バクティでヴィパッサナー状態に至る

2020-03-14 記載
トピックスピリチュアル

ヨーガではカルマ・ヨガという奉仕の道が推奨されており、その先に礼拝するバクティがあります。カルマヨガで奉仕をするうちに奉仕の対象までもが神格化して現れると言います。

その時、バクティはヴィパッサナー状態のように無心になって対象と自身の区別がつかなくなります。それはサマーディ状態と同じことです。奉仕が主体なしに目的なしに自動的なものになり、必要だから行う、という単純な、それでいて当然のものになります。

そのことを、バクティの人は奉仕だとか神格化だとか礼拝だとか表現しているのかな、と思うのです。

ヨーガでカルマヨガの奉仕をしている人を見ていると、特に最初は迷いが多くて、本当にこんなことをしていて意味があるのだろうか、と思い悩むことがあります。その悩みは当然で、本当の意味を理解していないか、あるいは、きちんと説明されていなかったりするようです。

NPOのボランティアとかですと奉仕や現状へのストレスおよび必然性からの要望がモチベーションになったりしますけど、いわゆるボランティア疲れというものがあって、それはヨーガでのカルマヨガの疲れと共通している部分があるような気が致します。

NPOのボランティアは割と救いがないと言いますか、宗教的な考えなしに無心の心に辿り着くことはなかなかないのではないかと思います。ボランティアで長く続いている人は何がしかの宗教的バックグラウンドがあると思います。あるいは、私なんかはボランティアにしばらく関わり合いましたけど、見た目上は奉仕しているように見せかけて利益を目的にしている団体なんかもありましたね。ですから、NPOは救いがあまりないかな、という気がします。宗教的な思想のバックグラウンドがないとNPOは方向性を見失うと思います。一部はそういう思想があったりしますが、そういうところは海外発祥が多い気が致しました。日本は変なところで唯物思想が蔓延っていますよね。

一方、ヨーガでのカルマヨガの本質は奉仕ではなく、最終的な悟りが目的ですので救いがあります。奉仕を目的にしてしまうと実際、奉仕の対象というのは限りがなくていつまで経っても終わらず、永遠に問題が解消しないというジレンマに陥ってしまいます。NPOはその点、救いがないです。基本的にNPOもカルマヨガも「解決」のない問題に取り組むことが多いですが、NPOは解決できないのに永遠に取り組んでボランティア疲れになって去って行き、一方で、カルマヨガも真実を見出せなければ疲れて去っていきます。それでも、カルマヨガの方には救いがあると思います。

ヴィパッサナー状態に至るためにはいわゆる心を浄化する必要があって、バクティの人は奉仕と集中で浄化するわけです。ラージャヨガの人は瞑想で浄化するわけですけど、割と同じことです。モチベーションとしてどちらを取るかという違いがあるくらいだと思います。

見方によって階梯のつけ方が違っていて、バクティ的に言えば理屈ありの奉仕から無心の奉仕へ、となり、ラージャヨガ的に言えば雑念の多い集中状態から雑念のほとんどない無心の瞑想状態、いわゆるヴィパッサナー・サマーディ状態にどちらにせよ辿り着くわけです。

説明する人によって、瞑想なんて必要ないと言うかもしれませんが、やっていることは割と似通っているように思われるのです。

カルマヨガはその点で救いがありますが、NPOは救いがなくて、ボランティアの無償のパワーをNPOが吸い取ることでNPOが存続するという方程式になっていますからエネルギーがなくなったボランティアは捨てられていきます。一部の親分は自身のエネルギーを無償のボランティアスタッフから頂いて君臨し続けるわけです。まあ、そうではない団体もあるかもしれませんが、私が見てきたのはそういうところが多かったです。それでも、エネルギーをもらい続ければある程度は無償のボランティアスタッフから感化を受けて、最初はボランティアスタッフを使い捨てくらいにしか思っていなかった親分が随分と心変わりすることもあったのは意外でしたが。そういう意味で、ボランティアスタッフは無償活動をしてエネルギーを与えるという役割を果たし、親分はそのような場を提供することで成長をしているのかもしれません。ですが、そうして成長できるのは割と例外的な人だけだったように思います。

NPOもカルマヨガも、最初は「奉仕することで感謝されたい」みたいな単純なところが動機になります。カルマヨガは続きがありますが、NPOはそこで終わりです。でしたらNPOボランティアより普通に仕事したらいいんじゃないかと私なんかは思ってしまいます。普通の経済活動の方がよほど人々を助けるように思います。お金を正当な報酬としてあげられますしね。相手の自尊心も奪いませんし、自立を助けます。

カルマヨガは続きがあって、瞑想もしながら無私の奉仕みたいな境地に至り、それは人によってはヴィパッサナーあるいはサマーディと呼ばれている状態なのですが、そこに辿り着き、本当の奉仕の意味を知るわけです。

ボランティアで宗教的意味を語ることがタブー視されている日本のこの状況で、しかも、ことあるごとに著名なNPO活動家が「思想なんかよりもエクセルシートの方が人を救う」と言って唯物論を語るこの現状では、海外のようにボランティアと宗教的意味を結びつけるのは難しいと思います。思想的にとても貧相な日本の状況は、それでも、現状の年寄りの世代が亡くなれば次第に若い世代の感覚で平常感覚を取り戻していくような気も致します。

それを待つこともできるかもしれませんが、既にカルマヨガではそのようなところが解決されていますし、そもそも目的が違っていますから、誰かを助けたいのであればボランティアとか言っていないで普通にお金を使って経済活動をするなりして助ける方がよっぽどためになると思っているのは上に書いた通りです。ボランティアなんて言って自分の行動に制約をかけているだけだと思います。相手のために一番ためになるのが何なのか選択肢を探した時にお金を使って経済活動した方がいいのであればそうすればいいのであって、ボランティアとかいう枠で選択を狭めるのは、ただ単に自分のわがままでしかないかもしれないのです。まあ、ボランティアは私はそんな感じに思っていますけど、ボランティアであれば目的は問題の解決ですが、カルマヨガでは行動を補助として自分が悟ることが目的ですので、似ていてもかなり別物になります。

とは言いましても、悟る人が増えれば究極的にはボランティアで解決したい問題もかなり解決するとは思います。それが本質というものだと思います。ですから、遠回りであったとしてもカルマヨガ等で悟った人を増やした方がいいとは思います。