ヨーガとサマーディとヴェーダンタ

2020-02-06 記載
トピックスピリチュアル

ヨーガとヴェーダンタは似ているようで微妙に異なる思想体系を形成しているようです。

ヨーガと言ってもインドに諸派があり、一般的にヨーガというと日本では体操やストレッチのことですがインドではヨーガスートラという古典に基づいた八支則(アシュタンガ・ヨーガ)のことを指し、ヴェーダンタはヴェーダの聖典の最後の部分にあるウパニシャッド(奥義)に基づく考えです。

インドでヨーガスートラとヴェーダンタは微妙に仲が悪い(苦笑)ように思います。

細かなことでいがみ合っているようですけど、私に言わせてみれば大した違いではないのです。まあ、遠くの喧騒という感じですが、最近ではインドで学んだ人がその対立や思想の違いを日本に持ち込んでいて、インドという対岸の火事をわざわざ日本に持ち込んでいる感もちょっとあったりします。

ヨーガの基本的な考え方は何度か引用しましたように「心の作用を死滅」させることで、その結果としてサマーディという心の平常状態および至福が達成されると言います。

一方、ヴェーダンタの諸派の基本的な考えは、悟るために心を死滅させる必要はなくてただ真実に関する知識を正確に知れば良い、と言います。

最近何度か書いていますように、サマーディがゾクチェンでいうところのシネーの境地なのかテクチュの境地なのかで見解が違うのですが、一般的にはシネーの境地であると理解されています。それゆえに、シネーの境地は最終目標ではないというヴェーダンタ諸派の主張は確かにその通りだと思いますし、実際のところ、ヨーガの人たちもシネーの境地に相当するサマーディが最終目的地だとは思っていないのではないかと思います。

現実には、心を死滅させるかどうかでヨーガとヴェーダンタで言い争いになったりしているそうです。ヨーガをしている人はヴェーダンタ派の心の乱れを指摘したり、逆に、ヴェーダンタ派はヨーガ派に対して心の死滅は不要であると説いたりします。

ですがまあ・・・・、私に言わせてみると、そんなのはどうでも良いです。シネーの境地を抜けてテクチュの境地に到ればどちらも同じであることを悟るわけですから、そんな言い争いしている暇があれば瞑想でもしたら良いのです(苦笑)

どちらにせよ心を制御できるようになるべきという点では両者は同意しているようですし、であれば、ヴェーダンタ派にとっても実際はヨーガは有用なものとして認識されているようです。ヴェーダンタ派の主張を間にうけてヨーガの訓練を辞めてしまう人もいるようですが、それはちょっと気の毒な人です。

ヴェーダンタ派にしてみればそのような境地に「何らの効果」も認めないこともあるようですが、そんな極端な話を日本に持ち込まないでいただきたいものです。そんなお話はインドでやってください(苦笑)

ですから、インドのお話を読むときは以下のように差っ引いて聞いたり読んだりすると良いと思います。

・ヨーガ派(ヨーガスートラ)のお話を聞くときは、サマーディで悟れるというお話を話半分に聞いておく。
・ヴェーダンタ派(ウパニシャッド)のお話を聞くときは、ヨーガの心の死滅は不要であるというお話を話半分に聞いておく。ヨーガスートラ不要論を話半分に聞いておく。アサナや瞑想が不要というお話を話半分に聞いておく。

このくらいがちょうど良いと思います。

そのくらい差っ引けばヴェーダンタの言う以下のお話も「ふむふむ」と聞くことができます。

ヨーガは目的ではなくて手段である。観念の停止は手段であるに過ぎない。ヴェーダーンタは、サマーディを得ることは悟りを得るために絶対に必要な条件ではない、といっている。これはしばしば、他者からは理解されない。(中略)彼らはいう、絶対者の自覚は、必ずしも人がサマーディに入っていることを意味するのではない。なぜなら、サマーディは、もしそれが心の状態であるなら、われわれは心を超えなければならないのであるし、また、単なる心の状態は、最高の状態ではないのだ。「霊性の修行(スワミ・プレシャーナンダ著)」

これはヨーガやサマーディに対する誤解を差っ引いて読めば確かにそうだと思わせるお話ですが、これを読んでヨーガは不要と思ってしまうのであれば残念なお話です。私にしてみれば、ヴェーダンタも目的ではなく手段ですけどね。どちらも変わらないです。視点が違うだけのことです。

主義主張が大事だと思っている人は違いに拘りますけど、どちらも手段ですから便利に使えば良いだけのことです。相手を手段だと言って自分の主張は違う、自分の主張は手段ではないと言っている時点でそのお話はどうなのかなあ? と思ってしまいます。

ヴェーダンタはアドヴァイタという非二元論的見解に基づいていますが、それによると以下のようなところが重要のようです。

非二元論的見解からは、われわれは自己の実在だけを悟らなければならない。他の一切のものは、単なる現れとして理解されなければならないであろう。(中略)ブラフマンのみが実在、他の一切はまぼろしと悟れ。(中略)知識の人は、サマーディにいようと、目覚めて世間で活動していようと、彼の悟りの性質には全く何の違いもないのであるる。それがが、非二元論者の主張である。「霊性の修行(スワミ・プレシャーナンダ著)」

これは視点の違いであって、確かにこのようなお話も理解できます。流派によって見解が違いますので、それをわざわざ指摘するのは野暮というものですので「ふむふむ」と有り難く聞いて自分の中である程度を差っ引いてお話を聞けば良いのかなと思います。

こういうのって、最初に言っていた人は正しく理解していますけど時代が過ぎて伝言ゲームになるにつれて真実から離れてゆきますのである程度は差っ引いて聞けばいいのだと思います。

私が見たところ、ヨーガスートラも似たようなことを言っていますし、最近の考察ではサマーディとヴィパッサナーは同じと言う理解にいたりしましたし、結局は目指すところはゾクチェンで言うところのシネーの境地やテクチュの境地なわけですから、どこから見たところで目的地は同じだと思います。

そもそもサマーディとは何かというお話の共通理解がないのにサマーディという言葉を聞いただけでヴェーダンタ的なお話でサマーディを否定してくる人がたまにいて、それはちょっとどうかなあと思うこともあり、日本では馴染みの少ないヴェーダンタ派でのインドの混乱を日本に持ち込んで欲しくはないなあ... と思ってちょっと書いてみました。

ヴェーダンタ派が心の死滅が不要と言っているのは最終的なテクチュの境地を目指すなら心の死滅は通過点に過ぎない、という意味なのだと咀嚼して聞くことにしています。その基本的な理解ができてしまえばヨーガの人もヴェーダンタのいうことが理解できるでしょうし、特に争う点もない気が致します。

まあ、最近もちょっと書きましたけど、主義主張の違いなんてのは所詮は趣味の問題ですから、自分の趣味にあった主義主張ややり方を選べばいいのです。成長するのも趣味ですし成長しないのも趣味です。ですから、こんな流派の違いなんて趣味の違いかなと思います。まあ、そのくらい気軽に捉えています。