感情や光および歓喜を否定する教え

2022-02-06
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ヨーガ系には、感情面や光および歓喜などは全て重要ではない、とする教えがあります。それは大元を辿ればヨーガ・スートラに辿り着きます。

しかしながら、その読み方について文字通り受け取ってしまうと禅のようにいわゆる「魔境」を毛嫌いしてその階梯を良くないものとして避けるようになり、結果として、その先の段階に永久に辿り着かない、みたいな悲しいお話になってしまっているように思います。

実際には、これら感情面の喜びや瞑想の中での光、及び更に極まった歓喜、至福、自然に沸き起こる絶大なる感謝の気持ちなどは通過点であって、通過点だからと言って軽視していいものではなく、他に道があるわけでもないのですが文章を文字通り読んでしまうとその道は避けるべきで重要ではない、みたいに勘違いしてしまうことにもなってしまうわけです。

きちんと教えられている流派においてはこれらの感情面や知性面、光や歓喜の段階はしっかりと向き合って正しい教えの元にきちんと見守ってくれる指導者の元で注意深く通り抜けるべきだ、と教えています。

一方で、文字通り「重要ではない」と勘違いしてしまった流派、それは例え師匠や師範代のような人がいるところでも起こっている勘違いでありますけど、文字通り重要ではないとしてしまったが結果、そのような現象が現れると毛嫌いして「そんなことは下級の出来事だ、経験だ、本質ではない」みたいに言って否定のオンパレードになってしまったりするわけです。やもすれば、そのことで修行者同士のマウンティングが始まって、そのような経験をしたと誰かが話そうものなら他の人が得意げになって「そんなことは重要ではない」などと鼻高に語ることで自分のことを上に見せるかのような姿勢が度々見て取れるのですけど、そもそも勘違いしているからそんなマウンティングし合うような愚かな状況になってしまうわけです。

正しく理解しているのならば、そのような感情面の表れあるいは光の体験、至福の体験などは誰しもが通る道であって、それ以上のものでもそれ以下のものでもないわけです。毛嫌いするものでもなく、注意深く通り過ぎればいいわけです。お互いにマウンティングし合うことでその段階に入ることができなくなり、成長が止まってしまっているような人もいるように私には見えます。

例えばとあるヨーガのそれなりの指導者っぽいポジションにいた人がこんな感じで、誰かが「光が見える」とか「チャクラが」とか言おうものなら怒り出して「あなた方はそんな段階にはないから。そんな光など重要ではないし、チャクラなど貴方のレベルでは気のせいで、単なる想像にすぎません」みたいな、ヨーガの人から割とよく聞くセリフであるこんな感じのことをまたそこでも聞いたわけですけれども、一体誰が言い出したのか、同じようなセリフを日本でもインドのリシケシでも何度か聞いたりするのは面白い状況です。

私の見たところによるとその根源はヨーガ・スートラにあると記憶していたのですけど、ちょっと探したところそれっぽいところを見つけられませんでしたのでまた機会があったら見つけてみたいと思います。