光の柱が私の前寄りに半重なりになって立っている

2022-03-08 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

私の体の前半分と重なるように、その重なり部分が半径になって、私の体のちょっと前寄りに私に半分重なるようにして光の柱が私の膝くらいから頭の数m上くらいまで伸びているのを感じます。

私には完全には重なっていないようで、少し重なってはいるものの、別の光の何か、のように認識されます。

それは感覚としては「光」として認識され、光が「見える」と言えばそうなのですけど、単に外側の光を認識している、と言えばそうなのですけど、環境光のように周囲が明るい、という感じではなくて、「光が柱として存在しているのが見える」という感じなわけです。

ですから、光が環境光あるいはスポットライトのように光って見える、というのは瞑想で静寂の境地になったときは割とはっきりと見える光なわけですけど、この場合の光としてはそのようなものとは違い、光が柱になっているのがわかって、大きな違いとしては、環境光やスポットライトとしての光は自分の眼球に張り付くように視界そのものが光として認識されるのに対し、このような「光が柱として存在している」という場合は、光というものが、まるで物体のように、自分の眼球に張り付く光としてではなく、物体として、三次元の物体かのような光の柱として認識されるわけです。

ですから、そのことを「光を見た」とか「光の柱」と表現することもできますけど、それを文字通り解釈すると「視界が明るくなったのかな」とか思われるかもしれませんけど、この場合、光を見た、というのは、光という物質を見た、という方が適切かもしれません。

比喩的に「光を見た」、ということもできますけど、それはつまり、「光に包まれている塊あるいは柱」を見たということであって、その塊あるいは柱とは何かというとそれは解釈次第になるわけですけれども、光の柱と解釈することもできますし、あるいは意識を持った何かであると解釈することもできるわけです。

それは瞑想的に単に解釈すれば光の柱ということになりますし、スピリチュアル的に解釈すれば意識を持った何か、と解釈することもできます。

意識があると言っても顕在意識としての意識はほとんどなくて、あるとすればそれは「愛」そのものであって、「愛、それのみ」という意識だけがその光の柱に存在します。

その光の柱が私の前面、半分くらい重なっていて、それが上の方にまで伸びているのを感じます。

その愛の光の柱は、比喩的に言うのであれば、まるで子供がお母さんのお腹にしがみついて愛をただ感じているかのような状況ということもできます。

その光の柱は実のところ私のガイドの存在なのかもしれなくて、そんな気もしますが、瞑想中にその光の柱と重なることで「愛、それのみ」の自覚を深めることができます。