感情をサハスララで昇華する

2022-03-04 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想でサハスララに意識を集め、オーラを集中させます。

段階としてはその前にアジナに集中したりサハスララにオーラを集めるという段階を踏むわけですけど、最初からサハスララにオーラが集まる場合はそうします。

そうしてサハスララにオーラが集まってくると、身体中に眠っていてその発芽を待っているカルマの種子が少しづつサハスララに移動し、サハスララで昇華して別のもの、それは「全体」と言って良い「何か」に「繋がって」、その、繋がったことによりカルマの種子が昇華して全体に溶けてゆくのを感じます。

その、元々のカルマの種子がサハスララ経由で全体に繋がって溶けてゆく時に、種子たる所以となった根源に紐づいていて発芽を待っていた「感情」が溶け出して、一時的な、軽い「感情」となって「全体」が感じていることを知覚します。

その時、「自分」という体を主体とした個としての自分が感情を知覚しているという面もあるにはあるのですけど、サハスララを経由して「全体」に溶け込んでいる時には、そのカルマの種子が溶ける際には、その「全体」の方が種子に眠っている「感情」を全体の意識として知覚しているように認識できるわけです。

サハスララが「全体」と繋がっている時、繋がっている先は「全体」であって、繋がっている元は「個」としての自分なわけですけど、その時、個としての自分の知覚もあるにはあるのですけど、割と「全体」としての知覚がそれなりにあって、とは言っても自分以外のことは具体的にどうだというのはそこまではわからないわけですけど、「全体」としての悲しみ、喜び、とが一体となって近くできるわけです。

それは、様々な感情が満遍なく行き渡っている、という状態で認識されます。

ですから、それは例えるならば
・喜びが、あるような、ないような
・悲しみが、あるような、ないような
・慈悲が、あるような、ないような
そんな「全体」の意識が知覚されるわけです。

それを前提として、自分の中に眠っているカルマの種子がそれら「全体」に溶け込んでゆく時、「全体」としての知覚が自分の中に眠っていた種子を認識する際に割と上記と同じような感覚で、「喜び、あるいは、その他の感情が、あるような、ないような」というように知覚しながらカルマの種子が「全体」に溶け込んでゆくのを感じます。

全ての感情が、あるような、ないような、そんな感覚で瞑想をしていると、明確に喜ぶわけでもないですが喜びがあるようなないような、明確に悲しんだりするわけではないのですけど悲しみがあるようなないような、明確な慈悲があるわけでもないのですけど慈悲があるようなないような、そんな感覚で感情を知覚するように思います。

それはおそらくは「全体」としての認識がそうさせているわけで、そのような状態になると、割と幅広い出来事に対して「まあ、いいか」という感じで、受け入れの幅がかなり広がるように思います。元々私は割と受け入れの幅が広い方だったかなと思いますけど、ここにきて、更に広がったように思います。

あるような、ないような、というお話で言うと仏教の禅定の非想非非想処(ひそうひひそうしょ)でも似たようなお話がありますけど、割と似たお話なのかもしれません。このお話で言うと少し前にそれっぽい状態を瞑想中で認識したことはありますけど、最近の場合で言うと、瞑想中だけでなく日常の生活の中で割とそんな感覚が続いていると言う違いはあります。以前は座って目を瞑った瞑想中に一時的に知覚していたのに対し、今は、目が覚めた日常生活で割と同じような状態が続いているわけです。

この状態はゴールの悟りだとは思っていなくて、何かまだあるな、と言う感覚はあります。