわけです。

最近の感覚は、言葉に表現しようとするとヨーガが「気をつけなさい」と言っていることそのものズバリになってしまって、言葉通りを解釈してしまうと重要ではない、ということになってしまったりもしますけど、これは割と、修行者に向けた罪のない嘘のようなもので、本当に重要だからこそ、重要ではない、と言ったのではないのか、という気もしております。

確かに、修行の最初においてそれっぽくイメージしてしまうことはあって、それをたしなめる効果もあるにはあるとは思います。ヨーガで言われているように「瞑想中の光とか音とか感覚は重要ではなく、神様のような姿を見たとか、そういうのはまやかしであり、重要ではなく、修行の進展を止めてしまう罠である」というお話はあるにはあって、想像でそんな気になってしまう人は割と多くて、確かに、一般的にはそういう注意は効果的かと思います。

とは言いつつも、最近の私の感覚は、とにかく瞑想中の光の存在が神々しくて、ただ「ありがたい」と願うだけの、「愛、それのみ」の瞑想をするだけで割と満足しているような状況です。

そのように、「愛、それのみ」の瞑想をしていると、その思いが次第に近くのものから斜め上方の天の方にまで広がっていって、視点が斜め上になり、特にそれと意識が自然に「願い」あるいは「祈り」のように変わってゆくのです。

この状態で瞑想をしていると、まず基本として感謝が湧き上がってきて、それ故に「愛、それのみ」の状態になります。そして、その愛の源は、というと、まず自分のハートが反応して愛が湧き出ている、ということが基本としてあるわけですけれども、その自分を遠くからずっと見守ってくれている存在が天の遠くから見下ろしているのを感じるのです。

そうなると、私のこのハートに溢れる愛を、遠くからずっと見守ってくれている存在とは何だろうという思いと、自分のハートの愛がその見守ってくれている存在にまで届いてほしい、という願い、あるいは祈りのようなものとが合わさったような感覚になって遠くの天の存在に祈りを捧げているのを感じるのです。

私のこのハートの愛への道をずっと導いてくれた天の存在、その存在に向けて「導いてください」と祈りを捧げるわけです。

キリスト教徒だとそれを主とかいうのかもしれませんけど私の場合はそのような一般的な存在とは思わなくて、単純に、私が分霊として別れる前の大元であるグループソウルがそこにいて見守ってくれている、と感じています。キリストとか主とかそういうのは分かりません。私の場合、グループソウルとは言ってもそれ自体で普通の人格を持っていますので、普通の意識体、ただしオーラの総量としては私より遥かに多いわけです。そのグループソウルがことあるごとに私を導いてくれている。それがわかるからこそ、自分が分霊として生まれ出た大元であるグループソウルに向かって導いてください、と祈りを捧げるわけです。

それを他力本願と言えばそうかもしれませんし、キリストあるいは主への祈りというのならそうなのかもしれません。あるいはヒンドゥ教徒がいうようにバガヴァーンへの祈り、と言えるかもしれません。言い方はあまり重要ではなくて、実態として、ハートから溢れる愛を感じて感謝と共に天に向かって祈ることができれば今は十分であると感じます。

それはまるで、遠くの星から来た人が宇宙船が壊れて帰れなくなって空を見上げながら故郷のことを心に描きながら、毎日悲しく思いを捧げて祈っていることにもどこか似ているようにも思います。いつグループソウルに戻れるのだろうかと思いつつも、それでも日々はそれなりに愛と感謝で充実していて、充実はしているものの、故郷を思うとどこか悲しく感じて祈りを捧げてしまう、そんな思いにもどこか似ているような気が致します。

子供の頃に見たアニメで、祈りを捧げるように「君に届け」と言っている歌詞があった気がしますが、その情景にもどこか重なって「天(グループソウル)に届け」と祈っている感じでもあります。