学校で優秀で頭の回転が速そうな人も意外にそうでもない、というお話
小学校の同級生で、医者の子供でIQがとても高そうな友達がいました。彼は学校で受講する知能テストらしき時間に高スコアを出していて、成績もそれなりに良く、塾とかでは先取り学習をしていて今は中学のをやっている、とか話していました。
さてそんな友達が高校に入って遠くの進学校に行くことになり、ちょっとした下宿に住んでいたようなのですが、ある時電話がかかってきて、ふと、その友人のところに休みに遊びに行くことになりました。
その友人は当時ですからまだ電車の回数券を持っていて、ちょっと余るから買わないか、と言ってきたのです。10回分の値段で11回分乗れる、というあれです。今の人はもう知らないかもしれません。
1枚の値段は実質11分の10です。とは言いましても、普通の人はそんなの計算しないのかもしれません。私は友人からその話を聞いて、頭の中で計算をしました。
- 友人は今、利用価値として正規運賃分だけ使える券を1枚持っている
- 友人は今、取得原価としては正規運賃の11分の10の券を1枚持っている
- 正規の値段で私が1枚買うならば、丸々友人の得
- そもそも、余っている、というくらいなので、使わなければ友人は丸々1枚分損になる
- このとき、既に友人は損をしていないので、値幅としては0円から正規料金の間に設定できる。
注:友人自身も1枚使うので実際はもう1枚あるのですが、それはひとまず除いて考えます。
さて、そのとき、私はどうしたか。
頭の中で計算をし、正規料金の11分の10の値段で売ってくれ、と言ったのです。
いや、我ながら、なんともめんどくさいことを言ったものかと今なら思います。小銭が出てきて面倒ではありませんか。ですが、とにかく、当時はそう言いました。
そうすると、その頭の良いと思っていた友人は何やらイライラし始めて、よくわからんが、という表情で「○○円だ」と言ってきたのです。
いや、わからないですかね? 私にとって彼は頭が良い人だと思っていて、であれば、このくらい、わかりそうなものですが。
これって、難しいこと言っていますかね?
正規料金の11分の10がわかりにくければ、単純に、「既に回数券で儲かっているのだから、1割くらい安くしてくれ」とでも言えば良かったのかもしれません。こちらの方がよほどわかりやすいですよね。そういう小回りが当時は効きませんでした。
でも、対等ということを考えたならばやはり、元の価値を11分の10する、というのが正しいと思うのです。
ここで選択肢が生まれます。
- もう自分は損をしていないのだから無料であげる
- 元の価値に即して11分の10の価値で譲る →私はこれを提案した
- 額面の価値として正規料金で譲る
このあたりの違いが、頭が良い筈の友人の中で、当時、考えが及ばなかったのかもしれません。頭が良いとは言っても高校生ですから、そんなものかもしれません。
あるいは、単に、あまり考えていなかっただけかもしれません。
それほど悪気があったわけではなく、単に、内容を理解できなくてイライラしたということかなと思います。自分がまだ考えていない話をされると理解するコストが頭にかかりますので、急に言われて理解が進まなくて苛ついた、ということかなと思います。
他者や商売であれば正規料金で売るのが普通だと思います。そういうものです。バルクで大量に仕入れて小分けで売るわけで、それを正規料金で売るのか安く売るのかは販売業者が決めるわけです。
ただ、友人間であれば、そちらではなく、対等か、あるいは相手が得をする方を選ぶべきだと思うのです。
後から思えば、私の提案は、回数券の総購入額を11枚に均等配分した1枚あたりの取得原価で譲ってほしい、と提案したことだったわけです。当時はそんな会計とかそんなことに考えが及びませんでしたけど。会計的には、かなり明快な原価譲渡なわけです。
となれば、今から思えば、「友人間なら利益を乗せず、原価で譲るのが対等だと私は考えた」、とも言えるわけです。
世の中を見ると、友人や同級生などを相手に自分の利益を得ようとしている人が大勢います。例えばホームパーティーをすることで参加料を集めて自分の利益を多分に作ってよそで儲けを自慢するとか、そういう人も割と普通にいたりします。宴会で幹事は無料にして他の人から取るとか、そういうことをする人も割とざらにいます。それはというと、対等なのか、あるいは、商売の相手として見ているか、という違いです。
まず大前提として、この違いがわからないのであればお話になりません。
違いがわかった上で、では、友人から儲けていいのか、というお話になります。
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そもそも違いを認識していない人(論外)
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違いを認識している人
- 他者を利するようにする人
- 対等で、どちらも損も得もしないようにする人
- 相手から利益を得ることを当然と思う人
お金が絡んでいたとしても、お互いに商売をしていて取引があって互助になっているのであれば対等ということにもなりますが、片方だけ利益を得ている状況は非対称になるわけです。
友人のふりをして商売をすることが普通になった社会
昔は割と、商売とそれ以外が明確に分かれていました。少なくとも今よりは、商売であることが表面に出ていたように思います。現代では、商売が友人関係や日常的な交流の姿を取ることが増えました。
今、世の中を見て、前の世代より現代の人の方が貧乏になった、という実感を持つ人は多いかと思います。それは様々にあるかと思いますが、その一旦として、この、友人のふりをして利益を享受する構造が普通になったことがあると思うのです。
起業において、起業家が友人戦略を取っていることがあります。そうして従業員に「楽しく」働かせておいて、実のところ、株は起業家がしっかりと握っているのです。そうして人々を陽気に働かせておいて起業家は自分だけ株を売却し早期リタイアする、というのが起業の一つの型になっていたりします。要は、油断させておいて利益を取ることがあるのです。そうではないこともありますし、見分けはつきにくいです。少しの利益を分け与えてそれで十分と思っている場合も多々あります。起業家が得ている利益を知らないから従業員当人は今で十分と思っている場合もあります。それが、情報の非対称性です。問題は、仲間意識を強調して通常以上の献身を求めながら、所有権や売却益の偏りについては説明しない場合です。
別の例では、誰とは言いませんが有名なインフルエンサーたちが友人のふりをして普通に商売していますよね。そこに、利益の非対称性があると思うのです。要は、友人として立ち振る舞いしつつ商売相手として視聴者を見ているわけです。見る人が見ればその非対称性と踊らされる視聴者との関係の気持ち悪さが見て取れるわけですが、そこはあまり皆さん気にしておられないようです。
立ち位置として、友人ポジションになることで普通では得られない協力や利益を相手から得られることになります。
私的な関係にいる人は、自分の行動を逐一金銭換算しません。相手の役に立つことや、一緒に何かを経験すること自体を価値として受け取ります。ところが、相手だけがその関係を経済的利益に変えている場合、そこに非対称性が生まれます。
情報の非対称性があり、企業はより多くの情報を持っている。しかし、一応は対等という建前で商取引がなされる。そこで個人は「知らない」ことが沢山ある状態で商取引します。その一つが、友人かのように振る舞っていた人あるいは企業が、実は、自分を顧客、収益源、データ源として見ていた、という事実です。
経済論理ではないところに生きる人こそが狙われる社会
このような状況では、経済の論理とは離れて生活している人こそが、友人を装った人によって狙われることになります。ここに情報と認識の非対称性があります。
経済論理で生きていないから、自分の行動が他者にとって価値がある、ということを認識していない、あるいは、そもそも考えたことがない。そうして、他者のために動かされ続けるわけです。
だから、単に、経済から離れるだけでも解決にはならないのです。
では、どうしたらいいか
経済の論理を、友人や仲間の中に持ち込ませないこと。あるいは、経済の論理を持ち込む人を見分け、必要なら関係の条件を変えること。
ですので、友人や仲間のように見えて経済の論理を持ち込む人には注意が必要です。ただ、それが当人にとって必ずしも意識的ではなく無理解による場合もあるわけで、それは考慮が必要です。
世の中には、全てを金銭で換算して考える人がいます。あらゆる関係を交換と損得で捉える人です。そのような人を排除するわけではなくて、相手が金銭の論理ならこちらもある程度は金銭の論理で対応すれば良いのです。ただそれだけです。やりたくなければやらなければいい。そういう人とはなるべく付き合わない、というのも選択肢のうちに入ります。
個人的には、「援助」とか「人助け」みたいな話はあまり信用しません。若い頃に5年ほどNPOやNGO活動と関わって環境活動やら平和活動などを見てきましたが、なかなか胡散臭いお話も山ほど見てきました。若かりし頃です。もちろん、すべての団体がそうだとは思いません。しかし中には、仲間のように振る舞い、公益を掲げながら、実際には他者の善意と無償労働に依存している団体もあります。ただ、そのような活動を通じて、私のように理念と実態の違いを学べることだけは、良い面と言えるのかもしれません。
ただ、AIを活用する人が増えれば、個人も契約や相場、利益構造を理解しやすくなり、情報の非対称性の一部は縮小していくかもしれません。。
資本主義も、悪いことばかりではありません。資本主義には、実力や成果が身分に関係なく報酬につながる可能性があります。実力に応じて報われる、という状況をもっと増やすべきです。
頑張っただけで報われるのではなく、実力の方です。努力の方ではなく、実力です。
ただ、今後は、その報われ方が必ずしもお金ということにはならないかもしれません。お金以外の比重が増えていくように思うのです。
一方、今は資本の価値がよくわからなくなっています。通貨や資産の意味が変化し、単に資本を保有しているだけで優位を保てる時代が続かなくなるかもしれません。そうなると、今後、意外にも、実力主義という意味での良い面での競争だけが残る、というシナリオも、もしかしたらあり得ます。
そうすれば、家族、友人、相互扶助を前提としたコミュニティでは無償あるいは相手を利する活動をしつつ、競争する場面では資本主義で頑張る、という、資本主義のいい面が生かされる社会になる可能性があります。
今は、経済の論理に飲まれないように気をつけつつ、実力が見られる社会を作っていければ世の中は良くなるかもしれません。
そうなってほしい、という、一つの可能性として考えています。