瞑想状態の表現のポエム化

2019-12-17 記載
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

理屈で表現できることが減ってきて、次第にポエム化している気が致します。先日の意識の鎮まりに関してもそうですし、この種の瞑想状態は論理で表現しようとしても似たり寄ったりになってしまい、ポエム化してしまった気が致します。

意識の状態を定義できるものなどありはしない、と誰かがポエムしていた気が致します。ゾクチェンの詩でしたでしょうか。究極の意識の状態を定義できるものなどありはしない。ありのままを定義できるものなどありはしない。であればポエム化するのも致し方ないのかな、という気も致します。

瞑想をするにあたって初期は集中(サマタ)だとか観察(ヴィパッサナー)だとかが重要になってきますけど、意識が鎮まってきた場合はどちらも微細になってきて、集中している気もするけれども集中しているわけではない気もする、観察している気もするけれども観察していない気もする、そんな状態になってきているような気が致します。それは感覚が微細になってきた、ということではありますけど、言葉で言い表そうとしますとやはりポエムになってしまうわけですね。

もはや、この状態を表現するにはポエム化に頼るしかないのだとしたら、これ以上表現しても、私がかつてそうであったように瞑想系のポエムを見ても「なんじゃこりゃ」としか読者は思わないでしょうし、であればポエム化の表現は控えるべきなのか、それとも、それでもなんとなく書くべきなのか、微妙なところであります。

そもそもこのブログは読者向けというよりは自身の瞑想録という意味合いも強いですので、そうであれば、あまり気にせずポエム化するのもありかな、という気もしております。

そういうわけで、ポエム化するかもしれません。

あるいは、バガヴァッド・ギーターを読む方にシフトするかもしれません。

はたまた、記事の頻度を減らす可能性もあります。

どうなることやら。まあ、心配はしていないですけどね。