スピリチュアルあるあるのお話として、「思考を止める」ということを金言のようにしている一派あるいはそう信奉している人たちがいます。それはそれで自由にして頂ければ良いのですが、時に、それこそが至上の命題かのように他者に説くことがよくあるわけです。あたかも、それさえすれば全てが解決、と言わんばかりです。そして、その結果はというと「気持ちよくなること」「楽になること」という程度のお話だったりします。そのようなお話であれば、他にいくらでも方法があって、古来からの方法であればキリストに祈るだとかガンガーで水浴びをするだとか沐浴をするだとか、いくらでも方法があるわけです。そして、その結果があくまでも「感情」の次元であれば、それは、求めているものがそのくらいのレベルでしかないということです。であれば、「思考を止める」ということにより「気持ちよくなる」という結果が得られ、それはそれで満足でしょう。そして、あたかも全ての人がそれを求めていてそうしなければならないと思い込んでいるばかりか他者に対してそのようにすることが当然かのごとく説く人たちが一定数いるのです。口癖のように「考えすぎ」「そんなことはない」「思考を止める」ということを言い、思考を止めてこそなんぼだ、という、それが出発点かのように捉えている人が一定数いるのです。それはというと、低次元の世界に留まっていて、高次の世界を知らない、低次の世界の自分が高次の誰かによって救われるのを待つ、という、受け身の姿勢、あるいは、低次の世界から高次の世界に働きかける努力をするという二元性のある世界観でしかないのです。それはワンネスを口で説く場合もあれどワンネスを本当には知らず、ワンネスを否定することすらあります。それはというと低次の自分の否定が高次に繋がる、ということで、それは、低次と高次とか分断されているのです。それは霊能力者としては素質があるかもしれませんが、低次と高次とが分断している状態ではチャネラーにはなれても悟りの世界へは入れないのです。
では、高次とは何か、というと、それは「意識」です。想念も意識の一部ではありますが、意識が「存在」しているのが高次の世界です。それは最初から存在しているが故に消えることもなく生まれたこともない変化もしない永久たる意識であるわけですが、それが高次の世界の正体です。それはワンネスでもあるのですが、ある程度の高次にならないとワンネスにならないので、過渡期においては限定されたワンネスになります。
そのように、低次の世界は分断されていて想念にしても意識にしても「止める」だとか「繋がる」だとか、分断および二元性のある状態になっていわけです。一方、高次の世界になりますと全てが「ある」状態になりますから、その状態では、想念が動いていても動いていなくても関係がないのです。思考が止まっていようが動いていようが関係がないのです。と言いますのも、その背後に常にあるのが「意識」だからです。それが高次の性質でありますから、そこに「思考を止める」などというものが関係するわけもないのです。ですから、思考を止めるだとか考えすぎだとか思考がループしているだとか、そのようなお話は確かに低次の性質としてあるわけですが、かといって、高次の性質はそのようなものとは無関係であり、低次の方が思考していようがいまいが、高次の意識は常に存在しているわけです。ですから、思考を止めることがそこまで重要でもないのです・・・ と言ってしまうと語弊があるのですが、瞑想やスピリチュアルな修行の初期の段階においてはそのような行為が有効になることもあります。そうすることで、思考していない「隙間」に現れてくる高次の意識をつかみ取るのです。ですが、一旦高次の意識が現れてきたらそこに思考があるかないかなどは関係なく、思考がない時にもあるときに常に存在しているのが意識なわけです。思考がないときにだけ現れる意識というのは低次に一時的に現れた高次の反映のようなものであり、それを捉えたからといって、最初は重大なことかのように思うこともありますが、スピリチュアルな成長の本筋からいったらまだまだ初歩的な段階でしかないわけです。
そのように、スピリチュアルの初期には思考を抑えるという段階が一応は存在します。それは雑念が多すぎる時にそうするわけですが、よく瞑想のお話で言われているように、抑えようとすればそれは逆にエネルギーを得て想念が増大するのです。ですから、気にせず放っておけば良いのです。スピリチュアルあるあるで「思考を止める」だとかいうのは、要は、雑念を抑えようとして逆にエネルギーを与えてしまい、より大きな雑念となって帰ってくる結果になるだけなのです。霊能力者やチャネラーであればカウンセリングのために一時的に雑念を抑えようとしてそのようにすることもあるでしょうが、そうしたら後に、カウンセリングが終わった後にでもその雑念が強大なものになって戻ってきたりするわけです。想念を押さえ込むというのは本質ではなく、スピリチュアルの自称上級者たちがこぞって「考えすぎ」「思考を止める」などと言っているのは、当人たちはチャネリングや霊能力の能力が一時的に使えてご満悦かもしれませんが、そうして能力を使うためにテクニックを使うことで、その悪影響として雑念が何倍にもなって帰ってくるということです。時に、テクニックを使ってその想念を他人に渡してしまって自分は平気という迷惑な霊能力者もいたりします。そうして自分は健康を保つわけですが、そのような人はオーラが一見すると輝いていてもどこか不思議な輝きになっており、どこか不調を抱えていたりします。それは他者を犠牲にして能力を求めた者のカルマというものでしょう。そのように、思考を抑えるというテクニックは様々に悪影響があり、それより基本は「受け流す」方が良いのですが、往々にして人々は霊能力などを求めて手っ取り早いテクニックを好むわけです。この種のスピリチュアルな世界は自己責任と自業自得で成り立っていますから、自分が意識せずに行っていたとしてもそのカルマの結果は受け取ります。健康で素晴らしいオーラのように見える人が一瞬に体調を崩すのを多く見てきました。それは人によっては悪魔のせいにしたりもしますが、それは基本的には本人のカルマによるものなのです。
そのように、想念を抑えたり雑念をどこかに捨ててしまって浄化する方法というのは低次の方法であるということができます。
一方、高次の意識とは何かというと、意識的に意図を持って「意識・想念」を動かす、という段階です。まるで逆ですので、霊能力者やチャネラーは違和感を感じるかもしれません。それはというと、単に雑念が多いだけのように見えてしまったりもするからです。雑念というよりは、波動領域が広がって多くを受け取るのであれば、その識別や分別にも高度な分析が必要になるでしょう。単に流すだけなら初心者のやることですが、受け取った想念を解釈して、時に反応する必要があるわけです。
思考や熟考はたまた探求をすることがこの種の「動かす」ということです。
黒魔術はこの手法を利用して他者や現実を変化させようとします。黒魔術は他者のカルマに影響を与えると同時にそのカルマを受け取ってしまいますので後で酷いしっぺ返しを食らいます.それはと言うと、他者を動かそうとしたことにより、その他者のカルマを引き受けてしまうということです。それはというと黒魔術の術というものが低次元のオーラに基づくもので、それはカルマの種を内包しているのです。そして、他者を動かそうとするときに他者のオーラと接触し、そのことで、カルマが一時的に合一し、自分のカルマの一部が相手に渡り、一方、相手のカルマの一部が自分にやってくるわけです。相手からしたらいい迷惑で、カルマを勝手に引き受けさせられるわけです。これが、黒魔術が術を使っても自分に全ての悪いカルマが来ない理由で、術をかけた相手に自分のカルマを押しつけているのです。そして、何ともしれない他者のカルマを自分の方に引き寄せることをしているため、黒魔術のカルマは意味不明な状態となり、最終的には精神混乱となり、時に精神が崩壊するのです。黒魔術に手を出すべきではない理由はこれです。当人たちは黒魔術と言わずに白魔術と言ったりしていることも多々ありますが、スピリチュアルの世界は自己責任と自業自得で成り立っていますから、白魔術と思って実行した黒魔術によりカルマの交換がなされ、精神に問題をきたしたりするわけです。
そして、問題が起こるとヒーリングと称して他者とカルマの交換をして、やがて、運良く誰かがヒーリングを受けてくれると、その無知な可哀想な被験者とカルマの交換をし、やがて悪いカルマが大勢に分散されるとその大勢が迷惑を被る一方で、黒魔術師は楽になって助かるのです。そのような黒魔道士はカルマの交換のヒーリングによりカルマの悪影響を避けており、その一方で、無知な大勢がその尻拭いをするのです。こうして白魔術と自称する黒魔術を行うヒーラーが行き残るのです。そして、そのオーラはというと、とても玉虫色で、一見すると輝いているように見えても、どこか不安定で、何ともつかない感じになっています。この段階の存在は、黒魔術に限らず、他者のオーラを糧として生きている存在が大勢居ます。神と自称する力のある存在が、その部下およびカルトメンバーに対してオーラを集めるような構図になっていたりします。そして、そのようにオーラを集めた結果、実際にそれなりに力を持っており、それ故に、刃向かうと恐ろしい事が起きます。この次元の神というのはまだまだ低次元であり、高次の本来の神とは似ても似つかぬものです。例えばフリーメイソンあるいはテンプル騎士団が拝めていたバフォメットなどがそれです。(一応は光ではあるのですが、光というよりも)エネルギーとしての力に頼った存在です。
高次の神および意識というのは、そのような力の関係もあるにはありますが、その段階を超越しています。光に基づく神が高次元の神です。光はエネルギーでもあるのですが、低次の力としての側面よりも、光そのものとしての性質の方が強くなっています。その次元になると、意識というものはかなり単純化されます。しかしその一方で、意識の側面がより論理性を持って明快に表現できるようになります。感情を超越し、存在としての満ちているという側面および永続性の側面が出てきます。そうなると、「思考を止める」とか、そういうことはほとんど関係がなくなるのです。ですが、そのことをいくら話しても経験がなければ理解も想像もできないので、理屈でだけ色々といってわかった風になってしまうことを避けるため、あまり説明しない方が良いのかもしれません。
そのように、低次においては思考を抑える、と言う段階があれど、高次においては思考を抑えるどころか、意識を動かす、という、まるで逆の関係になるわけです。それは同じ階層のお話ではないですし、並列に並べられるお話ではないですけど、言葉の表現としては同じように聞こえてしまうことがあります。表現としては似ていたり逆であっても、個別の現象は全く異なる、ということを押さえておく必要があります。