私の理解するアセンションの三つの姿(統合・分離・それ以外)
<とりあえずファンタジーと思っておいて頂ければ良いと思います>
今後、地球がどのような方向に向かうのか。それを考えるために、まず「手放し」について触れてから地球の行末を見ていく方が理解しやすいかもしれません。
スピリチュアルで「手放し」で高次へ、みたいなお話はよく見られます。 そしてそれは分離の二元性(非ワンネス)になり得えます。
「手放し」結論
- 手放しというのは「結果」
- それがあたかも、手法であるかのように勘違いされている
- 『手放し→高次』ではなく、逆の『高次→手放し』の順序
「雑念を手放す」はまだわかりますが、「高次になるために手放す」と解釈して二元性の分離に嵌っているケースも少なくないように思います。
トラウマとか感情の「解消」が「手放し」で起こるとして、それは、比喩表現なわけです。比喩であって、本当に手放しをしていると思い込んでいるとしたら、それは分離である可能性が一定数あります。分離というのは二元性です。二元性というのは非ワンネスであるということです。
非ワンネス的な手法や理解を用いて「善と悪」の対立、「光と闇」の戦い、などをしながら自分はよく分かっていなくてワンネスを標榜しているような矛盾した方も割と見受けられます。
「手放し」→「高次」→「ワンネス」という誤解とやり方をして二元性の罠に陥っている方を散見するわけです。本当は逆です。手放しというのは「結果」です。それがあたかも、手法であるかのように宣伝されています。逆、と言うのは、高次になった結果として手放しが起こるということです。高次やワンネスのために手放しをするのではなく、順番が逆で、高次やワンネスの結果として「手放し」が起こると言うことです。手放しというのは「行動」ではないのに、あたかも、手放しをすれば何かが起きるかのようにスピリチュアルでは昔からそう広く理解されています。
更に、この種のお話でよくあるやってはいけないことは、「手放し」で他人をマウンティングし、価値観の操作、あるいは上下関係を作り出すことだったりします。そう言う行動をしている時点で自身が低次の視点にいるわけですが、本人はというとそれに気がついていないのです。
それはというと、個人としての感情や「個」というものを否定してそれ以外の純粋さを作り出そうとしていることがあるのです。その時に、一緒くたになって他人をも否定してしまっているのです。個人の感情の面を否定することで分離を作り出し、他者よりも自分が上だという固定観念のようなものが生まれ、エゴが喜びます。他者の「手放しできていない」(ように見える)場所を見つけるや、エゴが喜んで「よっしゃー!私の方が上だ!」と上機嫌になってドヤ顔で「手放しができていない!」などと指摘したりするのです。割とスピリチュアル初心者あるあるで誰しもが通る道のようにも思いますが、だからこそ、そう言う人は割と多くて相手をするのがめんどくさいですし、そういうのは側から見ていて恥ずかしいので他人にこの種のことを言うのはやめておいた方がいいと思います。
実のところ、この段階ですと、手放せば良い、と思っていること自体がエゴによる巧妙な自己容認になったりします。手放し、というのがドグマになってしまうわけですね。そうした思考を気にせずに集中状態(ゾーン)に入ることで簡単に突破できたりもするのですが、この段階で嵌っている人が一定数おられるわけです。
「手放し」を言い換えると「気にしなければ良い」「相手にしない」ということですね。波動が高まればそうなる、しかし、それは狙ってやるものではないということです。順番が違うのです。
瞑想の初心者あるあるですが、「私は瞑想ができています!」というエゴによる騙しは瞑想を始めた初期にありがちなものです。同様に、スピリチュアル初心者は「私は手放しができています!」みたいな勘違いに陥ったりします。実のところ、どちらも、実際にそうなってしまうまではわからないものなのに、頭でなんだか分かったふうになってしまうのです。考えすぎ、というものだったりします。そして、スピリチュアル初心者ほど課題に向き合う他者を幼稚だと判断する。マウンティングを取る。
オーラ的、チャクラ的に考えれば、特定のチャクラに問題を抱えている方は感情をうまく昇華することができません。そういう意味では、「手放し」とか関係ないとも言えるのです。手放しとかよりも、単純にチャクラの問題を解消すれば問題は解決するのです。チャクラはわかりやすい波動のそれぞれの段階です。一つでも上がればその分だけ高次になって、気持ちも楽になるのです。それを手放しといえばそうですけど、手放しは結果でしかないわけです。
それはというと、苦しみや悲しみというものを昇華する方法を知らないから「手放し」こそがその手法だと思ってしまっているわけです。スピリチュアルで頭でっかちな人にありがちな罠です。
ある意味無知なわけですが、それは、「高次」というものを理解していないからそうなるのです。マイナスの感情を「手放す」ことこそが高次へと至る道だと勘違いしているからそうなるのです。結果であるものを、あたかも手法であるかのように勘違いしているのです。
順番が逆で、高次の波動になることで、そのような感情が現れてもすぐに昇華されるのです。高次の波動が先で、感情の解消が後です。ですから「感情のことは一旦横に置いておきましょう」みたいなことが言われるわけでけど、それはというと、高次の波動が先だからです。ですが、それを何か勘違いして、感情が良くないものだとか捨てるものだとか手放すものだとか考えるのだとしたらそれはエゴの自己肯定にもなり得るし、そもそも理解が間違っているわけです。順番として「感情を捨てる」→「高次」ではなく、高次の波動が先で、感情の解消が後です。ここで言っているのは、「感情を一旦捨てたら、もうそのマイナスの感情は二度と現れない」ということではありません。生活をして他者と関わる以上、マイナスの感情は現れます。ですが、それはすぐに解消できるようになるということです。それは傍目には全く感情がなくなってしまったと見えるかもしれません。しかし、実際には素早く解消しているだけなのです。そして、その素早く解消する感情を楽しむことができる人こそ、人生を楽しめる人です。
一方、オーラの法則がありますから、他人から引き受けてしまった雑多なオーラをいちいち処理していたらキリがありません。自分の問題ではないものは受け取らない、拒否する、ということも必要です。人はあれやこれやと理由をつけてオーラとしての雑念を他人に押し付けようとしてきますから、「それは私の問題ではありません」と拒否することが必要です。これはある意味「手放し」と言えなくもないですが、元々自分のオーラではないのと、自分の課題ではないので、そもそも手放しというよりも「受け取らない」というだけなのです。手放しですらないわけです。それでも、ある程度は他者を感じる心はあります。その程度具合が必要なのではないでしょうか。
マイナスも含めて感情がなくなってしまったらそれはただの不感症はたまた精神分裂症です。もっと言えば、チャクラを閉じてしまった状態であれば感情というものはかなりなくなります。チャクラが開くと感情が豊かになるのです。その状態は「手放し」とは無縁とも言えます。
感情に関して言えば第2チャクラのスワディスタナが閉じていると感情に対して非常な恐怖を覚えたりします。ですから、非常に(感情の)「手放し」をヒステリーに言って他者にもそれを(暗黙に)強要する人がいたら、それはスワディスタナに問題を生じている可能性があります。「他人は自分を映し出す鏡」の如く、他者に自分の問題を投影してしまっているわけです。そういうこともあります。
この辺りの理解があまりできていないと、他者の感情的な面を見てすぐに「あの人は感情的になっている、手放しができていない、低次だ(低い波動だ)」と判断し、自分の波動の方が上だと思い込む、そして時に他者に対してマウンティングをする、ということにもなるのです。
感情の解消というのは、高次の波動になればなるほど瞬時に解決できるようになるのです。回復が早くなるということです。低次の場合は時に解消に何年あるいは何十年とかかることもあります。同じことが時に1週間はたまた半日、数時間、時に30分、はたまた瞬時にできるようになるのです。もちろん、物によります。それでも、一時的な感情というものは生じます。その、一時的な感情が全くないわけではないのです。それは、人というのは他者との関わり合いがあるからです。
高次、と言わずとも、単純に第2チャクラ(スワディスタナ)の問題が解消してチャクラが開けば感情的な問題はかなり解消するのです。第2くらいですとまだまだですが、それでも、それなりに解消はします。本当に解消に至るには第6(アジナ、サードアイ)はたまた第7(サハスララ)も開いた方が良いですが、それは、程度問題というものです。第2より第7の方が高次と言えばそうですが、そこは、あまり気にすることではないように思います。誰でも自分の段階というものがあります。比べる必要はあまりないわけです。
この辺りを勘違いしていると、他者の課題を見ては自分と比べる、その人が劣っていると判断する、みたいな二元性の罠にはまり込みます。
傍目から見て、他者の課題は当人の課題であって、自分(読者)の課題ではないのです。ですから、基本的には関わり合いがないのです。当人にしかその課題の意味と最終地点はわからないのです。
ちなみに今、私は、そのような個人的な感情の解決とかは今はそこまで興味がないと言えばそうなのですが、かつてそれが主たる課題だった頃はあります。ですので、思い出話をすることもあるのです。
グループの特徴を見極める
それより今私が興味あるのは、この地球に関わっている勢力にそのような各種の特徴があるグループがいる、という方です。であれば、それらのグループを理解するために、むしろ、違和感を手放さない方が良いのです。時に、めんどくさいグループもいたりします。それは、そういうものなのです。そこで「手放し」をしてしまうと興味を失うということにもなり、理解への機会を失うわけです。
地球の平和のために各種グループを知識として多少は知っておく必要があると判断することもあります。そのため、不思議な、あるいは違和感のあるグループのことも調べてみたりします。その時、あまりにもカルトや団体の考え方が不思議で引け目を感じてしまうこともあります。
たまに、この種のお話で「揺さぶられるのは精神が未熟だ」として、違和感もなく揺さぶられないのが精神的に強いかのように見るお話があります。しかし、それは逆で、一見すると揺さぶられない人というのは単純で、カルトに引っかかりやすいこともあるのです。違和感や引け目はあった方がいいのです。
その自分の引け目は何だろうと考えた時期もありましたけど、結局、その引け目は割と健全な感情でした。一見すると未熟さと捉えられてしまう面もあるかもしれませんけどそうではなく、批判的精神が働くと言うのは防衛機能であるわけです。一見すると「揺さぶられない」と思われている人が容易にカルトに引き込まれてしまうのは、実は見た目と実際とが逆であったりするわけです。一見すると揺さぶられることで自身がまだまだ精神的に未熟であるかのように見られることもありますが、一周回って、そのような感受性を未熟と思うこと自体、価値基準が画一的になってしまっている現れでもあることすら自覚して内省して、価値観を新たにする機会を得ているわけです。
それはというと、カルトにおいてはそもそもの価値観が歪んでいるため、そこで生じる劣等感や引け目は、その価値観によって「押し付けられた」ものでもあります。その場合、その解消方法は、その価値基準に従うことではなく、価値観そのものを見直すことにあります。
当初は、不真実に基づく劣等感を(時にそれと自覚することなく)「引け目」として感じていたかもしれません。それは、一般的な劣等感というよりも、違和感として現れた心理的な抵抗だったとも言えます。
よって、この場合の引け目とは心理的抵抗であり、自分の価値観が揺さぶられていることを示し、そもそも自身の価値観があるからこそ抵抗しているのであり、無批判にその思想に従わない印とも言えます。
そして感覚として抵抗および危険信号が働くというのはむしろ健全な印であり、自律的思考がそこに働いていることが見て取れます。
また、それは内面的な自己像が崩れることへの「エゴの抵抗」とは異なり、外部に対する違和感として現れます。
単純に、見た目通りだと判断するのか。あるいは、その見解を最初は得ても、それを内省し、本当にそうなのか価値観を見直すのか。そこに、精神的な成熟度の違いが現れてくるわけです。
結局、この種のお話の根本を辿ると、「強いか弱いか」という野生的な価値基準でものを見ている、というところに行き着くのです。人の心というものを単純化して見ており、「揺さぶられる人は精神的に弱くて未熟」という価値が生まれるのは「弱肉強食、強いものが偉い」という論理に根ざしているわけです。人は理性的になればなるほど一見して弱く見えることがあります。
精神的に未熟であれば野生的で強い、そして動じない強さとして見えることもあります。しかし、その種の、動じない強さとして見えるものが、実は心理的な脆弱性のサインであるわけです。
実のところ、元々野生的な人がスピリチュアルやカルトにハマる図式は、ある意味、なるべくしてなる場合も多いように思います。多少ながら真実を知ることで目覚めていく一歩が、そのような極端なグループに関わることだったりします。
様々なグループを見て引け目を感じたならば、その分析をします。そこで「手放し」をしてしまったら、状況への理解の機会を失ってしまいます。時間をかけてでも理解をして、解消をしていく方が良いわけです。そして一度理解したのならば、もうその課題や問題は繰り返さなくなります。卒業したからです。
この種の解消の仕方はそれぞれで、散発的に現象として現れたり心像として浮かび上がる種類のものもあります。継続することもあります。私は継続というのは今はほとんどなくなりましたが、時折現象面に現れたり、時折思い出して、であれば、それを整理するのです。そういう意味では、最終的な解決までには少なくとも私は解消に時間がかかるとも言えますが、他者との関わり合いがありますので、そこは大した問題ではないと思っております。スピリチュアルでよく言われているような「必ず手放しが必要だ」という前提ではないので、時に長く持っていることもありますし、特に解消が必要とも思われない状況も多々あります。
なので、きっと何度も何度も同じ話が繰り返されるわけです。お話の解決と謎解きにはまだまだかかるものもあります。ただ、謎が全て解決できなくてもさほどの問題ではないので、そのうち忘れるものもあります。大抵の場合、しばらく忘れていたお話が多いです。そのくらいのお話であっても懐かしくも思うこともありますし、当時の嫌な気持ちを整理するために言葉にすることもあります。
低次も含めてワンネス
そして、私は必ずしも「高次が良い」という立場を取っておりませんので、そこが読者にとって根本的な理解の齟齬になることもあります。
「低次を切り捨てて、高次」というスピリチュアルな考えは二元論に基づきます。何かを切り捨てている時点でワンネスではないのです。ワンネスというのは低時も高次も含めてワンネスであり、低次を切り捨てるのは分断を生み、時に善と悪あるいは光と闇という対立を生み出すのです。
その前提に立てば、切り捨てるかどうかとか、手放すかどうかではなく、もっとこの世界の実在に根差した、どのような存在がこの世界に関わっているかを理解する上で重要な視点を得続けることこそがこの世界に平和をもたらすために重要なのです。
もし、誰かが「そういうことを含めて手放しだ」というのなら、それはそれで当人の文脈で判断すればいいと思います。低次であってもそれはワンネスという前提の「手放し」もあれば、低次を手放すという意味の手放しもあるわけで、当人の解釈によるところが大きいわけです。手放しという言葉とワンネスという言葉の解釈は一定ではなく、幅があります。分離によるワンネスとして理解している方も一定数おられるわけです。
低次を含めたワンネスを公言しているのにも関わらず二元性の感情や観点に基づく発言が出てくるとすれば、それは言葉で自身を騙しているだけの可能性があります。エゴが存続するために、巧妙に理屈で騙してくるわけです。それは割とよくあることで、ある程度は致し方なくて防ぎようがないという面もあり、二元性の状態ではそういうものだと理解して、本当のワンネスに向けて探究を進めれば良いわけです。
二元性の状態では、「差」を悪いものとして捉えがちです。しかし、本来、差は価値判断とは別のものです。
また、感情を悪いものと考える人もいます。それは、エゴが自分を騙すことと感情とをごちゃ混ぜにしているのです。エゴが自分を騙そうとするのは割と良くあることで、その時、感情や理性を利用して騙そうとしますが、かと言って感情や理性そのものは悪くはないのです。問題なのはエゴが巧妙に騙そうとすることの方です。
そもそも感情というのは物事を理解するための道具の一つです。ヨーガでいうインドリヤ(感覚器官)です。道具を見てそれはエゴだと思うなら解釈にずれがあります。道具なのに(それをエゴだと解釈して)手放そうとするのは自然な解釈とは言えないわけです。
感情なのだから一時的なものです。自然と手放すのが普通であり、長くマイナスの感情を保持しているのだとしたら自分あるいは他者に何がしかの問題があるということです。感情というのは拾いますから必ずしも自身の問題であるとは限りません。ですから、他者の問題であればそれぞれのケースで対応すればよいのです。
道具である感覚器官を否定する必要はありません。道具なのにエゴだと思っているのであればその間違った解釈を直すことが必要ですし、エゴが道具として使っている感覚を悪者だと見做す必要はなく、エゴが自身を騙す構造こそ見抜くべきものなわけです。
エゴというのは、「私」という間違った観念のことです。ヨーガではアハンカーラ。それを、一部のスピリチュアルでは「感情がエゴ」かのように誤認されています。感情は感覚器官の一部、道具です。一方、エゴは本当は存在しない幻想です。全く違うものである感情とエゴが何故かごっちゃに語られるのです。
マイナスの感情があるのは、感受性があるからです。それはエゴではなくて単に感情です。自身だけでなく誰かの感情を拾う場合も多々あります。それをいちいちエゴだと解釈するのは不要です。何故なら感情はエゴではないからです。
エゴとワンネス
「ワンネスになるためにエゴを捨てる」みたいなスピリチュアルなお話は昔からよく耳にします。ワンネスが先で後にエゴが消えるわけですけど、もし手段として捨てることをワンネスへ至る手段だと間違って捉えると分離の心理になりがちだということです。
大抵、修行とかは、エゴを捨てる為の「(別の)手段」なわけです。手段としての修行があって目的としてのエゴの解消があります。
ですがスピリチュアルではエゴを捨てること自体が手段のように理解されていたりします。ですので、頭で理解しただけで自分が既にできていると勘違いしてしまうことがあるのです。
エゴも含めて世界を理解することこそが必要なわけです。それこそがワンネスです。そうしたらまやかしで実態のないエゴという概念は自然に崩壊します。
そして、何故このことが大切かというと、欲望やエゴを含めた低次の人間の感情を切り離して高次だけでこの世界を引率したために世界が分断し、破壊を免れなかったからです。
この違いは、一見すると分かりにくいかもしれません。本当に高次であれば低次のエゴは不真実で実態がありませんから自然と崩壊するのですが、エゴが残っている状態のまやかしで自身が高次だと自称して善と悪との戦いに突入したら、それはこの世界の破滅をも引き起こすのです。
高次と低次を切り離す、「手放す」ということこそが、争いを生みます。というのも、人間の欲望と高次の意思とが切り離されているからです。どちらかが、どちらかに歩み寄る、ということをしなければこの世界に平和は訪れません。理想的には両者が歩み寄ることです。理想的、と言いましたが、それは比喩で、実際には、両者が必ず歩み寄る必要があります。
そもそも「高次が良い」ということではなく、この世界は低次と高次が交差しているのだから、2つの視点と理解を繋ぐことが必要で、低次と高次との融合、自分の中で理解とオーラが融合(低次と高次の融合)する、そのようなところが必要であり、「低次を手放す」みたいなお話ではないわけです。
この種のお話は、スピリチュアルで「手放し」を強くすり込まされてきた人にとっては理解が難しいかもしれません。手放しをしている(ように見えるかどうか)が恐怖観念として自身の中にできていて、その恐怖を避けることが「手放し」だという条件反射的なものがあると、その暗黙の恐怖が他者にも強く伝播してしまうのです。それこそが非ワンネスであるわけですが、当人は「避けること」あるいは「低次を滅すること」こそがワンネスであると思い込んでいます。ここに理解と認識の齟齬があります。高次という概念で、意識が分離してしまっているわけです。
そういう人は往々にして、自分たちを「高次元のこっち側」として線引きしてしまうのです。それが分離です。
部分的には、そのように解釈してしまうのは辿ってきた歴史を見れば致し方ない面もあるとは思います。その歴史を踏まえて、その自身の理解を正したり、これからどうしていくのを決めるのはそれぞれの人に委ねられているのです。
世界を救う
世界が何故、何度も破滅してしまったのか。
何故、どうしてライトワーカーが動いたのに何度も地球がやり直しを強いられているのか。それを解釈すると、どうやら、そのあたりに鍵があるようなのです。
人間の欲望を肯定しなければこの世界は存続しないのです。
「手放し」では、かつてレムリアで起きたような、低次を切り離して高次だけのアセンションになってしまいます。そうなれば、また長い時をかけて低次の自分を助けるためのループに入ってしまいます。
今度のアセンションは、低次をも含めて完全なるアセンションにすべきなのです。
そうしなければ、また、高次が低次を忘れた分離の世界に長い間住むことになります。
それはもう、前回に分離のアセンションを経験した人は既に後悔している筈です。今、外の世界から来ていてそのような由来がある人は、低次の自分を助けようと決心してきていると思います。分離のアセンションは、かつてレムリアで起きたような長い悲しみを生むのです。
いわば、そのような悲しみから逃れるために高次への手放しというストーリーが作られた、とう面もあるかと思います。それは一時的には必要なことでも、本当に必要なのは低次の感情と高次との融合である筈です。
「手放し」を主張している当人は、自分は既にそのようなことを克服していると思うかもしれません。しかし実際には、「その時」になってみないとわからないのです。
その時、どのような結果になるのか。
分離によるアセンションになるのか、それとも、統合されたアセンションになるのか、あるいは全くアセンションできないのか。
そもそもこの時期のアセンションと無縁の人であればあまりこのあたりは心配する必要はありません。無縁な人はただ単にこの地球での生活が継続するだけです。ですが、完全なるアセンションを目指していて、この地球に低次を置き去りにするという悲しみをまた経験したくないのであれば低次を「手放す」という考えにはならないはずです。その自覚があるかどうかはそれぞれですが。
- レムリア方式のアセンション(分離によるアセンション、悲しみ。悲しみに耐えれないので「手放す」)
- 統合されたアセンション(低次と高次が統合されているため「手放し」ではない)
- アセンションしない(地球に残る。死ぬわけではない)(欲望の追求が可能、それが許された自由の世界)
それとは別に、単純に、この地球が存続するためにある程度は人間のエゴを肯定する必要もあります。それは、以前に言及したエルサレムや3つの宗教の融合のお話とも関わってきます。
更には、オーラの法則があります。押し付けられてしまった負のオーラは自身の中に蓄積します。そして、死後高次に帰るときは、大抵の場合は分離が起こって高次だけが昇天し、低次は地上に近いところに残されます。それが普通です。
ただ、そうしてしまうと高次の本元のいわゆるグループソウルからしたら、自身の分身の一部が地上に残されてしまって帰れない状況になってしまうのです。これが、いわゆる、よくある「分離」による高次への帰還です。これはなるべく避けた方が良いのですが、一部はそうなってしまっているように思います。
完全な形で全て高次に帰る方法、それが模索されています。その手段は少なくとも「手放し」ではないのです。このようなことを言っても、この種の課題を共有して解決策を模索している人は少ないかもしれません。そもそも課題としてこのようなものがあるということが理解できないかもしれません。この解決策としてヨーガあるいはそれに近しいスピリチュアルな手法が鍵になると見られています。
そして、ヨーガあるいは一部のスピリチュアル手法による低次と高次の融合と、レムリア方式でかつてアセンションを経験した人が如何にして今回完全なる統合に至るのかという点とが、実は繋がるのです。
それは、かつてレムリアで分離アセンションを経験して今度こそ完全なるアセンションを目指しているグループと、地球に関わったために完全に高次に帰ることができずに一部を低次に残してしまっている存在、それらが、母体が違えども、手法としては重なり合う部分が出ているのです。
天使たちのグループによって、低次を含めてこの地上に残された同胞の魂を救う方法が模索されてきました。かつては、それがわからなかったのです。地上に降りた結果、魂の一部がどうしても切り離されてしまって地上に残されていたのです。それを助けることは、長年の課題でした。
今、肉体を使った各種の精神的修養の手法が、低次の自身の魂を救う方法として有力になりつつあります。
扉を開くための自己否定と修行(苦行)
各種の修行、肉体の苦行のみならず、精神的なもの、例えば「雑念に捉われない」や「手放し」という手法も、一定の(擬似的な)効果を生じることがあります。
苦行あるいは修行により効果が出る場合もあれば、自己に関する探究が効果的な場合もあります。
それらは、低次と強く結びついているエゴとしての自己観念(それは究極的には幻想)を低次から引き剥がす作用があるのです。心地よく結びついている状態から引き剥がされるがゆえに、エゴは抵抗します。それが時に「苦行」として認識されます。意識が低次に強く結びついている状態から強制的に離れさせるわけです。
そして、このようなことは、一時的なとある段階において効果があります。
と言いますのも、後に、高次の意識が低次に行き渡る「統合の段階」になると、それは分離ではなくなるのです。元々結びついていたことが究極的には幻想であるならば離れるというのもまた幻想なのです。
低次と触れた部分を救出する
面倒な人や欲望に満ちた人と多少なりとも接触をすると多少ながら低次のオーラに触れてしまい、低次が切り離されて死後に魂の一部が地上(地球)に残ってしまうリスクが生じます。
残された魂を「手放し」して切り捨てて高次だけが帰るというのは、自身の一部と別れることになります。低次に残された自身の魂を回収することをしないのであれば、そこには悲しみが残ります。それは、残された者の悲しみでもあり、低次を残してきてしまったという高次の側の悲しみもまたあるのです。
その悲しみを癒すのは統合なのですが、統合できない状態が長引くと対処療法として「手放し」みたいなお話が出てきたりもしたのです。しかしそれは限られた効果しか持たないのです。
それは今世のみに限ったことでなく、長い時を遡ります。この地上に残されてしまった各種の魂がいて、何もしなければそのまま放置され忘れさられてしまっていることもあれば、手分けして探し出し回収が行われることもあります。それを最初から避けられればそれでも良いわけですが、既に低次に触れたことにより分裂してしまったのであれば、それを助けるにはその時の記憶に繋がって残された魂を回収するわけです。これは現代風に言えば、魂の一部が外に残る現象であり、沖縄でいう「マブイ落とし」に近いものです。そのように今世とは限りませんが、自身の魂(マブイ)がどこかに置き去りになっている、分離して漂っているということです。それらを自らに統合するわけです。
そうやって切り離されて低次に残された魂を回収するということは、時に、単に語りかけて自分で動いてもらう時もあれば、自身の一部に融合される時もあります。明確な意思を持たず自発的に動けないような魂の切れ端の場合は、自分の中に取り込んだ方が動かしやすいのです。その場合は、自身の一部がそうなるということです。自身が、かつてそうでなくても、置いて行かれた魂の記憶を共有することになるのです。
その、残された分身はかつて低次の経験をしたわけですが、その一部は時に「もともと高次にいたのに、低次まで降りた」という記憶をも保持していたりします。そして、合流時点で、それは私自身の記憶の一部にもなるのです。過去生の記憶として認識されるものの多くが、こうした魂の断片です。そして、自分はというと多数の記憶がある状態で生きることになります。それは慣れないと混乱を生じますが、このようなことであると理解すれば、記憶が断片的であるのも当然だと理解できるのです。
ですから、記憶があったとしても、その全てが自身の経験ではなかったりするのです。特に、低次に切り離された部分は感情や他者の欲望の妬みあるいは嫉妬等を受けていることが多く、具体的なものを含まなかったりします。そのような魂・オーラを取り込んだ時に、自身には全く心当たりのないことでトラウマが生じたりします。その責任は必ずしも今世の自身にはなく、相手の不条理にその原因があることが多々あるわけです。であれば、トラウマがあったとしても自分が悪いと思う必要はあまりなくて、不条理なその状況を理解して、魂を回収してあげて、低次に陥ってしまった自身の魂を波動を高めて調整して統合してあげれば良いのです。
大抵の場合、その状況というのは大した意味のない、くだらない感情や嫉妬はたまた相手の欲望によるものだったりします。状況を知れば、その強欲や陰謀に呆れ返るようなことも多い筈です。それは、人間の低次の強欲と密接に結びついています。
そして、他の低次のオーラを救い出すのは、同じ地上の存在としての波動領域の方がしやすいのです。自身の高次の部分がやるよりも、既に地上にいて波動が近い方がやりやすいわけです。そうして、うまくいけば多数の魂を救うこともあります。
統合の時、割と最初に出てくるのは強い悲しみです。特にレムリアで分かれた魂はその傾向が強いかと思います。それは、そう言うものなのです。
時に、外野が、状況もわからず無責任にもそのことを批判したりします。例えば「エゴを慰めている」だとか、「手放せば高次に行ける」などいう色々な意見が、時にライトワーカー的な善悪の観念から投げかけられます。しかし、それらの大半はこの種の「低次の自身の魂を救う」という文脈で言えば的外れなのです。更に言えば、そうして「分離」をしたライトワーカー自身が長い時を経てやがて置き去りにしてしまった自己を救い出すサイクルに入ることにもなる筈です。そのような各種の「手放し」は一時的に棚上げにしているだけということに気付かないでいるのです。それでいて、もう解決したと思い込んでしまっているだけなのです。最終的には、長い時を経るかもしれませんが、統合を果たすのです。目の前に現れている「葛藤」「低次の波動」が、実は自分自身の片割れかもしれないのです。と言いますか、究極的には全て「自分(私)」です。ただ、出自によって多少の流れがある程度の違いなのです。今、それぞれの出自に応じた同族を救うということがそれぞれのグループで行われていて、救うときに統合が起こります。
そして、統合の時に、残された側の様々な感情が流れ込んでくるのは普通なのです。
それでも、ずっと悲しんでいるわけでもないのです。統合には多少の時間が必要なのです。多少の時間を経て、感情は落ち着きます。
個人的統合のプロセス
完全なるアセンションするためには低次の経験をも理解して自己の中で統合する必要があります。これは別に、他人(面倒な隣人や欲望に満ちた人)のために行なえと言っているわけではありません。自身の中で生じてしまった低次の葛藤を含めて統合しなければ完全なる帰還にはならないのです。ですから、他者を変えたいわけでもなく、理解してもらいたいわけでもなく、自己の統合をすることが重要で、そのために理解を進めるべきなわけです。これは私と同族でルーツが同じ人(あるいは地球に関わって同様になった存在)にとっても同じな筈で、欲望に満ちた人たちに影響されて故郷(地球の外)へと帰ることが難しくなった人(あるいは魂の一部分)たちが大勢いるように思います。彼らも同じように自己の中で統合を果たす必要がある筈です。そうしなければ再度、地球の生活の輪廻のループに巻き込まれる可能性があるからです。そのために、助ける方も、助けられる方も、ある程度は地上の欲望というものを理解する必要があるわけです。その難易度は人それぞれで、ルーツを思い出すだけで十分な場合もあれば、欲望から離れるためにとても苦労する場合もあります。
それは、理解して自己の中で統合するためであって、その相手を助けたいかどうかは帰還という意味においてはそこまで関係がなく、ましてやその人たちと競ったり比べたり罵り合ったりするためでもないのです。
これらは全て、私を含めた同族が自分達への故郷へと帰るために行うステップです(他の宇宙存在にとっても同じである可能性があります)。私の場合、その雛形になりえるかもしれない、ということで模索が(私以外も含めて)多様になされているのです。
統合の時、自身のオーラと受け取るオーラが接触することで一時的に葛藤が発生して様々な感情が出てくることがありますが、それらは否定せずに受け入れれば次第に解消します。その感情を、程度が低いとか高いとか価値判断をしないことが重要です。と言いますのも、発見された自己の分身は時に何万年という置き去りにされた悲しいオーラを纏っていたりします。その分断されたオーラを受け入れて統合する時、様々な感情が出るのはむしろ普通なのです。
そのことを側から見て、外野がやれ「分離」だとか「手放しすべき」だとか「思考を止めなさい」だとか的外れな指摘や助言を言ったりすることがありますが、前提が違いすぎるのです。
それらの各種の感情は、時間が経てば自然と解消されます。自身の中に統合されるのです。複雑さを受け入れるのです。
低次と高次の統合をテーマにしている人たち
人数は多くないのですが、このようなテーマで地上に転生している人を稀に目にすることがあります。
これは(活動母体としてよりも)分類としてのサブグループと思った方が良いかと思います。それは、先に述べたグループの1つから生まれた実験的な試みであるように思えます。実験的とはいえ、先駆けとなりうるようなテーマです。一応サブグループと言っても良いですが、人数はさほどいないのと、このサブグループの人同士で集まることはほとんどないように思いますのでグループというと誤解があるかもしれません。活動母体としてのグループがないことが多く、あるとしても誰か個人を中心に集まるグループとして存在しています。
具体的に何をしているかのお話の前に、まず、この世あるいは天界などでも「浄化の儀式」(火の儀式)が行われているということを説明する必要があるかと思います。自身の不浄な部分を切り取って消滅させ浄化するわけです。時に、その、本来ならば消滅させるべく集められた(儀式の参加者の)オーラが意識を持つことがあります。そうであっても大抵は気付かれず消滅させてしまうのが常なわけですが、実験的な試みとして、そのようにオーラが意識を持った時に消滅させることを止め、(不浄かつ意識を持ったオーラの魂に対して)清浄なオーラを少し混ぜ、不浄と清浄の混在の状態にして転生させる、ということが行われているのです。
この時、魂の基本としては元々清浄なる天のオーラであった。しかし地上の不浄なる欲望や嫉妬などに触れたことにより穢されてしまったオーラになってしまった。その、本来は消滅させるべくして儀式で集められたオーラが意識を持った時、それに再度清浄なオーラを少し混ぜ、そのような魂を、低次と高次の融合・統合をテーマとして地上に降ろしているのです。
これは、高次の人からしたら低次に見えるし、提示の人からしたら高次のようにも見える。特に若い頃は精神分裂症のようにも見える状況でもあります。この地上の、殺伐とした世界にいて合わない、しかも自身の中には穢れたオーラがある。それでいて自分の一部には清浄なオーラを所持しているような状態です。
出自としては天の側でありますが、生き方の系統としては先の3つのグループ(天、ライトワーカー、それ以外)のいずれにも属さないかのように一見すると見えます。天のグループのように啓蒙する側では必ずしもないですし、ライトワーカーのように光と闇の戦いを標榜しているわけでもない、低い欲望に染まっているわけでもない。たま虫色の状況で、どちらに振れるかは、それぞれの場合になるのです。
うまくいくかどうかは未知数ですし、もし著しく失敗したら捨てられる可能性があります。再度、火の儀式の対象になって消滅させられるわけです。ですので、自身の中で統合を果たすか、そうでなければ捨てられて地上に残されるか、あるいはあまりにも酷い状況になれば消滅させられることもあり得ます。
往々にして実験体は観察下にあり、あまり世間と交わらないように注意されているわけですが、そうは言いましても個人の意思が尊重されておりますので自由があります。ある意味、使命などとは切り離されているので一番自由があるとも言えるのがこの分類の特徴です。
アセンションそれ自体において実は「消滅」とかはなく、単に3つに分かれていくのですが、この分類の人はその出自により「私は消滅させられる筈だった」という記憶を所持しています。更には、そのグループの存在がもしも失敗して意識が混沌に落ちてしまった場合には再度同じ儀式に連れて行かされてやはり消滅させられてしまうリスクをも負っています。それはこのグループの個人のことではありますが、そのような背景があると、アセンションと消滅というイメージが誤って重なって表現されてしまうこともあります。
更にこれに加え、人によっては過去、レムリア型アセンションにより崩壊を経験した記憶を(一部に)持つ者もいます。それによりアセンションと崩壊がイコールのイメージで語られることがありますが、実際には、崩壊が先に起こったのだと理解した方が良いと思います。ですから、アセンションが崩壊を引き起こすのではなく、崩壊によってアセンションの引き金になったということです。とは言いましても、その前段階に意識の分離というのがあり、それがあった状態で崩壊が起こり、そして、元々あった意識の分離が実際に現象面に現れた、ということだと思うのです。ですから、同型の崩壊型アセンションは今回は基本的にはそこまで想定しなくて良いと思うのですが、このような複数の要因があったが故に、崩壊のイメージとアセンションが重なってしまうのです。
そのような背景や当人の消滅リスクがありつつも、過去の記憶や経験を統合していくプロセスを辿っているのがこのサブグループ(分類)の特徴です。
アセンションの構造について
- 葛藤(低次)を切り離して高次、というお話では本来ない
- 低次で相手と比べ合う(マウンティング)というお話ではない
- 他者に指示・提示をしているお話ではない
- 自己の中で低次と高次を統合して完全なるアセンションに至るお話
アセンション、というと何やら本当にあるのかないのか、というお話になりますけど、内容をわかってしまえば、それほど不思議なお話でもないのです。
死後、高次の意識は昇天して天に昇ります。それがアセンションです。
その時、全体丸ごと昇天するのはなかなか難易度が高いのです。これは、死後、オーラが分離せずに一体となって天に昇天できるかどうかというお話です。低いオーラが分離状態にあり、かつ統合されていないと、その低次の部分が昇天することができず、全体が丸ごと登ることができないため、一部が切り離されて地上に残ってしまうのです。
レムリアのように崩壊と分離を伴うアセンションでもなく、死後の分離によるアセンションでもない。完全なる統合を目指すべきなのです。
あるグループに属する魂にとっては、もうこの地球から離れる時期が決まっています。
その時までに自身の別れた魂をなるべく残らず救出するのです。
この世界に関わることで何やら地上の低級な欲望の人と付き合って泥臭い状態にもなっていますが、それも含めて、完全なる統合、完全なる帰還をするべく準備をするべきなのです。であれば、今は模索の時期なのです。これは同族(あるいは同様の課題のある人)が完全なるアセンションを果たすための雛形になり得るのです。
過去、アセンションというと地球の崩壊というイメージと共に語られました。しかし騒がれていた時期にそれが起きなかったことで嘘だとか拍子抜けだとかいうお話になりました。それは元々の理解が違うのです。レムリア型のアセンションは文明及び島の物理的な崩壊を伴いました。そして高次の意識だけが抜け出てアセンションしたのです。それはというと、低次と高次の分離という形式によるアセンションだったが故に、そのような崩壊を伴ったのです。今回、地球においてはアセンションを騒がれていた時期は過ぎました。ということは、分離による崩壊は免れたのです。崩壊がなかったのは、良い方向に向かっているということです。またレムリア型でアセンションが起きれば、次の統合へと長い時をかけて準備をしなければならなかったのです。
今後、先に述べましたように3つの形態に分かれます。統合されたアセンション、分離によるアセンション、地球に残る者(アセンションしない人)。
出自にもよりますが、最終的にそれを選ぶのはあなた(自分自身)です。
この地上に変化はおそらくなく、死後、転生しないという選択をすることでアセンション相当を果たすケースが大半になると思います。
アセンション失敗というのは地上に魂が残され、輪廻のループに巻き込まれるわけです。それは必ずしも悪いことではありません。
輪廻のループに死後巻き込まれないのがシンプルなアセンションです。
ヨーガやヴェーダで言うモクシャ(自由)あるいは仏教の解脱にも相当するのがアセンションだと言えばイメージが掴みやすいかもしれません。
様々な流派で、「死後に救われる」だとか「死後にこそ悟りがある」「転生しなくなる」「輪廻の輪を抜ける」などと語られています。それはというと、その一部は実はこのようなことだったりするのです。
本来、アセンションと地球の破滅や存亡とは直接的には関わりがないのです。ただ、時期的なものが重なるのと、皆が活動する基盤としての地球の存続が必要ということで重なって表現されたりしてきたように思うのです。
- アセンションはこの地球における輪廻の終焉、モクシャ(自由)
- 多くの場合、死後に転生しないことでアセンションと同等になる。
- 死後、同胞たちに助けられて転生しないことを選ぶことでもアセンションと同等になる。往々にして生存中に同胞たちに発見されることでそのように導かれる。
- レムリア式の、大規模崩壊を伴うアセンションは今回はもう起こらない可能性が高い。
- 地球が滅亡するかどうかは欲望に満ちた地球の権力者次第でありアセンションとは本来関係がないが、大勢が活動する地球を存続させることが第一の目的だった時期はかつて存在した。
社会のあり方
出自に応じて、それぞれの社会の行末があります。
- 地球を卒業する層(天から来た者。天使。レムリアやり直し群、等)(自己の統合を果たした完全なるアセンション)自己の意識の統合が起こればアセンションになり死後、転生しません。内なる混乱の収束と統合。
- (政治・社会としては)統合された地球に残る層(これから高次に向かう人たち)(低次から中間的な意識へと上昇する)意識の統合をせず地球に残り続ける者たち。転生を繰り返す場合、それは欲望の世界に生きることになり、世界の統合という現実と、その荒波の中を生きることになります。目に見える世界の混乱と統合があります。
多くの存在が宇宙に帰り、地球に残された人がどうなるのか。かつて高度な文明を築き上げたものの忽然と衰退あるいは消滅した遺跡が世界各地には数多くあります。宇宙から降りてきて文明が栄え、富が集まり、いなくなると富が集まらなくなり、かつ、富が再分配されず富が独占され、貴族と奴隷の関係が生まれ、多様性を失い、人々の知能が低下し、技術者が減ることによりインフラが崩壊し、社会が崩壊すると人々が離れてゆき、時に文明が崩壊する、ということは過去も繰り返されてきたように思います。
実のところ、宇宙人および宇宙由来の人たちにとって、地球人が豊かになるかどうかはそこまで本質ではないのです。例えば、とあるグループにとっては、かつてあった宇宙の戦争の分離の意識を統合するべく箱庭として選ばれたこの地球において、彼ら自身の意識が統合すれば、それで目的を果たしたことになるのです。
それぞれの目的を果たした後は、自分の出自の世界へと戻るわけです。その時、地球人は地球にそのまま置かれます。特に何か関与する理由もなくなるからです。宇宙人たちは自分たちの出自に基づく理由があって地球に関わっているのであって、地球の暮らしを良くするために来ているわけではないし、ましてや地球人の欲望を叶えるために来ているわけでもないのです。彼ら自身のカルマがあり、経験をして学ぶために来ています。
その過程で、自身のグループあるいは縁のあった人たちを助けることがあります。それぞれのグループ自身には救済があります。ですが、それは無条件に地球の人の欲望を叶えてあげるということではないのです。
宇宙由来の人たちが自分たちの目的を果たした後、グループによってはそのまま帰ることもあるでしょう。あるいは、例えば天使などは、ある程度の地球の安定を見届けた後、自身の出自の世界に帰ります。そのような帰還の時期が過ぎた後、地球は元々あったように変化の少ない平穏な状態に戻るのです。宇宙人がもたらした変化が大きかっただけで、元々の進歩のスピードに戻るだけのことです。平穏な、変わり映えのない日常に戻るのです。ただ、それはというと宇宙由来の人が様々な変化を起こした後の、その前提での平凡な日々です。
平凡、とは書きましたが、社会に新しい劇的な変化がないという意味です。
それでも過去に作られたインフラの整備は行う必要があり、動かなくなった設備の多くは廃墟になって置いて置かれることになるかもしれません。その時、宇宙由来の人がもたらした多大な恩恵を地球に残る人は実感することになるでしょう。かつてあった当たり前の日常は、そのインフラが崩壊することにより維持が難しくなるかもしれません。
ただ、「インフラの整備は行う必要がある」と思うこと自体、宇宙由来の人の価値観を押し付けているのかもしれません。過去に作られたインフラが放置されて崩壊して行く末を、将来の世代は目撃することになります。そして、それでもあまり気にしないのが地球由来の人たちの特徴なのです。
それでも、地球に残る人はどうにかするでしょう。インフラの崩壊を受け入れて、尚、生きるのです。その崩壊を見て嘆くのは割と宇宙由来の人であり、地球に残る層は、理想としてのシステムの秩序を、そこまで気にしないのです。目の前にあるものを見て、利用できれば利用するし、なければないでどうにかするのが地球に残る人たちの生き方になる可能性が高いです。
その将来の時を考えて関わっているグループもあれば、考えずに自身の目的だけを果たすために地球に来ているグループもいます。地球の将来に責任を持っていると考えて関わるグループもあれば、遅れた原始的社会は自分たちの好きに使っても良い、と考えている場合もあります。
基本的には宇宙には不干渉の法則があり、地球の運命は地球の人の手に委ねられています。それには例外があって、その星に転生する場合は星の運命に関われるのです。そうして多くの魂がこの地球に関わっています。それらの魂が彼ら自身のカルマを果たした後、地球を離れることになるわけです。
その頃までに宇宙由来の人がもたらしたインフラは、まるで神のようになんでもできる状態になっている可能性があります。SFで見たように、願えば何でも与えられる魔法の箱がそこにあります。そして、人によっては実際に、本気で「神が与えてくれたもの」として拝むようになるかもしれません。しかしそれは人が作り出した便利な道具としての工場あるいは機械であり、いつか壊れるものです。そして、壊れた時、神はいなくなってしまった、神は恵みを与えてくれなくなった、と嘆くかもしれません。そのように、地球に残る人は技術としてではなく神の作りたもうた道具として、将来作られる魔法のようなインフラを見るようになる可能性があります。将来、インフラを技術として見るか、あるいは、神が与えてくれたものとして見るか、それは地球に残る人次第です。
そのどちらの場合においても、技術を地球に残る人が学んでおかなければ、インフラはやがて崩壊するのです。ですから、今、世界は唯物論で科学技術万能の考え方が優勢になっているのは、ある意味、将来にそのような信仰に陥らないために有用という見方もあるのです。
信仰に陥ってしまった場合、「何でも与えられるだけの生活」というような非現実的な考えを信じてしまい、やがて、インフラを支える層が宇宙に帰っていなくなった時にインフラおよび社会が揺らぎ、そして文明が崩壊する可能性すらあります。
一方、信仰に陥らずに技術を学べば、インフラは維持できるのです。それは誰か(宇宙由来の人)がやってくれることではなく、地球に残る層が学ぶ必要があり、それを学ばないという自由もまたありますけど、その時は相応にインフラが崩壊するだけのことです。地球に残る層が、それをあまり気にしないというのであれば、それはそれで、残る人たちの自由の選択ということになります。
非干渉の原則
宇宙には非干渉の法則がありますから、(地球の破滅の危機など異常時を除いて)基本的に(直接的に)助けることはしません。 (常時において)宇宙人が地球の人を(直接的に)助けるのは基本的に良くないことであり、幾つかのパターンがあります。
- 地球の文明は未開だから干渉しても良いとみなす場合(宇宙の法則的にはNG。宇宙の法則に反して干渉している)
- 地球の人は子供だから、神様ごっこして宇宙人自身のエゴを満足させている
- 自身の種族のカルマ
ここで、「地球の人を(直接的に)助けてくれるのは自己中心的な宇宙人」という見方もあるわけです。
一方、地球の人は自立すべきとして、あまり助けないグループもいます。一見すると「助けない」なんて、なんて酷いグループなのだろうかと思うかもしれません。しかし、実際は、(直接的に)助ける方が自分勝手で、助けない方が思慮深く慈悲深いのです。その、「(直接的に)助けない」グループは自立を助けて、時に、ほんの少しだけ後押しする、ということが行われています。それは宇宙人のちょっとした手助けかもしれませんし、天使の恵みとして与えられることもあります。
自主性を尊重するためには、その人の内情を深く知って理解する必要があります。そうでなければその時々における「ほんの少し」という程度がわからないからです。よくわからなければ助けないし、理解した上でほんの少しだけ後押しする一部のグループがいます。
この法則には例外規定があり、その星に転生した場合は関与を許可されます。しかし、それはというと本来、元々の規定を理解して尊重した上での不可抗力という範囲における例外規定なのです。しかし、その例外規定を文字通り解釈して何でも自分の思い通りにして良いと思い込み、実際、そうしているグループがいるのです。それは本来は許してはいけないことですが、地球人がしているという建前を取っているために見逃されています。
アセンションの時期が過ぎる数世代の間、しばらくこのような、本来あるべきでない干渉が続くでしょう。
そのような状況で、地球の人は、本来ある筈のないテクノロジーと接することになるのです。その結果、利益を享受することもあれば、その逆もまたあるのです。翻弄されることもあります。一部のグループが例外規定を逆手に取って地球に干渉を強めた結果、様々な歪みが生じてきています。それでも、自身のグループの出自を見極めて行末を決めればそのような状況に驚いたり影響されにくくなります。道筋が見えるようになるのです。
基本的には、それらの干渉は自身のグループの影響力を高めることが目的であり、時に激しいマーケティングをも伴います。ですが、そもそも、そのような干渉それ自体が道理に反しているのです。いくら驚かされるような、時にカルトの崇高なお話があったとしても、宇宙由来のものは眉唾であることも多いのです。
出自ごとの方向性
そのような状況を踏まえ、今後の自身のあり方を考える上で、出自を見極めることは重要に思います。
- レムリア系、分離のアセンションをかつて経験し、地上に取り残された人たち。この人たちには、完全なるアセンションを提唱する。分離ではなく、統合されたアセンションを目指すべき。そうでなければ悲しみは繰り返される。地上にいるレムリア人は基本的に取り残された方であり、アセンションした部分との統合を果たすべく努力している最中。
- 天使など、宇宙から降りてきて、部分的に切り離されて地上に取り残された部分の魂。この場合、分離ではなく、統合されたアセンションにより(死後に)元いた場所へと戻ることが目的になります。
- 地上に残る組。これは良し悪しではなく、それぞれに応じた在り方ということになります。まずは技術や能力を高めること。そのためには集中を学び、ゾーンに入り、効率を高めることこそが第一になります。そうすれば社会の軸となりインフラを支え、時に人知れずして世界を救う、支えることにもなるのです。これから数世紀後の未来を背負って立つグループです。ここが、これから伸びる必要があります。このグループは、地球をどのように成長させてゆくか、自身で考えて選択する自由があります。未来があります。希望があります。今までは宇宙から来たグループがインフラや社会を率いていましたが、今後は、地球は地球に残るグループが考えていくのです。その時、善と悪の二重構造ではなく、自身が変容していくという統合のモデルが必要です。
特に、レムリア系や天使など宇宙から降りてきた場合は、地上に自身のマブイのようなもの(取り残された魂の片割れ)を置き去りにしてしまっている可能性があります。それらを見つけて統合するには、それなりに魂の履歴も含めた探索能力が必要になります。
その他、宇宙から来て日本や世界をサポートしているグループもいますが、それらはひとまず上の分類から外しておいても良いでしょう。というのも、この地球の将来に関わる主体ではないですし、実態としては多様なものになっているのでここで扱うには雑多なものになりすぎるからです。実態としては多数存在し、能力が高いので影響力がを持つこともありますが、実のところ、地球の行末という点で見たときに、このグループはサポートという分類をしておくのが適切のように思います。ある意味、今の時期に必要だから来ていて、その役割(カルマ)が消えると急にいなくなるグループです。いわば、役割、使命があって来て関わっているグループです。そのため、サポートとして位置付けるのが適切でしょう。その一部は永続的に地球に関わり続けることになるかもしれません。いわば、昔天使が担っていた部分に入れ替わるようにして入ってくるグループとも言えます。
そうは言いましても、基本的にはこの地球は、地球に根ざした人たちが主体となって運営していくものです。そのため、これらのグループはサポートとしての位置付けが主になります。そして、大部分はやがて変革を遂げた地球から離れることでしょう。長い時を経て、やがて、それら地上へと取り残された人々を救うべく統合したアセンションが繰り返されることにもなるかもしれませんが、それはまだまだ先のお話になります。
今、この地球で主体となっているのは、かなり長い期間、地球にいたり関わっていた存在たちなのです。それらの課題を解決することが、地球の存続のためにも優先される事項になります。
それぞれのグループに対する私の立場
- レムリア系に対しては、統合されたアセンションを提唱する。
- 天使系に対しては、今後数世代後に故郷に帰ることを意識させる。
- このどちらに対しても、その人の魂の片割れ(マブイに類したもの)がどこかに取り残されている場合は回収するよう促す。
- 分離(善悪の対立、光と闇の対立)では世界は滅ぶことを伝える。
- 地球に残る人たちには、仕事を大切にして学びを深めるよう促す。
まず第一に自身がどのグループにいるのか見極めが大切で、その上で、出自ごとに進むべき道が異なるわけです。もちろんこの融合や例外も多数ありますので必ずしもこの通りではありませんし、実のところ、天使についていきたいという人が一定数いるわけです。それは特に本人の意思次第でありますから、当人が希望すればそこまで阻まれるものでもありませんが、それでも、生きやすい状況というのはありますので、人によって合う合わないはありましょう。
地球では、特にスピリチュアル系で欲望が悪者かのように言われておりますが、それは野生を生きる上で大切な本能です。7つのチャクラで言われているように、人間が持つ7つのチャクラのうち一番下のムーラダーラは、動物で言えば一番上のチャクラです。動物で最高に成長してから人間に生まれ変わるのであり、その最初はとても野生的であるということです。それを否定すべきではありません。何故なら、そういうものだからです。
人のそれぞれの段階において学ぶべきものは異なります。欲望や情愛を学ぶ段階の人もいるでしょう。他人に対して自己を投影して誤った見解を押し付けてそれを当然と思っている者もおられるでしょう。それも全て、当人の段階を示しているのであり、統合という意味においては全て意味があるものなわけです。
これは、出自によってもスタンスとアプローチが異なります。
- レムリアのグループは、自身がかつて分離した高次と融合することによってサイクルが完結します。あるいは、低次が手を伸ばして、高次も手を伸ばして、手を結ぶ、と言っても良いです。
- 天使のグループは、地球に関わったことにより低い波動に影響されてしまった、その重い波動を切り離すのではなくそのまま高い波動へと昇華することで統合することができます。これは他のグループがやっているよりも熟練が必要とされますが、天使グループなら可能です。
- 地球に残るグループは、より段階的に経験を積み重ねながら、時間をかけて波動や意識を上昇させていく流れになります。
過去、人の誤った見解によって何がしかの価値観が「悪いもの」として抑圧され、「闇」として見えなくされました。そのことで、人々の成長が止まってしまったこともあったかのように思えます。今、資本主義の社会によっていわば人々の欲望がその名のもとに正当化され、経済論理であればなんでもして良いかのような風潮さえあります。
それはというと、欲望という段階において人々が学ぶべきレッスンなのです。
欲望が資本主義によって単純に全て正当化されるというのは、獣が欲望を学ぶという段階におけるレッスンです。チャクラで言えば一番下のムーラダーラの「生きる」力から、その一つ上の第2チャクラであるスワディスタナで感情や欲望を学びます。資本主義でなんでも良いと言っているのはこの段階におけるレッスンなのです。
やがて、その一つ上である第3チャクラ、マニプラに至ると「情」としての愛着とも言える個人的な愛に至ります。それは盲目的で利己的ではありますが、それでも、その一つ前の段階より愛を得ている状態な訳です。
資本主義社会とは、現在はスワディスタナ的に欲望が全て肯定された理屈で動いており、それが、もう1つ上の段階である、情によって動く資本主義社会へと変革していく必要があるのです。それは、モラルや責任を伴った資本主義であるとも言えます。人間性を学んだ時に、資本主義の有り様は変わるのです。
と言いますか、元々、日本社会はこの第3チャクラが優勢で、資本主義もそのように動いておりました。一方、昨今の欧米主義が入ってきたことにより第2チャクラ的に考えて欲望は何でも肯定するという考えが増えてきております。本来、そのように下がらず、上がるべきなのです。欧米の悪い低い考え方を学ぶことは、もしかしたら、日本社会はその辺りにまだ学び終えていないレッスンが残っていて、一時的に戻っていた、という見方もあります。
ですが、日本にせよ世界にせよ、下がるのではなく上がるべきなのです。情によって支えられた資本主義が世界中に広がる時、地球は天国に一歩近づくでしょう。
為政者や起業家がそれを学び終えて、そして、モラルに従った、人々に幸せをもたらすべきだと気がついた時、世の中は劇的に変わることでしょう。そのためには周囲からの働きかけも重要です。
過去、幾つものタイムラインで地球が破壊されて来ました。そのレッスンから学んだことは、為政者や起業家などを「悪」と決めつけて遠ざけた結果、そのような分離の世界は継続を許されなくなったということです。それは、ある意味、天から降りてきた存在たちが地上の欲望の世界を知らなかった、ということでもあります。天からの論理を地上の欲望だらけの人々に押し付けた結果、反感を買い、社会が混乱し、反乱が起き、世の中が乱れていったのです。地上で生きてきた多くの人にとっては人間の欲望は慣れっこですが、天から降りて来た存在は、そのような欲望や捻くれた感情を理解できないのです。このように、天から降りて来た者と、地上の欲望に塗れた人々との間で認識の乖離がある状態が長らく続いていました。ここにきて、これからは地上の人たちに政治を任せようという方針が100年ほど前からなされ、今、資本主義の名の下、欲望が正当化される社会が出来上がっているわけです。しかし、このままでは世界の存続は難しくなるのです。
求められているのは、そのような悪の懐へと飛び込み、内側から変えていく人材です。特定の権力構造の中枢などに深く入り込んで権力のある人たちに良い影響を与えられるようなライトワーカーの活動が求められています。それは多くの場合は転生を伴いますが、外側から働きかけることもあります。
そうして、欲望に満ちた人たちに情としての愛を教え、階段を一つ登らせるのです。それを導くのが、ライトワーカーの仕事です。しかし、今は、ライトワーカーは欲望に満ちた人を悪とみなし、悪を滅ぼせば善が残って世界は平和になると思い込んでいます。そこに、理解の乖離があるのです。人は滅ぼされるべき悪ではなく、成長することができる可能性を秘めています。欲望に満ちた人も愛に目覚めることができるのです。
そして、為政者や政治家が悪のように見えたとしても、彼らも変容できるのです。その変容を、ライトワーカーが起こすのです。そうでなければ、地球はまたしても滅亡してしまうことでしょう。ライトワーカーの役目は悪を滅ぼすことではなく、悪のように見える人を変容させて愛に目覚めさせることです。
そのような経過を経て、ようやく地球が統合に至るのです。そうして初めて、地球が存続できるのです。
- ライトワーカーは(善悪のフレームに陥っているのであればそれから脱出し)統合した視点を持つことが期待されています。
- 天から降りた者(天使など)は人間の欲望をある程度理解していくことが求められます。
- 地上にいて地球に根ざしている者は、高次のワンネスや調和へと向かって、一歩一歩歩んでいく必要があります。
この辺りのお話を理解するのは、最初は難しいかもしれません。同じテーマを扱っていても、それぞれの立場から視点が異なるからです。(例:欲深さというテーマ。捻じれた関係性というテーマ)
天使へ送る言葉
天使は自分のことを思い出して覚醒したら転生しません。転生している天使が思い出したら、地球での転生は終わりに向かっていくでしょう。多くの天使たちは、これから思い出していく段階にあります。天使はどこか場に馴染みきれない感覚を持つことが多いことでしょう。いわゆる「浮いている」ように感じられるのも、そのためです。自身のルーツの自覚をし、帰ることを決断した後は転生が終わり、空で帰還を待つようになります。
この輪廻の輪から逃れることは仏教で解脱とかインドのヴェーダでモクシャと言われているような状態です。天から来たグループ(天使など)は「自分はもともとこの世界の存在ではない」と自覚した時点で、自然と帰還の方向へと向かうことになります。
あるいは、生きている時に見つけ出されたら、生きている時あるいは死後に語りかけられます。寄り添う存在がつくのです。そうして、最終的には死後に「救出」されます。同胞がついていてくれれば、もう、転生することなく、時が来たら帰還をすることになります。
地上に残されている天使は自分で気が付いて仲間の元に戻ることもあれば、実のところ大半は見つけ出されて救出されることの方が多いように思います。
私も時折、例えば、よくわからないスピリチュアルあるいはカルトのような団体で天使・女神が場違いにも働いていたりするのを見たことがあります。あるいは、普通の職業についていることもあります。そのような時、「あ、見つけた」となるのです。そうしたら、心の中で、こう囁きかけます。「あなた。こんなところで何をしているの。ここは貴方が本来いる場所ではありません。あなたは天使なのです。」と遠くから心に話しかけると、顔が「ハッ」とした表情になり、そのことを自覚し始めます。最初は理解できなくても、やがて、自覚を深めていくのです。一旦見つけたならば(見えない)同胞が寄り添ってくれるのであとは自身が関わる必要はあまりありません。
天使たちのほとんどは、死後、救出されます。心配はいらないのです。
天使たちの世界においては、遙か過去、二元性の価値観に基づく争いが起きました。そして今、意識が統合されワンネスに対する理解が天使の社会に広がってきている段階であると言えます。
そこには確かな救済があります。
ライトワーカーたち
状況もわからないまま、自称「世界を救った」と当面は思い込むかもしれません
様々な存在が動いています。そして、うまく状況を動かそうとしています。それらの施策がうまく行った結果、世界が救われる方向に動くとします。それらの大半は、ライトワーカー自身の成果ではないのです。
確かに、表面的にはライトワークをして世界を救うようにも見えたりします。ですから、それは一応は正しいと言えなくもないのです。
当初、ライトワーカーたちは状況を「光と闇の戦い」の文脈で理解する可能性が高いのです。
そして、事態を理解するのに相応の月日を要するかもしれません。それでも、一旦は「悪が滅んだ」と、ある意味、勘違いをした結果、ひとまずは「安心」するのです。それが意識の統合に向かうきっかけになるかもしれません。
一部は意識の統合に向かうことでワンネスに至り、一部は「善と悪」の戦いに勝利したことを喜ぶことで二元性の意識を保ち続けるでしょう。
このグループの多くは今後数世代の間に地球を離れることになるように思います。その一部は地球に残る可能性がありますが、人数が減ることと、悪との戦いという大義名分の大半を失うことで団体としての活動は下火になり、影響力は今よりも低下します。
一部は地球に善を教える救世主的な役割を担うでしょう。
そして、また一部はワンネスを知り、いわば救済されてこの世界を去るでしょう。
レムリア由来の人たち
高次との融合・統合を果たし、癒やされます。
そして、この地球を離れます。このグループもまた、救済されるのです。
地球に残る人たち
これからの地球の主役です。自由があり、責任も付き纏います。地球をどのような世界にするのかは、このグループにかかっています。
まず最初、この意識の段階に応じた統合が武力と経済力、政治力はたまた宗教的な力によってなされるでしょう。それが統合の第一歩です。
そうしたら、まず、「他者を征服する」という価値観を捨てるべきなのです。
そして、前と悪という価値観における二元性の光の側になるのです。それを教えてくれるライトワーカーが常にいるでしょう。
そこに救済があります。
ワンネスには程遠いですが、まず、意識の底上げを行い、「善」を学ぶのです。その二元性のある世界観をライトワーカー等から学ぶことで、善あるいは光の側に立って悪を滅ぼすという世界観に生きるようになるでしょう。
この段階では、ワンネスというお話は一応は聞いていても、実際に理解することはありません。ですが、それでも特に問題ないのです。この段階においては、二元性のある状態で、光と闇という側面のうち、光の側を学ぶことになります。
ライトワーカーはこれから二元性からワンネスへと進みますが、そのライトワーカーが長年持ち続けてきた光と闇という二元性の論理を、今、地球で欲望に満ちている人たちが学ぶのです。バトンタッチのように理屈と理解が受け渡され、かつてライトワーカーが考えていた光の二元性の理論を、地球の人たちが学んで身につけることになります。
何も無駄はない
地球で欲望に満ちた人は二元論の善悪を学び、善を地球に行き渡らせることを学びます。一方、ライトワーカーは善と悪の二元性を超えてワンネスを学びます。天使たちは自己の統合を果たして自身の世界へと帰ります。レムリアの人たちは統合を果たします。
様々なグループが交差し、お互い学び合うものがあり、救済され、それぞれの未来があるのです。
アセンションという名の元に、ワンネスとして統合されて二元性を解消した意識となり、多くの存在が地球を離れるのです。
そして、地球に残る者たちは二元性の光の側を体現するようになり、正義の名の下に、善を世界に行き渡らせるのです。
地球を観察にやってきている、その他大勢の宇宙人たちは実はこのアセンションの流れそれ自体には乗りません。いわば傍観者である訳です。ですが、このように地球でアセンションという名の元に意識が統合されてゆくのを見届け、状況をそれぞれが理解し、やがて地球を離れて自らの成長に活かしたり、知識として興味深い現象と理解を蓄えることになります。
地球でアセンションに至る存在、アセンションせずに地球に残る存在、そしてサポートをする宇宙存在や、観察に来ている存在。それら全てがこの地球のアセンションの数世代を自ら体験するか、あるいは、興味深く眺めているのです。
とある人が誕生した時の記憶
最初のその人の記憶は、いわゆる「火の浄化の儀式」の場面です。焚べている火があり、その人は火の周囲ではなく、火に近い側にいました。そして、目線は火の高さ、とても低い位置にありました。そこから、火の周囲を取り囲んでいる存在たちを、ゆらゆらと揺れる炎の向こう越しに見上げて眺めていたのです。
どうやら、その人の魂のオーラは、この火に焚べられて消滅させられる運命にあったようです。それは浄化の儀式ですから、不浄なオーラを焼き尽くすのが目的でした。どうやら大天使と思わしき存在たちから抽出した不浄なオーラとしての塊、それがその人の大元となる部分であり、それはまさに儀式において消滅させる筈でした。
ですから、その儀式に参加していた何人かの存在たちの不浄なオーラの切れ端でその人のコアはできていたのです。その中でも、とある存在から切り出されたものが大部分を占めていました。おそらく、500年前くらいに地上に降りてきたとある存在が、不浄になってしまった部分を切り離した時に生まれたのがその人の主たる部分であると理解しています。おそらくその存在は一旦は天に戻ったものの、浄化の儀式で不浄なオーラを切り離したという、そういう状況だったのです。その時に生まれたのがその人の魂とも言えます。
そのように、その人はかつて、そうして浄化の儀式で火によって浄化(消滅)させられる運命にありました。
通常、そのような場合に意識は生まれないのです。浄化の儀式によって分離された不浄なオーラは、意識を持たないのが普通なのです。
ですが、その人はその時点で意識が生じました。そして、火の周りにいる大天使たちを眺めていました。
そのことを、その中でも代表的なとある大天使が見抜いたのです。「待て。意識が生まれた。消滅させるのは止めるのだ。」
そして、その大天使は、しばらく考え込みました。そして、決断したのです。普通であればそのまま火に入れられて浄化(消滅)される筈であった者(その人)を生かし、そのまま地上に転生させよう、と。とある天使がそれを提案した時、他のとある天使は動揺し、「えっ、この汚いオーラを火で消滅させずに、生かすの?」というようなことすら言いました。自分の恥ずかしい部分があって、それを消してしまいたかったのだ、ということが見て取れました。天使であっても、あのように動揺することがあるようです。その状況をも、その人は火の側から見ていました。
最初に言い出した大天使が続けて、「そうは言っても、このままではどうしようもない。自身のオーラを分け与えよう」と言い、多少の純粋なオーラを注ぎ込まれました。それにより、彼は気分がとても楽になりました。温かい気持ちです。それでも、元々の不浄なオーラが優勢ではありましたが、純粋なオーラにより、助けを得たのです。
そのことで、一部が高次、大部分が低次(大天使から浄化の儀式で不浄な部分が切り離されたもの)の存在になりました。
そうしましたら、横で見ていた女神様のような綺麗な女性の大天使と思われる人が「そうですか。そういうことであれば、私のオーラも差し上げましょう」と言って、オーラを更に分けてくれたのです。その人の中に女性的な部分があるのは、この大天使のオーラがあるからです。
その後、他の天使たちも、あまり納得していない者もいましたが、多少のオーラを分け与えました。
その儀式に参加していた全ての大天使のオーラとはそれらの大天使の記憶でもあり、断片的にそれらの記憶があっても完全ではないのです。何故なら、切り離された部分は(基本的には)不浄なる一部、あるいは、オーラの断片だからです。火の儀式というのは、大天使の不浄な部分を切り離すものなのです。
そして、その基本の不浄な部分に対して、幾人かの大天使のオーラも与えられました。それでも、大部分は不浄であり、不浄が優勢だったのです。
これはかなり例外的で、実験的なことでした。他では行われたことがなかったのです。本来ならばそのまま消滅していた人。それが生かされ、地上へと送られました。実のところ、その人がどうなるのか、とある、最初に言い出した大天使はある程度は見抜いていたようですが、あまりきちんと他の者たちに説明しませんでした。他の大天使にとっては未知で、よくわからない状況だったと言えます。
このような背景がありますから、元々はその人は特段の使命がなかったのです。地上で活動している他の多くの天使には使命がありますが、その人は割と自由な立場だったのです。それはというと、その人の目的が明確には定められていなかったからです。自由意志で、自身の行動を選べる立場にありました。自由に探求をした結果、その人の出自から言って「低次と高次の統合」を期待されている、ということが今ならわかります。それこそが、大天使が今まで成し遂げられなかったこと。その人が地上で模索すべき主たるテーマだったのです。それは、自由に探求できる立場でしかできないことです。
低次と高次の融合。その実験台としての存在がその人です。
元々の出自がそのようなものですから、失敗したら、もしかしたらその人は捨てられるのです。もしかしたら、不要とみなされればまた再度「火の浄化の儀式」で改めて消滅させられるかもしれないのです。そのような前提で、その人は生きています。
ただ、他にも同様に「消滅させられる筈だった自分」と主張する人を稀に目にすることがありますので、もしかしたらその人以外にも同様の実験で送り出された人がおられるのかもしれません。その人の記憶の時点ではおそらく他に例がなかった筈ですが、その後、長い時の間に、幾つも他に事例ができているのかもしれません。
このあたりの記憶の違いが、もしかしたらこの時期における多くの論者の「消滅」としての人生観やアセンション観に繋がっているのかもしれません。その人の理解では、アセンションそれ自体は消滅とは関係がないのですが、オーラの分離(低次と高次)やこういった儀式の背景により消滅という概念の理解違いが入り込んでしまっている可能性があるように思います。それに加え、レムリアで起こったような崩壊型アセンションのイメージも重なります。
その人を生かそうと決めた大天使は、その人の自由意志を尊重し、その人の人生がどのようなものになるのか、彼自身も興味深く眺めています。ある程度は彼には予感があるとはいえ、まだまだ未知数なところも多いのです。
その人は完全なるアセンションを目指しています。それは元々、天使たちにもわからなかった謎解きです。
最終的に、低次と高次の融合を遂げるのです。その人は今、自身を統合して元いたところに戻ろうとしています。
引き寄せの法則は地球に残る層にはあまり関係ない
見たところ、盛んに引き寄せの法則を言っているスピリチュアル系の人は、それっぽいのはどれも宇宙由来の人のように思います。それは当人にとってはそうかもしれませんので、他人も同じだと思っているのかもしれません。だとしたら、どうやら悪気はなさそうです。
(あとは一部、それっぽくマーケティングでやって見せてはいる詐欺っぽい人も多々いますけど、それはこの際、割とどうでも良いので放っておきます。)
ここで悲しいお話かもしれませんが、世間で話題の引き寄せの法則は主に地球を離れる層で有効なお話で、しかも、基本的には個人的なことに限られます。
ですから、(本当にできる一部の人を除いて)引き寄せできたと思っていても大抵は気のせいですし、あるいは、できたとしても一時的なわけです。一時的でもできればよいですけど基本的には偶然でそう思い込んでいるだけだったりします。プラシーボあるいは誰かにできていると思い込まされている場合もあります。人は現実を都合よく解釈しますから、引き寄せだと思えばそうも思えるわけです。地球を離れる層は実際に引き寄せとかも可能ですけど、地球に残る層にはあまり関係のないお話なわけです。それを聞いて自分もそうするんだ、みたいに考えたとしても、あまり関係のない人が多いわけです。
チャクラで言うと第6のアジナ以上であれば現実造像できます。思考が現実を創造するというのは実際その通りで上から降りてくるわけですが、それは自分で現実を作っているというよりは、そのように意志が最初にあった、降りてくる、というお話です。ですから、「自分」が現実を創造するというよりは、意識が自分に降りてきて人生を形作るわけで、それを、まだ「個」という感覚が残っている状態で聞いたり感じると、それが「自分が作った」という誤った意識状態、錯覚した状態になり、それが「引き寄せの法則」として認識されるわけです。
実際は、全ては上から降りてきているわけなので、意識が最初にあって肉体が後、人生もそうやって意識が最初にあって作られるわけですけど、そこに「自分」というものは本来ないのですが、自分という錯覚があると、それが「(自分が)引き寄せた」という誤った感覚になってしまうわけです。
それは別に悪いことではなくて、この三次元の世界では錯覚が起こるのは普通のことで、それがいわゆる「自分」という錯覚である、ヨーガでいうアハンカーラ(いわゆるエゴという自己意識)あるいはヴェーダでいうジーヴァという個の感覚が生まれるわけです。
その、誤った意識状態において上から降りてくる現実創造というものを認識すると、その誤った認識がそのまま投射されて「引き寄せ」として認知されますが、実際には、無限ともいえる意識の一部が自分というところに降りてきて現実を作っていて、それが個人というものになって人生もできてくるので、そこに「引き寄せる」という感覚は本来ないわけです。それはというと、元々そこに「自分」というものはなかったからで、意識が単に降りてきて自己創造をする、そして、それが「自分」という意識と掛け合わされると「現実を創造した」という誤った認識になり、それが「現実創造」あるいは「引き寄せの法則」として認識されるわけです。
そのような状況において、実は全ての人が現実創造していて引き寄せをしているわけですが、それに働きかけて現実を変えることができるように一見すると見える人がいて、それはというと第6チャクラであるアジナあるいはそれ以上の第7チャクラのサハスララが開いていると、そのように高次の意識を認識できるわけですが、それはというと割と今後この地球を離れる層に有効なお話で、やがて時間が経てば何世代か後あるいは稀に地球に残る層でもそのような意識が開ける人もいるかもしれませんが、地球に残る大半の人にはまだあまり関係のないお話なわけです。
地球に残る層は、それ以前のお話として、集中してゾーンに入る、というところからスタートするべきかと思います。一時的なソーンから始まり、やがて長く続くゾーン、そして継続的なゾーンへと、ゾーンそれ自体が深まっていきます。最初は意識してゾーンに入るか、あるいは、集中しても数年に1度とかそのくらいのゾーンんでしかなかったものが、やがて数ヶ月に1回、数週間に1回、1週間に1回、数日に1回、毎日、やがて入ろうと思えば入れる状態になり、そのゾーンが次第に日常生活にも広がり、更にはそのゾーンが深まっていくわけです。
そのゾーンこそが瞑想でいうダーラナ(集中)くらいの段階であり、それが継続的になるとディヤーナ(瞑想)と呼ばれます。そして更に進むとワンネス意識であるサマーディになるわけですが、大体それは第6のアジナとか第7のサハスララに相当しているわけです。
そして、そのくらいになってようやく引き寄せとかが認識されるようになるわけです。それ以前であっても認識していないだけで同様のことは起こっているわけですけど、上に書きましたように、最初はそれは自分という誤った意識によって自己が創造しているとか引き寄せているとかいう感覚で認知されます。それは大体、第6のアジナくらいですと「個」としての神意識ですのでそのように個人的な感覚として認識されることが多いわけですが、その次の第7サハスララになりますとそれは全体意識と繋がっていますから、そこでは「引き寄せ」ではなくて、全体意識(と言ってもグループにおける集合意識の段階)においてはそれは現実は降りてくるものであり受動的なわけです。第6のアジナでは個人の引き寄せとか現実創造のように認知され、第7サハスララにおいては「降りてくる」ものとして現実創造が認知されるわけです。よって、引き寄せの法則とは第6アジナくらいの認知により一時的にそう感じられる法則のようなものであり、第7サハスララまで進むとそれは実は創造しているのではなく降りてきているものだと認知されるようになるわけです。
地球に残る層はそのような意識状態にまだ達していませんから、あまりこの種のお話には関係がないのですが、スピリチュアルなお話で面白おかしく聞くか、あるいは、自分もそのように好きな現実を創造したいと願ってみてうまくいかない、引き寄せできない、あるいは、引き寄せできたような気になる、というのが大半ではないかと思います。
引き寄せの法則の高額セミナーとか受けても大抵は気のせいでうまくいかないことが多いかと思いますが、もしかしたら気の毒に思った守護霊の皆さんが恵みの1つでも与えてくれて更に勘違いを加速させる可能性もあります。
どちらにせよ、引き寄せとかあまり考えない方が普通の人は幸せかとおもいます。それより、仕事を頑張ってゾーンに入れるようになる方が成果も出て認められることも増えますので、ゾーンを深める方が余程有用かと思います。
地球に残りこの世界で生きていく人たちを、私がどう見ているかと、その方向性
仮に先の記事で述べたような前提に立つと、主に3つのグループがいます。
- 統合へと至るライトワーカー
- 天へと帰る天使
- 地球でこれからも生きていく人たち
そして、これは3つ目のグループに対する処方箋です。このグループは、古典的に精神修行やスピリチュアルで言われたことが基本的にやるべきことになります。
個人的にこのグループに合っていると思われる学習方法が、テーラワーダ仏教に代表される原始仏教です。
この種の理屈を学ぶことで基本的な精神の有り様を学ぶことができます。
更には、禅でも構いません。この種の、理屈でもって理屈を超えてゆく、と言うやり方がこの段階には合っているように思えます。
仕事や趣味、そしてゾーン
この種の人々は、極度の集中状態(ゾーン)に入れるようになることが一つの目標になります。
- 歓喜の状態
- 対象との一時的な合一
- 集中している間だけの特殊状態
- 成果が倍増する
それは一時的ではありますが、主観的には、対象との境界が薄れるような感覚になり、いわゆる「ワンネス」に近い体験として認識されることもあります。その結果、対象の理解が深まり、それ自体が歓喜として感じられるようになります。
この段階においては、精神修行と言って座った瞑想などをするよりも、仕事でゾーンを繰り返す、動きのある精神活動の方が入りやすい場合も多いように思います。その一例として、瞑想よりもヨーガのアサナ(体を使ったポーズ)が効果的な場合もあります。
欲望の克服
この段階ですと欲望の克服はまだまだ難しいことが多いですが、それでも、静かな環境を選ぶことでそのカルマの種が発芽しない状態に抑える(=余計な刺激を減らすことで、欲望が表に出にくくなる)ことができます。そして、ゾーンあるいは瞑想状態によってそのカルマの種を多少ながら焼いて影響を軽減することができます。
チャクラとかはまだ関係ない
スピリチュアルやヨーガ等で、クンダリーニやサマーディ、あるいはチャクラなど様々なお話がありますが、この段階の人にとっては優先度の高い領域ではありません。言葉は知られていますし、この種のお話が好きな人も多いですが、そのような段階ではないことがほとんどなのです。
マウンティングし合わないこと
この段階であるあるなのが、他者を指摘して上だとか下だとか、揚げ足のようなことをしてマウンティングし合うことです。精神分析において「他者は自分を映す鏡」と言われているように、特にこの段階におけるスピリチュアル初心者は他者を見ると自分より劣って見えてしまうのです。この段階においては、そういう傾向が自然に出てきます。ただし、それに気づいた時点で一歩進んでいます。
今後の地球文明とアセンションとの関係
天使や宇宙由来の人が今後数世代の後に自身の故郷に帰り、その後、残された地球の人々は自身の手足でこの文明を維持しなくてはならなくなり、一時的に文明崩壊の危機を迎えます。
それはどういうことでしょうか。
地球で今まで暮らしていて、これからもずっと地上で暮らす人にとってはアセンションそれ自体はあまり関係ないお話に聞こえるかもしれません。
アセンションそれ自体は、私と同じルーツ或いは求めているものが似ていて、地球から完全に統合された形で出て故郷に帰りたい人にとっては直接的に関係があります。
一方、地上で「引き寄せの法則」などを駆使して欲望を叶えたいと思ってスピリチュアルに期待している人たちにとってはアセンションは期待外れの内容どころか、周囲にいて不思議なことを成し遂げてくれる人がいなくなる、自分の能力を超えた結果が得にくくなる、地獄のような状況になるかもしれないのです。
今後、多くの地球由来の人がアセンションによって地球を離れた結果、物理的次元でこの世界が固定化され、スピリチュアルな人が減り、物理的人間の割合が増え、結果、その種のスピリチュアルなテクニックが通用しにくい世界、「引き寄せ」や各種の「棚からぼたもち」の状況が起きにくい世界になるかもしれないということです。
更には、宇宙由来で技術的に優位のある存在たちがいなくなり、インフラ等を支える人材がごっそりいなくなることで地球の文明が崩壊の危機に陥るかもしれないのです。AIが優位になり、人々が学ばなくなると「ロスト・テクノロジー」を使うだけの人々が残され、それらが再生産できなくなると全てが壊れるまで文明の崩壊が進む可能性があるのです。
ラピュタあるいはSFのように、AI自身が直してくれる間は良くても、システムのサイクルが回らなくなり再生産ができなくなると、その歯車は壊れ、社会は崩壊に向かうのです。
数世代後、地球人の波動は上がるが、上幅は少なくなる
地球には現在、多様の波動の高低が交差しています。それが、高次と低次に分離し、この地球は割と低次の波動で固定化されるのです。
今後、数世代に渡って各種のグループがアセンションします。それ自体は高次と低次の融合であるわけですが、そのことで地球を離れるグループが多数いるのです。
それと入れ替わるように入ってくるグループもいて、又、地球の物理次元に残る大半の人々もいます。
その結果、地球は、今のような広範囲の波動が混在した世界ではなく、割と低次の波動の幅で固定化された状態になるのです。
その頃になると、現在、地球の大多数を占める人々の波動がほんの少し上がります。一方、多数のグループが地球を離れることにより、上ぶれが少なくなるのです。結果、平均としては変わらないかむしろ下がるのですが、地球人のみを見ると少し波動が上がるのです。
それは悪いことではなく、そのような幅の少ない環境における固定化された安定した波動の元での学びの場所に地球はなるのです。
魔法のような宇宙由来の人に頼ってできている現在の文明
地球文明は、宇宙由来の人によって特に最近は進歩してきたと言えます。
宇宙由来の人々はと言いますと、天使の一族や宇宙から来た人たちは総じて能力が高いので普通に生活していれば人並みに稼ぐことができる場合も多いのです。ある程度の経済の基盤がなければ平穏に暮らせないというのは宇宙由来の人も同じです。
ですが、場合によっては宇宙由来の人の能力の高さを地球人に搾取されている場合もあるのです。
ただ、どちらの場合でも、それと狙っていなくても地球の人を助けるという構図になっていて、当人は普通にしていても、その成果を地球の側に与えるという状況ができています。その状況はというと、あたかも勝手に宇宙由来の人がやってくれるような状況で、地球の側が勘違いしやすいのです。そのような状況では、地球の側が自分で考えることを辞めてしまうのです。そして、「何もしないでも与えられる」「誰それがやってくれる」という状況になりやすいのです。ですが、それは狙って助けているわけではなく、能力が違いすぎるからそうなるのです。
- 宇宙由来の人が成果を出す
- 宇宙由来の人は、時として地上的な報酬を十分得ていない
- 宇宙由来の人の成果を地球人が吸い取るという構図
- えてして、能力が低い地球人を宇宙由来の人が助けるという構図になりがち
- 数世代後、宇宙由来の人のほとんどはアセンションしていなくなり、地球人は自身で地球の文明を保持する必要が出てくる
- その時、今のように宇宙由来の人の成果を地球人が吸い取るという構図は不可能になる
- 文明を維持することが困難になる。
- 文明崩壊の危機が訪れる
この種のお話は、能力の基準が低くて稼ぐことができない人を助けるというお話ではないのです。地球に残る人は、働かなくて楽に稼げる方法とかよりも、むしろ、自身の足で立って生きることを学ぶ必要があります。何故なら今後、数世代後に能力の高い民族が一斉に地上を離れるので、インフラを支えていた層の一部がいなくなるからです。それまで数世代をかけて技術を学ばなければ地上のインフラを維持することも難しくなるでしょう。今まで、陰でこの社会を支えてくれた人がいたからこそ成り立っていた「平穏な、平和な生活」が、如何にして支えられていたか、その時になって初めて広く認知されるかもしれません。今、「何もせずとも与えられる生活」などと呑気なことをスピリチュアルで言っている人々は、現在の生活が多くの技術者の能力と努力によって支えられていることを認識すべきです。大体の場合、こういうことをいうと「自分は何もせずに与えられて生きている。実現できている。うるさいことを言う人」として、聞く耳を持たないことも多いかと思います。そもそも、技術者というものが低く見られ過ぎています。文明の中に、これだけ技術を持っている人が多くいるということ自体、地球に生きている人は幸せに思うべきなのです。基本的に「支えられている」「与えられている」ということに無頓着なわけです。無頓着なだけでなく、資本主義なのだから与えられて当然だと傲慢にも思っていることすら普通にあります。
今後、地球に残る人たちは熾烈な椅子取り合戦に参加することになるでしょう。それは既に始まっています。様々に大変な状況にも遭遇することでしょう。帰る人たちはその準備をしますし、地球に残る人は自分の居場所を固めるわけです。それぞれ、自身の認知の範囲で、行うべきことをしています。
国や地球というレベルにおいて統合が起こります。地球の統合は世界の平和的に良い面もあれば、ある意味においては「世界征服の実現」という側面もあります。それは、その意識段階においての統合がそうした征服のような形態を取ることがあります。まだまだ混乱は続くでしょう。物理次元における欲望に基づく「統合」は征服と支配という形式を取るのです。
このような支配が悪いと言っているのではありません。その意識の次元においては統合が支配という形式を取るということです。
この地球において、宇宙の存在の助けにより平和な世の中がある程度まで構築されました。今後数世代で宇宙の存在が帰った後、また元のような欲望と殺戮の時代に戻りますか。どのような社会にするのかは、地球に残る人が自ら決めるのです。それが「自由」と「責任」ということです。
宇宙の助けを借りて自分だけが良い暮らしをしたいと思っている人は多いと思います。霊能力者の助けを借りて裕福になろうと願をかけている人も多いわけです。そのようなことは、今後数世代後にはほぼ全て自分たちで行わなくてはならなくなるのです。
であれば、今のうちに、技術や知識をできるだけ宇宙の助けで身につけておくべきなのです。
昨今、AIが出てきたことにより知恵・知識が外部化され、当初は安いと思われていたAIが、人々がAIに頼り切りになった瞬間に劇的に料金が高くなるでしょう。それは今までも行われてきたことです。無料だからといって飛びついてきたツールが、突然の値上げ、あるいは情報を吸い取られ続けていた、などということは今までも普通にあり、よって、AIでもそれは起こるでしょう。資本主義の理屈により「AIに頼る人たち」が増えるということは、それだけAIに価値があるということになり、よって、高額な使用料金を設定することが正当化されるでしょう。
これは、AIに限らず、安い宇宙人労働力に頼り切りな状況にも似ています。
かつてから、宇宙からの助けにより良い技術が導入されると、それはほとんど無償で与えられました。一方、地球人が「価値に応じた値付け」をして、宇宙人からほぼ無償でもらった知識であるのにも関わらず高額な値付けをしてきたのです。自分たちで作ったわけでもないものを高く売りつけることにばかり長けている人が大勢います。そのような地球は今後、地獄と化す可能性があります。多くの、地球に残る人たちがそのような独占にNOを言わなければ本当にそのようになってしまうのです。
「宇宙人が無償で与えてくれた知識を、独占するな」、そう言わなければならないのです。
実のところ、宇宙人たちは、既に呆れ返っています。様々な技術支援をしても、結局は金儲けや戦争にばかり使おうとする人たち。であれば、宇宙人は「もう、助けなくてもいいのではないか」と思い始めています。今後、数世代に渡って少しずつ宇宙人が離れていきます。宇宙人がいなくなったその時、宇宙人に支えられなくなったこの地球の文明は突如崩壊の危機に直面するのです。
既に、その方向で動き出しています。天使はもう自分たちの世界へ帰りますし、レムリアも、宇宙人も、ある程度の地球の統合(という名の世界の統一)を見届けた後、後の地球は地球人自身に任せて、ほとんどの宇宙の存在が地球を離れます。
もしかしたら、その時、支配者が全てを奪うような世界になっているかもしれませんし、違う世界かもしれません。
今のところ、今の延長線上の、資本主義社会がそのまま続く可能性が一番高いと見られています。
数世代後、その社会を変える必要性は宇宙人にも地球人にもさほどないからです。
宇宙由来の人は自身のカルマを果たし、自身の世界へと帰ります。一方、地球に残る人はそのまま放っておかれるのです。ある程度の支援と準備を与えようというグループはいますが、それ以外は放置されます。それは、地球の人が望むような「自由で、欲望が追求できる社会」になるのです。それは愚かでも、地球の中で、この箱庭でそうしていてくれるのであれば、それを咎める人は基本的にはいないのです。この宇宙には不干渉の法則がありますから、基本的にその惑星の未来はその惑星の生命が決めてゆくのです。
そのように、地球の人は、外からの助けもない、自身の足で歩んでいく必要に迫られます。
そうなると、宇宙の人に頼って何かしてもらうような、「Too Good To Be True」な状況は消え失せ、文明は相応にまで退化する可能性がありますが、それでも、あるならば利用してなければないで済ませるのが地球に残る人の性質になるかと思いますので、側から見ていて文明の退化が起こっていたとしても当人たちはさほど気にしないでしょう。
それはそれで、楽観的であるというのは地球に残る人たちの良い特徴でもあるのです。
ライトワーカーを自認している人たちを私がどう見ているか
ライトワーカーは、不退転に至った状態
それまでの低い欲望だらけ状態から一つ上がった段階です。この状態では低い波動と高い波動の「二分性」が強く現れます。と同時に、もう低い段階には戻らないという不退転の状態に達しています。
- 低い状態: 欲望に満ちた状態(悪、闇)
- 高い状態: 善、光
このような二分化された言い方は一般的には語弊があることも多いのですが、この段階におけるものの見方は、このような2つに分けた価値観が強く出るということです。
このくらいの状態ですと、まだ自身の中に低い波動のものをそれなりに保持しています。ですので、自他ともに「善と悪」という二元性の状態と価値観が現れやすいのです。自身は不退転に達した、そこから更に上昇しようとしている。そのような中間的な状態において心理的には「光と闇」と言う価値観として表れやすいわけです。そして、かつての価値観を周囲に投射して見ることにより他者を「悪」と糾弾するようになることもあります。
オーラあるいはチャクラの状態はアナハタ(第4)が優勢です。
それ以前のマニプラ(第3)くらいですとまた転落して動物的あるいは欲望の世界へと戻ってしまうことがあります。しかし一旦アナハタへと上がってしまえばもう戻らない、不退転の状態になるのです。それは一定の成長を意味する興味深い状態ではありますが、それ以上の状態であるヴィシュッダ(第5、理性が成熟、スピリチュアル的な論理を理解する)、アジナ(第6、個としての神聖)はまだ不活性なことが多いです(もちろん人によって差があります)。
概ね、このくらいの段階ですと、完全に統一されたワンネスの境地ではない。しかしながら、闇とも比喩される自身の低次の部分より高次の方が優位になっています。低次を高次が凌駕している。
それにより、自身の認知が「光と闇」と言う価値観で満たされるのです。この状態においてはワンネスというよりも、闇を滅ぼして光が勝つという二元性の視点が強くなります。実際、自分のオーラの状態がそうであるからです。自身が、そうして低次を高次に昇華していく段階なのです。それを、主観的には「光と闇の戦い」として認知しやすいのです。
それは決して悪いことではなく、この状態における、ものの見方なのです。
グループの自己統制のための論理としての「善と悪」
又、この状態では他者への関わり方として同様の関係性が現象面にも現れ、善の側(あるいは光の側)と称するグループを作ることがあります。そして、自身のグループの統制を取るために悪の断罪(あるいは闇の断罪)という論理を使ったりします。それは他者への評価だけでなく、自身のグループの秩序のためでもあるという面もあります。そのように、その論理が必ずしも他者のことではなく自身のグループの自己統制のためである場合はこの種の善と悪の論理をあまり一般化して捉える必要はなかったりもしますが、それでも、この種のグループの主張としては「善と悪」になるので、傍目にはそれが第一の主張であるかのように見えます。実際は、半分本気、内部統制が半分ということが多いように思います。
このように、グループの場合においても、個人という単位においても、どちらにせよこの種の善と悪という論理は自己完結的になることが多いように思います。
- 個人の場合は自身のオーラ・チャクラに基づく価値観が「善と悪」という二元論になる。
- 団体の場合は自身のグループの内部統制のための論理になる。
オーラの階層と幅
このライトワーカー層は地球の一般的な人たちよりは波動が高い、しかし天から降りてきた天使などよりは波動の低いグループかと思います。これはどちらが優れているかというお話ではありません。
と言いますか、この種の波動の高い低いはかなり誤解のある言い方なのです。波動の高さ、と言うよりも、どのくらいの波動の幅が扱えるか、ということの方が重要なのです。
天使あるいはそれに類する者は、一見すると低い波動から高い波動まで、多様なものを使いこなします。その姿は一見すると、高い波動なのか低い波動なのか簡単に見分けがつかなかったりします。それはというと、波動というものは多様に混在しているからです。それでいて統合され、必要に応じて、多様な波動を使いこなせる、出せる。表現できる。見せられる、受け止められる。そのような多様さがあります。その多様さが天使の特徴です。
善と悪、光と闇
一方、ライトワーカーの波動はいわゆる「高い波動」と自称する一定の幅に固定され、その波動の基準としての幅はそこまで大きくないように思うのです。これはというと、ライトワーカーの許容度の幅をそのまま示しています。その許容度の幅を超えるとライトワーカーは拒否反応を起こし、「悪」「低い波動」「エゴ」「成長していない人」という二元性のレッテルを貼ることがあるのです。
- 低い波動に対しては「悪」→ 戦いで滅ぼすべき対象、闇とみなす。→ 第1〜2チャクラ
- 自分たちの波動領域を「善」→自身を光の側とみなす。→ 第4チャクラの前後
- 謎なワンネス(混在波動)に対しては「恐怖」 → それこそが実はワンネス(これすらも彼らは拒否をすることがある)→ 第7チャクラ等
実のところ、これが世界、はたまた宇宙で争いの原因にもなったりしたのです。当人は善のつもりで、それでいて、それ以外の価値観を排除したのです。そのような価値観では地球は存続しないのです。そのような二元性の反応は争いを生み出し、この世界を不安定にするのです。
闇や悪を嫌うという性質
この段階では、低い波動を嫌う、拒否反応を示す、ということがよく行われます。自身は善に目覚めたが、それにより、自身の悪を周囲に投射してしまい、他者に善や悪を見ると激しい嫌悪の感情が湧き起こるのです。そして、それを否定することで自身が善あるいは光であろうとします。
そのような状態ですと、他者が(一見すると)低い波動と思われる事柄に執着している(ように見える)と、可能な限り「戦って、滅ぼそうと」することがあります。直接的に戦うことがなくとも言葉においては「そのようなことに反応しているなんて、波動が低い。成長していない」というような価値判断が出るわけです。それはというと、他者の価値を破壊しようとする言葉の投げかけです。
それは割とスピリチュアルの人の固定観念のようになっていて、固定観念といえばそうですが、それは観念というより、闇や悪を破壊するための道具としての言葉として昔から同様のことが言われていたように思うのです。
そして、その基準となっているのは、「善と悪」「光と闇」といった二元論に基づく、この段階におけるものの見方なのです。
その結果として生じる、分断
しかし、これを続けていると、動物的本能や欲望で動いている人に対する無理解あるいは分断が生じてしまうことがあります。
- 攻撃(行動における分断)
- 無関心・無理解(理解における分断)
攻撃という面で行動に表していると人間関係における分断が生じます。結果、闇や悪と判断した相手との間で紛争状態になる可能性があるわけです。
一方、理解において分断してしまうと悪や闇に対する認知不能となり、対応がちぐはぐになることもあります。本来は避けるべき動物的人間や欲望に満ちた人間を、呑気にも近くにおいて危険と隣り合わせ、という笑えない状況も起こりえます。この地上には本能的・衝動的な反応で動く人も少なくありません。その性質をよく知っておかなければ、例えば呑気に熊に餌付けをしていたらある日突然、形が残らないくらいにまで完全に食べられてしまった(実話)、という状況にもなりかねないのです。生態の観察は重要なのです。そのような危険な人は近くに大勢いるわけです。その生態を興味深く眺めていたとして、それ自体が咎められるべきではありません。
無関心、あるいは、避けるべく攻撃的になると、いずれの場合でも問題を引き起こす可能性があるわけです。
光と闇、というフレームからの脱却が必要
ライトワーカーと呼ばれている人たちは、簡単に「善と悪」のフレームに持ち込みます。そして、悪が滅べばこの世界は平和になる、と簡単に当然のように言います。自身は絶対的な「善」であると思い込んでいます。
・・・しかし、それでは、世界は平和にならず、争いが継続するのです。何故ならば、その善と悪と言うフレームこそが分離だからです。分離では平和にはなりません。自身の知らない領域に出た瞬間、それは簡単に他者から「悪」と見なされてしまうかもしれません。その知らない領域で、貴方は自身のことを「善」と言い切れるでしょうか。そして、無自覚に行なった行為が他者から「悪」と見なされた時、それを受け入れる覚悟はあるのでしょうか。
ライトワーカーが「悪を滅ぼせば平和になる」という論理でいるかどうかが、今後、地球がどのように変化していくのかに大きく影響するでしょう。
それも含めて自由の選択の一つ
それが良いか悪いかというお話ではありません。そのような価値観で地球を運営していくことも、地球に残る人たちの選択の一つであるからです。それが自由と責任ということです。
地球の人に、善と悪(あるいは光と闇)のフレームを教える
ライトワーカー自身は光と闇のフレームを脱却する段階に近づいています。一方、地球の大多数の人はむしろその善と悪のフレームを身につけるべき段階に来ていると言えるかもしれません。
地球の行末にとっては善悪のフレームを超える必要があるのですが、一方、大多数にとってはそれは守るべきフレームになるわけです。
その段階の違いを踏まえた上で、善悪や光と闇というものは究極にはワンネスであるという理解を元にしつつも、人々が守るべき秩序のフレームとして長年ライトワーカーたちが培ってきた善悪のフレームがこの地球の平和に役立つ可能性が大いにあるわけです。
それは「悪いこと」と言う二元論ではなく、善や光というフレームの方です。
悪や闇としての低い欲望の段階がありつつも、それは滅すべき対象ではなく成長の一過程として捉え、善や光としての成長した姿を基本とすべきなのです。
地球の、欲望に満ちた人のことが理解できない人
このような人が一定数存在します。
この辺り、素性に応じて地球の人の欲望に詳しいかどうかというのも変わってきます。
地球に生まれて長い人であればそのような人の形態にも詳しいのかもしれませんが、宇宙由来の人は、欲望に満ちている人の生態というのがよくわからなかったりします。捻くれる人、というのも理解できなかったりします。そうすると、呑気なカモにもなってしまいます。詐欺師のことも見抜けずに何度も騙されることもあります。
危険な獣は人から離れたところに生息させておく必要があります。それと同様に、獣のような人は遠ざけておくのが良いのです。そのためにも、生態を観察して多少は理解が必要なのです。
宇宙から、呑気にも技術提供をして、結局、その技術は独り占めされて儲けの道具と化したり、戦争の手段として使われたりしました。宇宙の存在は、割とお花畑の人も多いのです。激しい気性の宇宙人もいますが、割と、能天気で楽観的な宇宙人も多く、地球に助けをしても期待外れのことが多くあります。
地球に転生をして、周囲の人を助けてあげていると思っていても、結局は、人々の欲望を満たしてあげるだけだったりします。よくある「拝み宗教」の教祖様にそういう人がいたりして、当人は人々のためにと思っていても、助けを求める側が結局は低級な欲望しかなかったりしますから、そのような低級なところに力を与えたとしても、歪みが拡大するだけになったりします。欲に満ちた人に願いのまま財産を与えても富を独占したり他者を虐げたりして、よほど酷いことになるわけです。そのような「拝み宗教」が昨今は減ってきたのは、能力者が表に出なくなったというのもありますけど、助けても意味がないことを宇宙由来の人が学んだことにもよります。
一部の宇宙から来たライトワーカーは単純に「地球の人たちの欲望は良くないものだ」という価値観に満たされている場合もあります。その場合、そもそも地球の人の欲望に興味がない、あるいは、悪いものとして断罪を繰り返すのも当然であると言えます。
又、元々この地上に暮らしていて人間の欲望やら嫉妬に飽き飽きしている大勢の人にとって、この種のお話を再度されても「またか、そんなのはうんざりだ」という気持ちになるのもわからなくもありません。
どうしてある種の人たちはそれほど嫉妬深いのか、欲が強いのか、どうして捻くれているのか、宇宙由来の人にとっては、いくら探求しても、そもそも根本のところがきちんと理解できないのです。ですから、何度でも「んー。あれって、どういうことだろう? 世の中にそういう人がいるのはどうしてだろう?」と思うわけです。この種の、どうしても理解が難しいもの、それが地球にいる強欲な人のことです。あまり理解できないからこそ観察しているのですが、それを傍目からは「低級な欲望に囚われている」「雑念を捨てることができない人」と見られてしまうこともあります。地球で、どうしてあんなに捻くれた性格の人がいるのか、よくわからないわけです。わからなければ理解しようとするのは当然だと思います。そういう点を追求するのも、地球の人にとっては「何を一体、そんなことに興味を持っているのか・・・」と思われてしまうようです。
地球の欲望は、全てのライトワーカーがある程度は理解した方が良いことかもしれないのです。
それは、どうやら理屈というよりも、低次の感情によって突き動かされた結果であるようなのです。それは、わかっている人にとっては当然のことであるかもしれません。理屈ではなく、逆らいようのない欲求がそこにはあるようなのです。ですから、他者に対して酷く憎悪したりするのです。
俗に言うアドラーの3番目に似た状態でもありますが、もっと単純なお話だと思います。単純に、見た目で、目の前のものを手に入れたいという直接的な欲求がヒステリーや憎悪を生み出しています。最初は、そのような単純な感情から始まります。
そして、もう少し精神が成長すると捻くれたり、陰謀を巡らせるようになります。そこで、ひねくれた人は自己肯定するために他人を責めたり足を引っ張ったりするわけです。つまらないお話と言えばそうですけど、そうして、そのようなつまらない理由で他者との関係に一生懸命になっているような人もいるわけです。何かしらの内的な不足や不安を抱えているわけです。ある種の行動も、認識の限界から生じているものなのだったりするかもしれないのです。それは同情する必要はあまりなく、単に、そういう生態だと理解すれば良いわけです。
初期的な欲求としては、とても単純な、目に見えるものを手に入れたいという感情そのものであり、もう少し発展すると捻くれた感情になるわけです。それは、更にもう少し発展するとアドラーの3番目のように明確に自己意識の肯定みたいなお話にもなりますが、どうやら、それ以前の単純な感情の欲求であるお話も多いわけです。自己肯定のお話に至る前に、単に獣に近い欲求が先に来る人が一定数いるわけです。
- 獣に近い欲求(貪り)
- 感情の欲求(捻くれも含む)
- 自己肯定の欲求
このような人々を理解できない宇宙由来の人は、関わってはいけないこの種の人に関わった挙句、手助けをしようものならその成果は当人のためだけに利用されます。
ライトワーカーは、欲望だらけの人をどう解釈するか
多くの人は、欲望だらけの人を理解できないために、単に、関わりたくないと思っているだけかもしれません。
普通の人ならともかく、ライトワーカーを自称して、ライトワークでこの世界に平和と愛をもたらすと言いながら、「関わらない」と言う態度は、本当に「愛」なのでしょうか。
「理解しない」「関わり合いたくない」と言う、愛ではない態度を正当化するために「善と悪」と言う都合の良いフレームワークを持ち出してはいないでしょうか。
獣は獣として、その論理と世界で生きる分には問題ないと思うのです。それぞれの世界があります。それを否定する必要はないと思うのです。他者の自己擁護など各種の行動の理由はアドラーの3つ目で説明できますが、その根本を辿れば、「知らないこと」による認知の限界に行き着きます。そして、当人の認知においては相応の合理性を持っているのです。
ですから、ライトワーカーへの処方箋としては、善と悪による分離を辞めることです。誰にでも、自己の認知限界と、それ以外を知らないという「無知」があるのです。よって、自分が知らない領域においては自身が容易に「悪」になり得るのです。
これは、今まで散々「善と悪」のフレームワークに親しんできて当たり前と思っている人にとては受け入れ難いお話かもしれません。
ライトワーカーと呼ばれている人たちは、簡単に「善と悪」のフレームに持ち込みます。そして、悪が滅べばこの世界は平和になる、と簡単に当然のように言います。自身は絶対的な「善」であると思い込んでいます。
・・・しかし、それでは、世界は平和にならず、争いが継続するのです。何故ならば、その善と悪と言うフレームこそが分離だからです。分離では平和にはなりません。自身の知らない領域に出た瞬間、それは簡単に他者から「悪」と見なされてしまうかもしれません。その知らない領域で、貴方は自身のことを「善」と言い切れるでしょうか。そして、無自覚に行なった行為が他者から「悪」と見なされた時、それを受け入れる覚悟はあるのでしょうか。
多くの場合、自身の価値観を正当化するために善と悪というフレームを持ち出しているだけで、善と悪というフレームを普遍的な物差しとして捉え直してみたことがそもそもない可能性すらあります。
獣がいて、獣は獣なりに弱肉強食を追求する自由があります。一方、文化的な生活を送りたい人もいます。それぞれ、行いたいことが違うわけです。価値観が違うわけです。理解しあえない部分があるのです。であれば、どちらもお互いになるべく関わらずに生きていけるようにする知恵こそが必要なのではないでしょうか。
ライトワーカーが「悪を滅ぼせば平和になる」という論理でいるかどうかが、今後、地球がどのように変化していくのかに大きく影響するでしょう。それが良いか悪いかというお話ではありません。そのような価値観で地球を運営していくことも、地球に残る人たちの選択の一つであるからです。それが自由と責任ということです。
天から来たグループ(天使など)を私がどう見ているか
このグループは、自身の波動の幅が広く、側から見て不思議な感じに見えます。「不思議ちゃん」もこの枠内にいます。多様な波動を使いこなし、時に極端な行動を見せたり、文字通り輝かしい天使や女神のような人もいます。
そもそも、本来の天使というのはとても輝いています。特に女性は非常に華やかに見えることがあり、その波動の高さは誰しもが一目おきます。
天使の善や悪は、ライトワーカー的な規範にはあまり従いません。
では規範がないのかというとそうでもないのです。ライトワーカーがよく持ち出す「光と闇」「善と悪」のフレームに従わないだけで、不文律のようなものが、あるようなないような、その状況に応じて判断がなされます。
そして、このグループは基本的に自由ですから、地上の「欲望」は本質的には無縁で、地球の人たちがどうしてあれほど強欲なのか、さっぱり理解できないのです。それでも、地上との関わりでその種の欲望と関わることがあります。
それでいて、かつては、その種の悪の人物に対し、強烈にNOを突きつけて突き放すということも多々行いました。ただ、それはライトワーカー的な「善と悪」「光と闇」という規範ではないのです。
もっと単純なお話で、天使にとっての規範とは「神として振る舞い」です。
ここでは簡単のために「悪」とあえて言いますが、悪がやってきた時、天使は強力な力で跳ね除けるのです。
これは善悪フレームにおける善としての行動で理解されることも多いですが、本質的には、神とはもっと自由なものです。そこには調和をもたらす者としての性質があります。ただ、現象としてその本質を理解することは難しいこともあり、神として裁く時は、それは傍目には天使なのか悪魔なのか見分けがつかないことがあります。
そして、そのような時は毅然とした振る舞いを自身に律します。そうは言いましても地上に暮らしているとそうでもないことも多いのですが、基本はそうです。そして、普段の状態はぼけっとしていることも多く、地球の基準でいうところの「しっかりした人」という基準から外れていることも多いです。心は自由人なのです。
それでいて、天使のヒエラルキーがあって、それには従います。
波動の高さによって導かれるのです。
この種のグループは、地上に長らく関わったことにより自らの魂をどこかに置き去りにしていたりします。沖縄のマブイ相当です。
それらを回収するためにも、地上の欲望というものを多少は理解して、どうしてそのようになったのか記憶を辿り寄せれば回収することも叶ったりします。あるいは、単純に、地上の人々がどのような欲望を持っているのか知らなければ呑気にしていて騙されるということもあります。本能的な欲求を持つ人が如何にそれを隠して生活しているのか、そのような人々の気持ちを少しは理解できた方が良いのです。
そして、それこそが自己の、この地球の人と関わったことで低級な波動に触れてしまった自身のオーラを統合する鍵になります。この時、そこまで深く理解する必要はなく、多少理解することで統合が起こります。
かつては、このように低い波動に影響されてしまった場合、そのオーラ(魂)を切り離すしかなく、地上に取り残されてしまっていました。それがいわゆるマブイ相当となって、天に帰れないオーラが蓄積されていったのです。
そして、それらが丸ごと全て帰還するためにも、ある程度、地球の低級な欲望を理解して自己の中で整理をつけ、自身のオーラを統合していく必要があるのです。
その、欲求に強く動かされた、物語のストーリーで悪として描かれるような人々がかつていて、ことあるごとに天使のミッションを邪魔してきました。その時、ちょっかいを出された天使が葛藤し、跳ね除けたときに低級なオーラに触れたことで、その部分が天に帰れなくなって部分的に地上に取り残されてしまったということです。
ですから、その、残された部分というのは、人間の強い欲望を一部背負っているのです。そして、その欲望すらも自己の中に統合し、地球に取り残された自身の魂のかけらをなるべく全て助け、その後、数世代の後に自分たちの故郷へと帰ることになっています。
ある意味においては、天使たちは被害者という側面もあるのです。欲望に強く突き動かされた人が妨害者のような形で立ちはだかり、時に命も狙われ、多くの天使が命を落としてきました。火炙りになったり拷問にあったことも珍しくありません。
そのような時に、オーラの一部が、地上に取り残されてしまったのです。
そして、今後、数世代の後に天使たちが一斉にルシファーの号令で帰る時に一緒に帰れるよう、いわば「人間の欲望の犠牲者」となって地上に取り残された魂の片割れたちを回収しています。
・・・このような状況を、他のグループの人が見た時、どう思うでしょうか。状況を理解できないことでしょう。そして、天使たちの回収劇を見て「低い波動だ」「成長していない」などと陰口を叩くこともあります。天使たちは誤解され、堕天使だの、悪魔だの、散々に扱われてきました。それが今も続いているという面もあるのです。これは、当事者以外にはあまり関係のないお話であります。基本的には自分の属するグループの課題を解決することが大切です。それ以外のグループのことに口出しをしたところで、的外れになることが多いかと思います。
「救済」モデルと3つの立場(天使、ライトワーカー、地球側)
さて、ここまで見てきた3つのグループそれぞれの立場から「救済」モデルを見たときにどのように見えるのか、それぞれ簡単に見ていきましょう。
- 天使グループ
- ライトワーカーグループ
- 地球に根ざしたグループ
これに対して、以下のような判断軸を設けます。
- 下位チャクラが優勢な人(ムーラダーラ、スワディスタナ。第1、第2)
- 中位チャクラが優勢な人(マニプラ、第3、時にアナハタ、第4、ヴィシュッダ、第5)
- 上位チャクラが優勢な人(アジナ、第6、それ以上)
必ずしもそれぞれのグループで対応があるわけではないのですが、ざっくり言うとそれぞれのグループでチャクラ優勢の傾向が見られるわけです。そして、それを第一のファーストインプレッションとしての仮説にして、その上で、もし長く付き合うのであれば個別に見ていけば良いわけです。
仮説としてのチャクラ優勢
- 天使グループは上位チャクラ優勢
- ライトワーカーグループは中位チャクラ優勢
- 地球に根ざしたグループは下位チャクラ優勢
「救済」モデルとの関連
そして、このチャクラ優勢を元に「救済」モデルを見ていきます。
世間でよくある「救済」モデルは天あるいは高次の存在に現世あるいは死後に救われる、と言うものです。そしてそれは、チャクラが現時点でどれが優勢かによって、助けられる側か助けない側かが決まります。
- 天使グループは助ける側
- ライトワーカーグループは(一応)助ける側
- 地球に根ざしたグループは助けられる側
とは言いましてもこれは絶対なものではありません。そういう傾向があると言うことです。
実際のところ
天使グループ
天から来たグループのうち、特に天使グループに関して言えば、かつて地上に関わって取り残された同胞を救出すると言うシナリオがあります。
また、このグループは地上の人たちを導きはするものの、直接的に助けることはあまりありません。それは自由意志を尊重しているという面もありますし、何より、このグループにとっては地球との関わりは「(真剣な)遊び」なのです。よって、天使の箱庭で遊んでいるのが地球の人々、とも言えるのです。それを、時に地球の側が「救済」と解釈することもありますが、実際には、積極的に介入することはほとんどないのです。時に酷い状況にならないよう介入することもありますが、それは「救済」ではなく一時的な方向転換とそれ以上悪くならないように調整しているという側面が強いのです。基本的にこの地球の運命は地球の人たちに昔も今も委ねられています。
このグループは、かつて地球に関わって低級な欲望のオーラに影響されたことで、魂の一部が切り離され、地上に取り残されている場合が多々あります。それは沖縄の「マブイ」のような概念です。死後、大部分が高次に帰る一方で、低いオーラに影響された一部が切り離され、地上に取り残されてしまっていたのです。例えば、とある故人は火炙りで死んだ時に大部分がそのまま高次(天)に帰り、一部は地上に別の魂となって何回か転生した後に天(高次)に帰り、ごく一部は今も地上に取り残されています。このように、地上に残された魂は少なからず存在しています。
天使グループは、その苦しんでいる同胞の魂を探し出して救うことで「救済」モデルが終わります。
ライトワーカーグループ
ライトワーカーは自身がかつて宇宙(オリオン等)で繰り広げたカルマによって苦しんでいる同胞の精神を癒す、救うと言うシナリオが多いように思います。そのための仮想敵および幻想に取り憑かれて「光と闇」戦いを繰り広げている。いわば、自身を救う立場と必要性によって「救済」モデルが成り立つ。自身は「地球を救う」「世界を救う」「人々を救う」と主張しているが、実際は、過去のカルマにより苦しんだ自身を癒すために過去の敵を現在においていわば「仮想敵」として周囲に投射し、今はもう存在しない「光と闇」の戦いを現在に再現させてかつての自身のレッスンを遠いこの地球で擬似的に繰り返している。救うべきものはもういない、戦争は終わり、いわば既に救われている、既にもう終わったことになっているのに、その過去の歴史に囚われになっている、それがこのグループの根底にあって突き動かされている。周囲を見ては「正義」を説き、「低い波動」に対して「善」を主張する。そういった態度が非ワンネスであり争いを生み出すことを当人が気がついて学び終えるまで「光と闇」の仮想の戦いは彼らの中で続く可能性があります。チャクラ的に言うと、第4のアナハタが優勢でそれ以上がまだそこまで活性化していない人は攻撃的なことが多々あるのです。アナハタは愛のチャクラと一般的によく言われますけど、それは上位のチャクラが優勢になってアナハタが活性化してきた人のお話です。難しいお話になりますがチャクラそれ自体には何層かあって、ここで言っているのは物理層に近いところでアナハタが活性化した場合です。中間的な波動を持っているが、それでも、どこか攻撃的な面があるのです。スターウォーズのジェダイを見ればなんとなくイメージが掴めるかと思います。
このグループは表面上は「世界救済モデル」の「善」「光」の側として自他ともに認識されていることが多いかと思います。それ故に、過去、様々なスピリチュアルなグループが「世界を救ってきた」と主張してきたのです。しかし、その大半は過大評価なわけです。
実際は、何かを救うと言うよりも、自身の中でのレッスンを終えた時に「救済」モデルは終わります。
地球に根ざしたグループ
この人たちはかなりの昔に動物から始まり、原始的な欲求や多様な欲を学び、そして、人間としての理性を長い時間をかけて学んできたグループです。このグループが高次あるいはライトワーカーの存在と出会ったときには「救済されている」と感じます。ですが実際にはそれよりも自身の今いる段階での学びをする方が遥かに重要なのです。オーラの層が整っていないといびつな形になります。理解が伴いません。例を挙げるとすると、「イニシエーション」などで一時的なオーラを挿入された者は急激な成長を遂げることがありますが、低次のカルマが活性化されるような状況に遭遇すると一気に落ちてしまうことがあります。それはというと、低次のレッスンを終えていないからです。ですから本質は救済モデルよりも、自身の今いる現実のレッスンを終える方にこそあると言えます。
このグループは、自身の足で立って成長していこうと決心した時に「救済」モデルは終わります。
救済というストーリー
さて、こうして見てきましたように、「救済」と言っても立場によって様々な見方があるかと思います。
一般的に、「救済」というと「低い波動」「低いオーラ」「葛藤」「欲望」などに対して救いの手を差し伸べる、ということかと想像されるかもしれませんが、必ずしもそういうお話でもないのです。そのテーマを扱うときに、それぞれのグループの立場から見解がかなり異なると言うことです。
どのグループにおいても、「救済」は他から与えられるものではなく、それぞれの立場において課題を自身が解決することで完結していくストーリーなのです。
- 天使グループは、人間の欲望というものを「それによって同胞が苦しんで地上に取り残された」と認識し、それによって今も地上に残されている自身の同胞を探し出し、同胞の元へと連れ戻すことで救済を与えます。
- ライトワーカーグループは人間の欲望に対して「破壊する対象」「悪」と決めつけていることが多いです。そしてそれを持ってして自分が「善」「光」の側であり、自身こそが「救済する側」であると自称することが多いです。しかし、それは実際には非ワンネスであり争いを生み出すと言うことは以前にも述べてきました。そのような二元性のある見解から離れてワンネスへと進むことこそが本当の意味におけるライトワーカーにとっての「救済」になるのです。
- 地球に根ざしたグループは、時に天から来たグループあるいはライトワーカーたちによって助けられるという場面もあるでしょう。その救済は時にあるとしても、基本はこの地球は地球に住む人たちのものです。自由意志に基づき、この地球を良いところにすることもできるし、逆に、欲望に包まれた世界にすることすらできるのです。どのような世界にしたいですか。他のグループは長期的的にはやがて地球を離れることになりますが、このグループのほとんどは地球に残ります。よって、地球の行末はこのグループが決めるのです。地球の行末に対して、自由の選択が委ねられています。いわば、最終的には「自身で自身を救う」ことになるのです。
レムリアのグループ
ここで、上記の分類とは少し別で扱った方が良いのがレムリアのグループです。このグループはかつて大災害を伴う分離のアセンションにより高次と低次とが切り離されてしまいました。高次はその穏やかな状態で別次元で長らく暮らし、低次は、特に切り離された時期には強い悲しみを伴いました。特に低次の側は、その経験と記憶が、今も残っているのです。このグループは基本、心穏やかですから、そこまで不幸なわけでもありません。ですが、どこか、地上に置いて行かれた残された者には悲しみがあるのです。とはいえ、いつまでも悲しんでいるわけにもいきませんから、それぞれ、自分の場所で一見すると問題なく楽しく穏やかに暮らしてきたのです。
そしてこの時代において、高次が降りてきて、かつての同胞を助けるとう段階にきています。ですから、どこか天使のグループと似たところがあるのですが、このグループの場合は直近で不幸なことがあったわけでもなく、古い記憶と経験に基づき、置いて行かれた低次の側が救われるということです。かつて別世界に移行した高次の部分が戻ることで、低次の片割れと合流します。それは魂的な合一を伴うこともあれば、そのまま別でいることもあります。魂として合一するかどうかはそこまで大きな問題ではないのです。
このことは、幾分か誤解が生じるかもしれません。ここで言っている低次とは、清浄な低次なのです。ですから、穢れとしての低次ではありません。高次は清浄でありますが、低次の方も清浄なのです。物理的な低次と非物質的な高次、あるいは密度が違うと言った方が良いかもしれません。それら、密度の違う者同士が合流あるいは合一、あるいは融合していくように見えますが、時には少し距離のある状態でいるかもしれません。いずれにせよ、近くにあるか、あるいは合一するかたちで、最終的にはそうして救われた者たちと共にグループ全体が(おそらく)新たな世界へと行くと思うのです。このグループの行末は彼ら自身の自由意志に委ねられておりますし、私とは違うグループのことでありますのでそこまで確信はないものの、おそらくそういうことになるのではないかと思っております。
これが、レムリアのグループにとっての「救済」です。
このように、それぞれの立場で「救済」モデルがあり、その意味における救済が終わった後にグループによっては役目を終えて地球を離れることもあれば、地上に残るグループももちろんあるのです。
地球に残る人たちの依存構造の危うさ
これまで見てきましたように、今後数世代をかけて地球以外にルーツを持つ存在たちがそれぞれの故郷へと帰っていきます。或いは、別の世界へと旅立ちます。
残された地球の人たちはどうしたら良いでしょうか。
今は、地球以外にルーツを持つ人たちが技術面で優位を持っています。そして、そのような人は特に報酬を求めなかったりします。
それはというと、例えば電力会社や重工、ITの会社などで一部の優秀な人が、時に特に役職もなく重要な仕事をこなしていたりするのです。一部の中核的な人材が支えている構造になっていることも多く、特に上司やマネージャーなどは管理だけをして、部下の成果に対して良い給与をもらっていたりします。それはそれで経済の論理としてはそういうものなわけですけど、その種の、特に報われないが優秀な層がごっそりいなくなる時が来るのです。その、世の中を支えていた見えない層がいなくなった時、地球の人たちは自分たちでどうにかしていかなくてはならなくなるのです。その時までにはAIもその彼らが作ってくれているとすれば、その時もまた、自分では理解したり動かなくても済むかもしれません。だとしても、理解できないものが一度壊れたらもう戻らない状況になってしまうかもしれないのです。いわば、ロスト・テクノロジーを使うだけの世界になってしまう可能性があります。自分たちでは作ることができず、過去の遺産を使うだけの文明が将来の地球かもしれないのです。今は、お金さえ出せば誰かがやってくれるような社会になっています。しかし、やがて、できる人が希少になる時代が来るかもしれないということです。
先端分野の経営は宇宙人を混ぜて成果を出させるゲーム
よく、日本式は報酬が固定で年功序列だから人々が安心してイノベーションが起こせる、みたいなお話を耳にします。
じつのところ、それは現実が違っていて、多くの場合に宇宙由来の人が混ざっていて、しかも「報酬はこういうシステムだからしょうがないか」と、ある意味納得の上でいろいろイノベーションを起こしている場合も多いように思うのです。
そして、その特殊人材をマネージャーや経営者は認識していなくて、チームの成果あるいはそれを指示したマネージャーあるいはリーダーとしての経営者の成果として考えるのです。経営方針によってそうなった、と考えてしまうのです。
実のところ、人を使う側は自分の理解の範疇までしか理解できませんから、自分より優秀な人が成果を出したとしても、その現実を受け入れないか、あるいは、そんなことない、と、現実を否定してしまうことも多いのです。それは自分なら理解できる筈という傲慢さからそのように現実を捻じ曲げる訳ですが、当人はしっかり現実を見ていると思い込んでいます。それは、本人にとっての現実なのです。そして、自身は優れたマネージャーだと思い込んでいます。
ですから、他の会社で同じことをやっても再現性がないし、名もなく活躍してくれていた人がいなくなれば経営者は成果を出せなくなるのです。そして、それを単に「経営は必ず成功するわけではない」などと、分かりの良い言葉で納得してしまっています。
単に、宇宙人が人知れず成果を出してくれて、自分はそれと知らずに、単に自分の「成功体験」として根拠のない自信を深めてしまっていたりするのです。たまたま成功したようなものなのに、時にそれを大勢に語ったりします。
今後、宇宙由来の人が愛想を尽かして地球を離れることにより、「何故かうまくいく」などという都合の良いお話は減っていきます。
一見すると「人々の頭が悪くなった」と当初は思うかも知れません。実際は、今までやってくれていた(宇宙の)人が、もう関わり合いたくない、と思って離れてしまった結果なのです。
会社とは、将来の利潤の仕組みを誰か他の人に作らせるゲーム
経営者はざっくり理解していればよく、目的は独占と利益です。
ですから、しっかり考えることができて問題解決できる他者を雇うのです。そうして、その人に適度な報酬を与えてやらせます。そして、利益を生み出すシステムを作るのです。出来上がったものに対しても、経営者はざっくり理解していれば十分で、リスクやマーケットを理解していれば、後の細かいことは専門家がやってくれます。
さて、この構図を、地球人と宇宙由来の人に当てはめてみると、どうなるでしょうか。
(必ずしもそうではありませんが、ひとまず図式に当てはめると)地球人は、ざっくりとしか考えません。経営者になります。
(同様に当てはめると)宇宙由来の人は、しっかりと考えて問題を解決できます。技術者になります。
そうなると、地球人は、利益を享受できるのです。それを今は、経営だとかマーケティングだとか言います。
このような状況は、今後数世代の後に、宇宙由来の人が地球からいなくなった時、うまく回らなくなるでしょう。
実際は必ずしもこの対応ではないのですが、現在の状況を理解するためには、このような一例を考えるのが助けになるかと思います。
投資というのは確率論でもありますから、資本があって、多くの事業を立ち上げて、そのうちの幾つかがうまくいけば良いのであって、それはというと、経営者はそこまで理解していなくて、何故かうまく行った、ということが多いのにも関わららず経営者は自分の中でストーリーを作って成功体験にしてしまうのです。そのような状況では、成功体験は再現性がないのも当然なわけです。
将来的に、技術者の代わりをAIが行うようになれば宇宙人がいなくても経営者が事業をある程度まで作れるようになるかもしれません。ただ、可能なことと、行うことを選択するかどうかは別のお話で、他者に任せることに慣れている経営者は自身では行わないでしょう。
このような状況で、地球の経営者は学ぶことなく、ただ自分が勝手に考えた成功体験が正しいと思い込むようになるのです。実際は、誰かがやってくれているのです。経営者などでチヤホヤされるようになると、誰も指摘してくれる人がいなくなります。そうして、不意に企業が崩壊するのです。それはというと、支えてくれていた人が愛想を尽かしていなくなってしまうからです。経営者は、いつしか傲慢になり従業員を奴隷か何かだと思ってしまうことすらあります。そのように、成果泥棒している経営者を助けようという人はあまりいないのです。
それと同じように、今、地球を支えてくれている大勢の存在がいます。それらを蔑ろにして、自分たちがやっていると傲慢に思い込んでいると、その文明は崩壊するのです。地球を支えているのに、それを知らずして、成果泥棒している大勢の人たち。愛想を尽かして宇宙由来の人がいなくなったら、どうなるのでしょうか。地球を影で支えてくれるグループがいなくなった時、不意に文明が崩壊するかもしれないのです。
さて、宇宙由来の人と、地球由来の人、必ずしもそのような対応でもないのですが、概略として、ある程度の傾向が見られますので、ここではまず、由来に基づく「認知の歪み」を見ていくのがそのような状況を理解する助けになるかもしれません。
認知の歪み
一般的に、仕事で優秀な人は認知の歪みが少なく、客観と主観、概要と詳細、方針とタスクとの区分けがしっかりとできています。それは片方から片方へ行き、そのまた逆へも行くことができるということです。それぞれの間に矛盾がないということです。
- 方針からタスクへ
- タスクから方針へ
この遷移ができ、専門分野に詳しい一方で他のレイヤーとの繋がりや違いを矛盾なく理解しているのが優秀な人です。
一方、そうでもない人は矛盾があったり、片方だけで状況を把握しようとします。悪い時には片方のみで状況を肯定しようとします。酷い時には自己認知の歪みが保持されたまま、自己の状況を肯定してしまうわけです。
エゴを肯定し、エゴを拡大させる認知のループ
そのループは歪んだ認知によって実現されます。
まず大前提として、話題あるいはタスクがある時、直接的にそれを行って完了させるのが仕事の本質です。言論であれば話題に対して直接的な回答をすることで説明が完了します。そこにおいて、歪みは是正されることがほとんどです。そしてエゴは消えていきます。一方、そうではない場合もあるわけです。
何がしかの要因により認知の歪みが維持されると、例えば次のようなループにより永遠に自己を肯定することになります。
- スコープの(勝手な)拡大
- スコープの(勝手な)変更
- 元のトピックと、(勝手に)拡大されたスコープにおけるトピックとの矛盾や改善点を発見
- それを指摘することで、元のトピックを曖昧にする
- 仕事であれば元のタスクを完了しない言い訳になる
- 言論であれば相手を(歪んだ論理で)言い負かす(それは間違った態度、間違った理屈)
昔も今も、この種の人はいましたし、時に「口が達者」という皮肉で語られることもあったように思います。
やった風でいて、実務ができないわけです。それでいて口では相手より優位に立つことができる。何か言い負かした風になる。
そもそも仕事や議論というのはスコープを定義してその中での課題やゴールを定めるのであって、そのスコープ自体がズレたり勝手に変わったりした上で相手を論破するような人は、普通は信用されないのです。胡散臭いということです。ゴニョゴニョ言ってそれっぽく説明し、相手が「ん?」と思って思考が止まったらチャンスと見て「ニヤリ」とし、優位に立とうとします。スコープを変えて相手を言い負かした(風に振る舞った)としても、そのようなことをされると、相手にされなくなります。
自覚してやっているなら是正できるのでまだマシですが、空気を吸うように無自覚でやっている人もいて、しかも自己肯定感がとてつもなく高かったりします。日常生活であれば避ければ良いですが、仕事でそういう人がいるとチームが崩壊する危機にもなります。関わり合いたくない人としてラベリングされてしまうわけです。
いわゆる、論破が上手い人、というのはいるものです。そして、それは一理あるように見えつつもスコープが常に動いて自身を肯定することが第一目的になっているため、結局、元のタスクは完了せずに、状況の説明に終始するのです。こうしてタスクはループします。
宇宙人は、認知の歪みが少ない
宇宙の人は基本的にこの種の認知の歪みがあまりないのです。誤解や不勉強における間違いはあるにせよ、元々の歪みが少ないので、学ぶのも早いのです。そして、歪みが修正されていきます。結果、成果が着実に出ます。
一方、地球の人々は往々にして認知の歪みがあり、言葉に対して多種多様に想像をするので、この種のトピックの拡大や縮小を起こしやすく、それにより歪みが保持されやすくなります。結果、成果はあまり出ません。成果が出ない一方で、何か、やった感ばかりが増大されます。
その結果、自己(エゴ)が肯定され続けます。結果があまり出なくても肯定されるため、エゴが拡大しやすい、という構造にあるのです。こうなると、どんどんと尊大になっていきます。認知の歪みが保持あるいは悪い方向に拡大することも普通にあります。
教育の重要性
人の由来によって認知の歪みの程度は違えども、学ぶことでそれは減っていきます。それは教育の効果です。
仕事によって認知の歪みを減らす
良い仕事というのはタスクに対して直接的に対処するので、認知の歪みが減っていきます。
ゾーンに入るというのもこのことです。タスクそのものに成り切ることにより仕事を素早く効率的にこなすことができるわけです。その時、多大な喜びを得ます。この喜びとは純粋な、正しい喜びです。比喩的に善ということもできます。というのも、自他の認知を正して喜びを得ているからです。それは本質に到達するということです。
認知の歪みがあるとタスクと自身の意識とが乖離していますので喜びが少なく、成果も乏しく、タスクがループするわけです。結果、自己の認知により自己を騙して満足を得ようとします。この喜びは歪んでおり、不純な、正しくない喜びです。比喩的に悪ということもできます。というのも、自他の認知を歪めて喜びを得ているからです。それは本質から遠ざかるということです。
タスクが終わらない、ミスリードする、ループする
その歪みが趣味の分野で現れるのであればそこまで害はないものの、言論の分野で行われれば人々を誤った方向にミスリードすると言うことにもなりますし、仕事であれば与えられたタスクがいつまでも完了せずステータスが行ったり来たりでループする、という不思議な状況にもなります。視点がマクロとミクロとで行き来しますので、タスクの視点がばらついて、今日はこっち、明日はこっちと、いつまで経っても終わらなくなるのです。成果物に乏しい一方で、自己の評価だけが高まるのです。
勘違いによるミスリード
時に、この種の認知の歪みが生じている人が「自分はコンサルに向いている」「リードする側に向いている」と思って実際にそういう仕事をすることがあります。しかし、この種の認知の歪みがある人にコンサルされると自信満々で立派に見えるのにも関わらず裏付けに乏しい、実現できるかのように見える一方で実現性に乏しい、という、乖離した状況を生んだりします。
勘違いがリードする社会
そのように、自身を誤認してリードしているのが現代社会であるように見えます。
そして、当人はよくわかっていないのに、何か、ざっくりとしたことを言えば誰かがよろしくやってくれる社会構造になっています。
一般的に、「システムとして回っているこの社会は、意外とそれでも回る」と思われていたりします。実際は、各所でコアなシステムを宇宙由来の人材が支えているのです。インフラ周りは特にそうです。
誰かがやってくれていることに対し、近くにいてもその実力差に無自覚で、呑気にも「この世は、何もしなくても全て与えられる」と思っていたりすることもあります。それが仕事においてもあり得るのだから世の中というのは不思議です。そうすると、自身が動かしていないのにも関わらず成功体験だけが積み重ねられ、自信が拡大し、自尊心が揺るぎないものになります。それは勘違いによるものではあるものの、認識と自己評価というもの自体は確実にそこにあり、容易に是正できない規模にまで拡大することがあります。
宇宙由来の人がいなくなったらどうなるか
高度にシステム化された社会は、そのインフラを支える人材が不可欠です。その多くの分野に宇宙由来の人が関わっています。そして今後、数世代の後に、その、宇宙由来の人が宇宙へ帰るのです。そうなった時、インフラの維持が難しくなるかもしれないのです。
今まで、資本主義やらさまざまな理由で管理する側に立ったり投資家として利益を享受する側だった人が、次第に、社会そのものが不安定になって「何もしないでも与えられる生活」が脅かされる状況になることもあり得るのです。
かつて栄えた文明が宇宙由来で、宇宙由来の人が治めていた間は平等だったが宇宙の人がいなくなったら絶対君主制になり貴族と奴隷の身分社会ができ、そして社会の地盤が揺らいで崩壊する、という、いつか見た光景がこの時代から先にまた再現する可能性は大いにあります。
- 宇宙由来で栄える。平等社会
- 宇宙由来の人が去る
- 地球由来の人が貴族として、その他大勢を奴隷化する
- 文明が崩壊する
このような流れは、これから数世代で普通にあり得るわけです。宇宙由来の人に依存していた構造が、いなくなることで根底から崩れるのです。
誰かがいつの間にかやってくれる時代の終わり
このような将来が見えている状況で、呑気に「何もしないでも、与えられるだけの生活」だとか言っている場合でしょうか。地球に残る人は、他者の利益を奪い取ることに知恵を働かせるのではなく、自身が努力して技術を理解し、自分がこの世の中のインフラを支えることができるようになる必要があります。全員とは言わないまでも、それぞれの分野でそう言う人がそれなりに出てくる必要があります。今は、能力の高いグループに頼りすぎなのです。技術の評価もできず、優秀な人が楽そうにこなしているのを見ては「簡単な仕事」と歪んだ評価をしている場面さえあるように思います。それはというと、当人にとって簡単であっても、多くの人にとっては難しい仕事なのです。それを、多くの人が理解しなくても済んでいるのが現在なのです。大勢の従業員が、次のように思っていることでしょう。「自分たちの仕事の難しさを上司や会社はわかっていない。報酬が報われていない。」そのような不平不満があったとしても、より良い給与を与えてくれるような仕事が必ずしもなかったりします。何故なら、その報酬でも仕事をする人が他にいるからです。それはというと、優秀かつあまり欲望が強くない宇宙由来の人がいるので回っているのです。そのような人が100人に1人はいて、経営者はそういう人を見つけては、アイデアを出させたり複雑なことを解決させたりしているのです。何倍、時に10倍も能力が違えども、給与はそこまで変わりません。そのような人が社会を支えているのです。宇宙由来の人の能力に頼りすぎなのです。
ですが、今後、それでは回らなくなるのです。そもそも、やってくれる人がいなくなるのです。
であれば、今のうちに対策を取る必要があります。
今は世の中に各グループが混在していますしそこまで技術が頂点に達しているわけでもありません。ですから、今のうちから学べばまだ間に合うのです。
管理と実務担当者
- 管理者は、ざっくり捉えることで「自分は管理できている」と認識しやすい立場にあります。命令を出す側であるため、その状態でも利益を享受でき、「これでいい」と自己肯定しやすい構造にあります。実務レベルでの詳細な理解がないままでも、ある程度の指示をすれば現場の誰かが補完し、仕事は進みます。その結果、自身がコントロールしていると認識してしまうことがあります。そもそも、現代の歪んだ組織の一つの特徴は、この「話の通じなさ」にあるように思います。通じないからこそ、力関係が強化されるのです。外部から見れば疑問に思われるような認識のズレも、現場では少なくありません。管理者の「それっぽい言説」と「噛み合わない会話」で技術者を困らせながらも、それで組織を動かしていきます。こうして成功体験が生み出され、それが歪んだ構造をさらに固定化していきます。本当のマネージメントは構造的に捉えることにあります。しかし実際には、「それらしい言い回し」の再生が重視される場面も少なくありません。「成功体験」に再現性がないことが多いのも、技術的に見れば当然ですが、この種の歪んだ構造はある意味再現性があるといえます。本当に構造的に捉えることができる人が基礎を築き、その後、「それっぽい話」と「通じない構造」を用いて他者をコントロールすることで組織を蝕んでいく。そうした二段階で、組織の立ち上げと崩壊を捉えることもできるかもしれません。
- 実際に考え、構造を捉えて処理しているのは担当者です。実は能力差は大きいのです。担当者が構造的に管理者に説明しても、管理者には十分に理解されないことがあります。やがて担当者は管理者の理解度に合わせて説明を簡略化し、納得させるようになります。しかしそれを見た管理者は、担当者が「説明できない」「理解していない」と判断してしまうこともあります。もちろん、実際に理解しているのは担当者で、理解できないのは管理者なのですが、その認識が逆転してしまうのです。その結果、担当者が軽視されてしまうこともあります。そうなると、担当者が離れていくのは自然な流れです。いなくなった瞬間に回らなくなる危機が訪れますが、当面は他のメンバーが対応し、仕事は回り続けます。しかし、やがて管理は徐々に立ち行かなくなっていきます。
- 管理できなくなってくるとトラブルが増え、管理者はそれを見て「今のシステムは古くなった。ダメだ。今の担当者は能力が足りないのではないか」と判断するようになります。実際はシステムが悪いのではなく単に支えていた人がいなくなっただけなのですが、そうして使えるシステムを捨て、大規模投資で「新規開発」をしてシステムや人員を新しくすることも起こります。新規にお金をかけるよりも今のシステムを良くする方が何倍も簡単で安く安全なことがほとんどな状況もあるのですが、同じようなシステムを作るだけのことに経営者が喜びそうなラベルを貼って喜ばせることで大金を注ぎ込むことを正当化するわけです。こうして管理者は状況や複雑なシステムを理解するよりも、大規模投資によって新しくすることで状況を改善しようとするかもしれません。優秀な技術者は管理よりも新規開発の現場に多くいるため、新規開発をし続けることでシステムが維持されます。その時、現場のアイデアで多少の改善が見られることもあれば、そうでない時もあります。こうして、つぎはぎだらけのシステムがまた出来上がり、優秀な人は新規開発と現状維持に時間を取られるようになるのです。
将来、そもそも優秀な人がいなくなった時、管理も新規開発も難しくなるわけです。今まで、管理をして利益を享受してきた人、あるいは能力の高い人に頼り切ってきた人は自分でそれをやる必要が出てくるが、その頃にはAIが発達しているとはいえ、ロスト・テクノロジーが勝手にやってくれる世の中で、技術者は一から考えることが不可能になってくるかもしれません。メンテできなくて止まる工場が増え、「何故かうまく回っている工場、地域」「いくらやっても稼働できない工場、地域」との格差が極端に現れるようになる可能性があります。製品やサービスを享受するだけの人たちも現れるが、社会全体、文明そのものが急に衰退する時期も時々現れるかもしれません。それはというと、栄えた文明が急に衰退するようなものです。高度な文明の遺跡が世界各地にあり、それが衰退した理由を人々は謎と言います。それと同じことが、この社会で将来、起きるかもしれないのです。
延命策
こういう情報を入れると、自分たちが成長しようとする代わりに、どうにかして現状を延命しようと画策する層が現れます。他者を操作して現在生きている人たちが、「そうであれば、帰らずに地球にいたくなるように、何がしか細工をすれば良い」と考えて、優秀な者が自身の故郷(地球外)に残りたくなるような画策をするかもしれません。具体的には、地球の欲望的な生活に溺れさせて欲求と転生のループに落とし込めば良いと考える可能性があります。
現在、意図的なものではないにしても、マーケティングによって欲望を刺激し続けることで消費と満足そして渇望というループを生み出しています。その結果、それらの人々を地球に留めておく効果が出ている面もあるように思います。
しかしこのシナリオは一部の人の嫉妬と劣等感を生み出し、長期的には地球で一番争いが継続する可能性があります。優秀なグループを地球に留めておく目的としては、この種のお話はなかなかリスクが高いのです。
それに、もう自分の故郷へと帰ろうとしているグループにとってはこの種のお話は自身のグループの目的の妨げになっているともいえます。そこに多少の軋轢も生まれるかもしれません。やがては、その障壁を乗り越え、各自のグループは目的を果たして自身の故郷へと帰るでしょう。
そして残された地球の人たちは、技術に優れた他の星のグループがいなくなった地球で自分たちでどうにかしなくてはならなくなるのです。
その時、誰がそれを支えるのでしょうか。
自身の足で立たずに他者から搾取して継続する社会というのは停滞した社会であり、そのような文明は崩壊するのです。
今のうちから技術を学べばまだ間に合うのです。
魔法による自発的効果ではなく、天使の恵みによる豊かさ
昨今は、スピリチュアルにおいて「魔法によって自身の利益を引き出す」という考えが増えてきているように思います。「理屈は分からなくても、その通りやれば効果が出る」という技術的な思想がそこにはあります。それを時に魔法と呼んだりします。それが効果を発揮しているかのように思い違うこともあります。
実際には、いくら願っても、この種のお話で地上的な富は手に入らないことが多いのです。
実際は、誰かの意図により恵みが与えられているのです。稀に、とても良い心を持っている人を天使が見ていたとします。そして、恵みとして利益が与えられたりします。それは、それと分からぬように、自身の願いが叶う形を取ったりします。
しかし、それは、今後数世代の後、天使が自分たちの故郷に帰ることにより、恵みはなくなります。その時、最初、「魔法がかからなくなった」と思うかもしれません。元々、願ったり術をかければ実現するという魔法のようなお話ではないのです。
そもそも、考え違いをしています。「魔法」を使っていると主張する人たちは、例えば「天使を行使する」みたいな、侍従関係で天使と自身の関係を捉えていたりします。実際には、天使はそのような低俗な使役関係には従いません。ただ、学びになるからとか、良い心を持った人に、ほんの少し手助けをする、恵みを与える、ということを無私の心でしています。それを、人間の側が「術をかけて天使を使役した」と傲慢にも思い込むのです。そして、「魔法がかかった」と自己暗示にかかるのです。
エゴにより「自分がやった」と思い込み、願いが叶ったのは魔法を自分がかけたからだと思い込むのです。実際はエゴに基づく魔法のようなものではなく、良い心を見た天使が恵みを与えてくれるお話です。
地球の文明が辿るのはもっと地道なお話です。天使たちが自身の故郷へ帰った後、そのような恵みはなくなるのです。要は「魔法はかからなくなる」のです。「天使の召喚と使役(できていると傲慢にも思い込んでいる)」もできなくなるのです。元々そんな風に天使を使役することは最初からできていないのですが。地球人が天使を使役するなどあり得ないのに、一部の自称「魔法使い」はできていると思い込んでいます。それはというと、様々な理由により効果が出ることもあるからです。それも効果を失います。大地から、そもそもそのような質が減るからです。
地球は、物質的な次元で生きる人たちのための世界になります。それは悪いことではありません。地球に残る人は荒々しい野生的な欲望に素直な世界にて自身の自由と欲求を追求することができるようになります。それは地球に残る人にとって理想的な社会ではないでしょうか。
その時に向けて、地球の人は学ぶべき
地球に残る人々は、管理や策略によって他者の利益を享受するよりも、自身の能力を磨くことをお勧め致します。
仕事において、何やら役職は普通だったり何にも役職がなくとも実は優秀であっさり問題を解決してくれる人がいます。それは往々にして宇宙由来の人なのです。周囲の人は「これでいいんだ」と勝手なストーリーを作り、起業家やリーダーの成功体験が出来上がります。しかし、それは「Too good to be true」な状況で、名前のない優秀な者(往々にして宇宙由来)が支えています。それが資本主義や役職の階級により、成果が吸い取られています。それが、各所で起こっているのです。
成果を出すフレームワークのほとんどが、暗黙に、能力の高いものに如何にやる気を出させて自主的に問題を解決してくれるかを期待しています。そうして解決された問題をビジネスにしてなるべく独占し、利益を出そうとするのが資本主義社会のあり方です。そもそも、問題を解決してくれる人がいなければそれは成り立たないのです。一旦解決してしまえば、それを使うのは能力の低い者にもできます。それを「起業家」というのです。
そして、そのフレームワークに沿って仕事をするだけで成果がやってきます。
それはというと、能力がある者の成果を自発的に納得の上で提供させているのです。契約だったり、ある程度の報酬だったり、納得の上で、技術を提供させるわけです。
時に、呑気に仕事をしている人がいます。成果を受け取る側が、呑気にも「何もしなくても得られる生活」などと言って、名前のない人の活躍を見ずに暮らしているのです。「どこかの誰か」が勝手に何かをしてくれることを暗黙に期待している場合もあれば、呑気に、全てが自分の成果だと思い込んでいたりします。その陰で、能力の高いものが暗黙に誰にいうこともなく問題を解決しているのが実情なのです。
発明だって、似たようなものです。優秀な人が、限られた報酬で発明をしているのです。
それを見ずして、自身の成果にしてしまうのが「起業家」「リーダー」の病理なのです。そしてその構図は、宇宙由来の人の成果を地球由来の人が受け取った挙句に自分の手柄にしてしまうという構図なのです。
そもそも能力が違いすぎて管理者あるいは受け取っている側は理解できていないことも多いです。理解できないどころか、そもそも理解する必要もないと思っていたりします。マネージメントのフレームワークで「管理」の論理で生きていて、その手法には長けていても技術がわからなかったりします。そうなると、表面的にはチームワークということで名前のない人が覆い隠されます。実態は割と名前のないキーマンがワンマンで動かし、結果をマネージャーか管理することになるのです。そして成果はチームとリーダーの総合的な評価とされ、優秀な者が埋もれます。
実態は、その優秀さは地球外の優秀さなのです。そして、地球の資本主義の仕組みで搾取されているのです。プロジェクトにもよりますが10人に1人、あるいは100人に1人いる優秀な人が仕事を回しているのです。そして、その成果を言おうとしても「そんなことはない」として封殺されるのです。
一般人の中には、傲慢にも全て自分1人の成果だと謳うような嘘つきがごまんといるので、そのように主張したとしても大半が信じてもらえないことかと思います。そういうものです。成果を過大に主張する人が大勢いるので、本当の成果というものがわからなくなっています。そのような傲慢な者は問題外でありますが、実際に、地球外の由来で優秀で、しかも時に自己主張をあまりしない(というのも、主張したとしても嘘つきと同列に並べられる)人も大勢いるのです。そのように、嘘つきとは別に、本当に優秀な人が隠れて存在しています。そして、地球の文明はそういう人に頼っているのです。
有名な起業家が、自分の成果だとして膨大な利益を享受しています。ロケットと電気自動車のオーナー然り、りんご然り、窓然り。彼らは優秀な地球外の人の成果を奪う、泥棒たちなのです。地球的な価値観では彼らは優秀なリーダーであり、時にスピリチュアルでは彼らは宇宙人だという説もあります。しかし、私に言わせてみれば彼らは全て成果泥棒なのです。それはというと、名もない宇宙由来の人の成果を使っているからです。スピリチュアルで、時に、それらの大企業のリーダーが宇宙由来の宇宙人の魂を持っていると説明されることもあります。しかし、私が見たところ、彼ら自身が宇宙人なわけではなく、働いている人の中に宇宙由来の人がいて、その人たちが多大な成果を出しているのです。高慢な地球人が、あたかも自身の成果だと謳って未来の成果も含めて享受しようとしているのです。
宇宙人ならば成果などはあまり求めませんから、電気自動車オーナーのように150兆円相当などという多大な成果を要求することもありません。そのような傲慢な態度をしている時点で、彼は、どこかの誰かが主張するような火星人とかではなく、単なる普通の傲慢な地球人にしか見えません。
しかし、地球外の人が去った後、そんな、名も知れぬ人に頼る時代が終わるかもしれないのです。文明はその時、傾くのです。その時まで、呑気に資本主義ごっこで多大な利益を享受する数字のお遊びは続くのです。
資本主義的マネージャ肯定は成果泥棒を肯定すること
この地球において、資本主義的あるいは成果主義における管理者あるいはマネージャーの仕事は技術を持った人を采配して成果を出すことです。ここで、マネージャーは技術をある程度理解していればよく、要はインプットとアウトプット及びそれを入出力とする変換機能を押さえていればいいのであり、技術はそこまで知る必要がないのです。資本主義の、成果を出す仕組みです。成果を出すために、使える人を采配するのです。それはというと、人々の成長を促すというよりも、成果を出せる人を探して効率的に成果を出すことを優先するのです。
管理する側が今後地球に残る側で、技術を発揮している側が一時的に地球に来ていてそのうち帰る地球外の人です。
ここで、大勢がアセンションすることでそういった優秀な地球外由来の技術者がいなくなれば地球の人だけが取り残され、インフラの保持が難しくなるのも当然のように思います。
今は地球外の助けがありますから、地球の管理者が助けを求めたり、時に怒鳴りつけてパワハラで動かせば状況は一時的に改善するかもしれません。しかし、今後、そもそも、そのように手を尽くしたりパワハラしても誰も直せない時代が来る可能性があるのです。そうなれば社会のインフラは崩壊し始めます。
地球の人が学習するにしても、そもそも出自によって基本能力が相当違うのです。ですから、地球の人はチームワークだとかワンマン的な技術者はいない前提で考えています。実際、そういうずば抜けた能力を持った人はいて、社会を支えているのです。そして、成果を地球の側が受け取っているのです。
成果を得ることに長けてきた人々だけが地球に残された時、インフラの維持に困難が生じ、やもすれば文明は崩壊するのです。
技術者を安売りしている状況を問題だと言っているのではなく、そもそも他のグループの能力を使って作ったインフラに頼っていると、そのグループがいなくなった時に文明は崩壊するということです。ロスト・テクノロジーに囲まれた世界になる可能性がそれなりにあります。
今、多くの者に支えられていることを知らず、呑気に「何もせずとも与えられる生活」と喧伝する、例えば縄文などのスピリチュアルを標榜する人たち。その思考停止により文明の崩壊への一歩を進んでいることに気がつかないでいるのです。
リーダーやマネージャーが勘違いする構図
その場合、呑気にも「管理をしている」と自称するマネージャーが技術や状況を理解せず、とにかく誰かにやらせるだけで問題は解決したと思い、成功体験にしてしまう。それは、スピリチュアルで「何もせずとも与えられる」と言っていることが、資本主義社会あるいは成果主義においては形を変えて「自分は何もしなくても成果が得られる」と言っているマネージャーたちと重なるところがあるのです。
社会で、マネージャーとして仕事をして成果を出していると思っている人たち。そのような人が「自分は何もしないでも成果が得られる」と思っているのだとしたら、その根底はスピリチュアルで「何もせずとも与えられる」と言っているのと被っているのです。
どちらも「成果が得られた」という成功体験によって自己の経験を裏づけており、一般的には社会的に認めれていたり、スピリチュアルの言説において信奉者を集めたりしており、このような反論を言っても全く受け付けないでしょう。
現状は必ずしも100%管理でもなく、マネージャーが多少ながら技術を学ぶ機会を得ています。それは多少ながらプラスの部分として捉えられています。一方、投資においても業務の理解がある程度は必要となります。それ自体は、一応、プラスなことと捉えられています。しかし、その程度のプラスでは将来の変革を乗り越えるだけの知識は得られないのです。
地球を去る人たちは人知れずいなくなっていきます。そのように、成功体験に包まれている人たちに断ることなく人知れずいなくなるのです。何故なら、聞いても無駄だからです。聞いたとしても、そのような傲慢な人は貴方に対し一生奴隷のように仕えるよう要求してくるでしょう。
死後、全ての魂は自由です。地球のしがらみからは離れるのです。物理的な制約はありません。上下関係というのは死後、崩れ去ります。特に、恐怖や制度あるいは利害関係によって結びついていた関係は死後に継続しません。
死後の自由な世界において、何かをやってあげるというのは自発的なものになるのです。
生きている時に恨みを持っていた相手に、死後、自発的にやってあげるということにはなりません。それは地球人の場合はもちろんそうですし、宇宙人も同じなのです。
散々、酷い目に遭わされてきた宇宙人が、地球人に対して良く思っていないことも多いのです。
例えば、日本で言うならば就職氷河期に非正規で働かざるを得なくなった人たち。その中には多くの宇宙人たちがいるのです。そのように酷い状態に据え置かれて、それでいて成果は十分に吸い取り続けることを何十年も繰り返したならば、それを見た宇宙人の同胞たちは、地球人は何て酷い人たちなのだと思うのです。
かつて、日本人は宇宙人から良く思われていたようです。しかし、この時期に就職氷河期を代表として、宇宙から助けに入ってきた大勢の人を冷たく道具のように扱った結果、宇宙人たちは日本人を酷い人たちだと思い始めている面もあります。とは言いましても、他の国の人の方がもっと酷いわけですが、日本はそれでも、良く思われていたのです。今、日本も他の国と同じように酷い人なのではないかと思われ始めています。完全に評価が振り切ったわ毛ではありませんが、思っていたほど日本人は良くないのではないか、と思われ始めています。客観的な評価を下せば、日本人は他の国の人よりほんのちょっと良いくらいなのではないか、という、極めて平凡な評価に落ち着きつつあり、日本人が特別だとは今は思われていないように思うのです。
最後、地球にその成功体験と共に取り残された人たちは、自分たちのためにやってくれる人が根こそぎいなくなったその時、それでも尚、同じように「自分たちは管理をしているだけで、何も自分ではしないでも与えられる、成果が出る」などと言っていられるでしょうか。何を言葉でのたまおうとも、文明の崩壊が起こるときは否応なくそれが起こるのです。支えてくれる人がいなくなったその時、ようやく自分の立ち位置に気付き、見捨てられたと思うかもしれません。それは自業自得であるのにも関わらず、何か攻撃されている、あるいは、意地悪をされているなどと解釈し、色々なものに恨みすら抱くかもしれません。そして絶望から戦争をして世界や大陸を滅ぼすこともあるかもしれません。自分が得続けることを当然だと傲慢にも思った結果、その現実が叶えられないと、得ることが当然だと言わんばかりに、周囲から獲得するため、周囲を攻撃し始めるのです。
世界を征服したり、勢力を拡大しようとするモチベーションはその辺りにあるかと思います。
このように、低次の段階においての統合とはそういうものでしかないように思います。そのような高慢さと支配欲が低次の意識の特徴なのです。それが特に悪いというわけではなく、低次の感情と判断とは、そのようになるというだけの話なのです。
まず、その統合を果たした後、善と悪、あるいは光と闇という価値観に基づき、正義をなすという価値観に成長すべきなのです。その前段階として、支配欲が地球を統一するという段階が必要なのです。
「何もしなくても与えられる」と思い込んでいる高慢さは、多くの宇宙人の離脱という状況に直面することで継続が不可能になります。そして、状況に嘆くことでしょう。
実際には、そのような嘆きにより、自立するように促されているのです。
歴史を見れば、何故、数世代前には栄えていた文明が突如として不安定になるのか、多くの人は疑問に思うかもしれません。今後また、そのように思われるようになるかもしれないのです。
それも、地球に関わっている民族と関係しているのです。
栄えていた文明には富が集まります。富のあるところを目がけて利益を得ようと寄ってくる人は性別限らずいますが、能力の高い民族が抜けた時、富が次第に集まりにくくなると同時に、富の動きが悪くなると蓄積して富の流出を防ごうという意思決定も働きます。そうなると富は分配されず、一部が独占するようになるかもしれません。
それをよしとするかどうか。それとも、気付かず勝手にそうなるのをなすがままにさせておくのかどうか。
今後、地球に残る人たちは自分たちの社会のあり方を考える必要があるかと思います。
未来はまだ変動的で、不安定になる可能性を多々秘めています。どうやら、大天使はそのことも見抜いて、自分たちがいなくなった後にも安定して地上が繁栄できるよう、施策を考えているようなのです。
それは、地球に残る人たちへ向けた救済ではありません。残る人たちが自立して歩くことができるための手助けです。
今後は、自身の足で歩いていかなくてはならないのです。
数世代先、地球は“女神のような特別な存在”がいない本来の状態に戻る
(先の話の続き)
そもそも、これまで地球において「女神のような存在がいる状態」自体が、例外的な状況だったとも言えます。
これは女性に限った話ではなく、人全体の価値基準の変化として現れるものです。男性においても、同様の変化は見られるでしょう。社会のために貢献するような人物の中にも、宇宙由来とされる存在が含まれていることがあります。それは、宇宙から一時的にこの地球の成長の助けに来ているのです。それもまた、例外的な状況と言えるのです。
多くの宇宙のグループが自分のいた故郷に帰る時、それは数世代先になるかと思いますが、その時には男性だけでなく女性たちも一緒に帰ることになります。その中には、とても女性らしく、女神のような女性も多々いるものです。また、社会に貢献することに熱心な男性たちの多くも、同様に戻っていくのです。
更には、特に天使のグループについていきたいと願う者たちが元々のルーツとは無関係に天使たちについていく可能性があります。それは、天使の側が来て欲しいと明示的にいうことはなくても、当人が希望すればある程度は叶えられるものです。ある程度の繋がりがある、いわゆる「つて」があった上で、希望すれば行くことができるのです。
とは言いましても、その世界は地球のように欲望を追求できる世界ではありませんから、地球でいうところの快楽が大好きな人にとってはつまらない世界かもしれません。それは良し悪しなのです。地球が好きな人もいれば、天使についていきたい人もいる。それぞれ、好きにすれば良いわけです。別に、そこに行き先を決める「審判」があるわけでもありません。
さて、そのような時を迎え、地球に残る人たちは、ふと地球にいる女性の変化に気がつくかもしれません。あるいは、長い時をかけて変化すれば、その変化に気がつかないかもしれません。
変化も当然です。多くの女神のような女性は外の宇宙や世界にルーツを持っており、地球由来の人々は、現実的な生活や利益に重きを置く傾向が見られます。そのため、結果として贅沢や快楽といった方向に関心が向きやすくなるようです。地球の女性は綺麗ですのでその点は未来もそこまで変わることはないように思いますが、その地球の女性が他者を見るときにお金持ちかどうかで判断する、という点は未来の方が意外にも顕著になるように思うのです。
未来の世の中はお金は今よりも要らなくなる面があるといえばそうなのですが、そのような社会ではお金よりも育ちや職業・家柄及び服装、立ち振る舞いが余計に評価される世界になるように思います。本来それらを気にせず人を見る層が減ることで、相対的に評価基準が外的要素に寄るようになるわけです。
今の世界は割と皆が中流という意識を持っていますが、未来は、より階級差のようなものが際立つようになり、お金とは言わないまでも、人が他者を見る際に、階級のような要素がより強く意識されるようになるのです。それはというと、今まで、階級とか抜きに平等に男性に接してくれていた天使のグループ由来の女神のような女性が減るということです。あるいは地球外にルーツを持つとされる人々がいなくなり、地球では、目先の利益を基準に相手を選ぶ傾向が相対的に強く見られるようになるのです。
元々、宇宙のグループの人はそのような傾向があるのですが、それは、その由来の性質というだけでなく、そもそも、この地球の精神的な成長を助けようという奉仕の精神で関わっている宇宙の存在が多いために、当然、助けるという意識は強くなります。ですから、宇宙の人が地球人に対して優しいのは当然なのです。
地球由来の人もそう悪い人ばかりではないのですが、利益中心の価値判断になることが多いように思います。利益をあまり気にせず暮らしている人はレムリア由来だったり宇宙由来だったりして、そのような人は地球に残らない状況になるようなのです。地球由来の人でも、地球外の存在に気に入られた場合に地球を離れるというパターンも多々あります。
一部、宇宙由来で「この楽しい地球に、私は残ろうかな」と思って残ることを選択することになる魂もいるようですが、数世代を過ごすうちに、「あれ。なんだかこの世界、私が今まで生きてきた地球と違うな・・・。やっぱり私も帰ろうかな」と思って、結局は自分のルーツに帰るような状況になるように思うのです。
そうは言いましても、そのような状況を、そこまで嘆く必要はないように思います。それも、程度問題なのです。時に期待していたのと違ったり、やってみたら色々と不平不満は起こるかもしれないですが、男も女も色々と葛藤や軋轢があって学んでいくものです。
今まで、時に宇宙から来た女神のような人がいる状況こそが、例外だったのです。そのような特殊な存在がいなくなるからといって、それは、元に戻っただけのことです。いわば、「Too Good Too Be True」の状態が、一時的に存在して、それは特殊な状況だったが故に、長くは続かないということです。
地球以外に行くと地上の欲望は叶えにくくなるため、贅沢をして煌びやかに飾り立てたい女性は地球に残ることでしょう。
とは言いましても、天使は天使なりに飾り立てますので、一見すると贅沢や貴族のような暮らしのように見えるかもしれません。それは贅沢ではなく、自身をそのように煌びやかに表現するのが好きなのです。好みなのです。その点、贅沢をして見せびらかせたい地球の女性とは目的が違います。そのように、好みと嗜好が違いますから、地球に残る人は相応の心理状態にあり、それぞれのグループも、相応のところに帰っていくでしょう。
そして、地球に残る男性も女性も、どこか平凡で、女性はというと女神のような女性はほとんどいなくなるのです。
それは嘆き悲しむことではなく、元々、そうであったのです。力強くこの地球を生きていく地球の女性たち。それはそれで、たくましく、生命力に溢れているのです。
昔からいた女神がいなくなったとして、それは、やがて自身がそうなれば良いだけのことです。自身が努力して女神のようになれば良いだけのことです。誰に言われるまでもなく、長期的にはそうなるでしょう。次第に女性は女神へと成長していくのです。ただ、一時、女神が目立たない時期を迎えるだけのことです。
数世代先、「片っ端から悪霊を消滅させている」荒っぽい人もいなくなる
そもそも、そのような能力者は地球外に由来を持つケースが多く、今後数世代をかけて、そのような出自の人は自身の故郷へと帰っていく流れにあると思われます。
地球が出自の場合でも、以下に述べるように価値観が変わっていきます。
その意味では、この地球は、漂う魂にとって安全な場所になっていくように思われます。
このような行為の背景にある価値基準はライトワーカーの「善」側に多少なりとも結びついていることが多く、「悪」「闇」とみなされる悪霊あるいは浮遊霊に対して、信念に基づき消滅という対応が取られているわけです。
こうしたあり方が今後変容していく背景には、二つの理由があります。
- ライトワーカーが自身の故郷へと帰る
- 能力者が「光と闇」「善と悪」の二元性を克服し、統合した意識に至る
これらの変化により、前者の意味ではそうした行為を行う人自体が減少し、後者の意味では「闇や悪を消滅させる」という価値観そのものが変容していきます。
結果として、悪霊や浮遊霊を消滅させるという行為は、今後徐々に少なくなっていくと考えられます。
尚、特に日本人の場合、多くの魂は地上ではなく天のいわゆる天国で安全に暮らしています。ですのでこの種の心配はあまりいらないのです。
獣が人間性を備えて良い人に成長する構造
スピリチュアルにおいて獣はあまり語られることが少なく、むしろ「避けるべきもの」として語られることが多いように思います。それは「低さ」「硬さ」として表現され、高波動と対比されて低波動と呼ばれたりします。
しかし、それらの価値基準と「穢れ」とは別に考えるべきだと思うのです。
私もかつてこれらを一緒くたに考えていた時期がありました。と言いますのも、現象面においてはこれらが同時に現れていることが多いからです。
実際には、それらは物質的な側面かそうではないか、という、いわば物質の密度が濃いか薄いかという側面と、波動として乱れているかどうか(それが穢れ)という2軸で語ることができるように思います。
| 波動が整っている(穢れていない) | 波動が乱れている(穢れている) | |
|---|---|---|
| 物質密度が高い | ・現実的で安定している ・身体性が強く、地に足がついている ・素朴だが誠実(いわゆる「良い人」になり得る) |
・欲望に振り回される ・攻撃性・支配性が強い ・いわゆる「獣的で問題のある状態」 |
| 物質密度が低い | ・直感的・精神的に洗練されている ・調和的で軽やか ・いわゆる「高波動」と呼ばれる状態 |
・現実逃避・地に足がつかない ・観念的で不安定 ・スピリチュアル的な歪み(妄想・過剰解釈など) |
そして、精神的な成長とは一般的には低波動から高波動に向かうと理解されていますけが、物質密度の高低という別の軸が存在しており、単純な一方向の変化ではありません。
ここで重要なのは、「低いこと」自体が問題なのではなく、「波動が乱れていること」が問題であるという点です。
物質密度が高い側か低い側かという違いに関わらず、それぞれの状態において波動を整え、穢れていない状態にしていくことが精神的な成長です。
その時、入口として物質密度が高い側から始まる場合と、物質密度が低い側から始まる場合があります。その違いが、時に良し悪しのように解釈されることもありますが、実際にはそれは単なる性質の違いに過ぎません。
どちらもワンネスです。
よって、獣のような物質的なところから始まるとしても、それは悪いことではなく、獣の精神が成長すると生きる力が最大限にまで活性化します。それは人間で言うと一番下のチャクラであるムーラダーラに相当します。ムーラダーラは人間にとっては一番下ですが獣にとっては最高のチャクラなわけです。獣がそこまで成長すると、人間として転生すると言えます。
ですから、人間の中には獣から人間になったばかりの人がどこか獣のような様相を持っていたりしますが、それは、特に悪いことではないのです。そう言うものなのです。
その後、人間としての欲望を第2チャクラであるスワディスタナで学びます。喜びや苦しみ、悲しみという感情はここで学び、育まれます。
そして第3チャクラであるマニプラで人間性を得ます。ここで、個としての自分というものが確立されます。この段階になって、ようやく人間としての「情」が生まれます。第2チャクラの感情と相まって、この段階が一番「人間らしい」段階であると言えます。
第4チャクラのアナハタになると他者との関係性が生まれ、自己と他者という枠組みの中での調和が課題となります。この部分は成熟すれば愛というものにもなりますが、初期の段階ですとどこか他者への余計な干渉や攻撃性として現れることがあります。いわゆる古典的なライトワーカーたちはこの段階にあることが多く、その場合、地球の平均的な段階よりも高いものの、まだワンネスには達していない状態です。「善と悪」「光と闇」という二元性が価値観に現れます。それは、まだ自己の中で下位のチャクラと上位のチャクラが完全に統合されていないためです。その結果として、自己の中の不整合や見解を外部に投射し、それを通じて世界を見ているのです。そして、その見解が時に、悪に対する攻撃性として自己正当化しつつ現れることがあります。
第5チャクラのヴィシュッダは理性や論理を司ります。第6チャクラのアジナは(個としての)神性、第7チャクラのサハスララは(全体としての)神性ですが、そこはこの段階ではまだ意識しなくても良いでしょう。ひとまずこの地球上においては大体第4のアナハタくらいまでが課題であるからです。
チャクラで勘違いされやすいのが、特定のチャクラが活性化するとして、他のチャクラが活性化してはならない、というような、どのチャクラが良くてどのチャクラが悪い、という分類をしてしまうことがあります。そういうお話ではないのです。
この地上を生きるにおいて、下のチャクラもある程度必要です。それは肉体を持って生きる上で大切になってくるからです。特定のチャクラを優遇するのではなくバランスよく伸ばしていくことが必要です。
そうは言いましても人によって性質の違いはあり、働きやすいチャクラというものがあります。
今いる状態から、より良い状態に移っていく。
それはというと、上の表において、物質密度の高いところから低いところまで全般を扱うというお話なのです。
勘違い:物質密度が低い状態から、高い状態へ(表の右上から、左下へ) 実際:穢れがあればない状態へ。物質密度は、現在いる状態(高いか、低いか)から広範囲の物質密度へ(高い物質密度&低い物質密度)
よって、出発点は違えども、ゴールは同じなのです。
ゴール:物質密度が高い&物質密度が低い(いずれも穢れていない)。高い物質密度と低い物質密度の両方を内包しつつ、いずれにおいても穢れがない状態
実際には、そのような「穢れ」すらもワンネスであることを認識するわけですが、それは心の片隅に覚えておくくらいでもとりあえずは良いかと思います。
獣は物質密度が高い状態から始まり、やがて高波動を学び、精神性を身につけ、人間性を育て、やがて神に至ります。とは言いましても、全てはワンネスですので最初から神であると言えばそう言えなくもないのですが、そう言ってしまうと語弊があるので、そういう見方があるとだけ押さえておくくらいでいいと思います。この世のものは全てワンネスであるのだから現れているものは全て神性を帯びている。かといって、当人にいわゆる神としての自覚はないわけです。それでもワンネスだから神といえばそうなのです。
その、神の現れとしての獣が成長し、やがて神性をすら体現するようになります。この成長こそが、この地球で見られるダイナミズムとして興味深く観察されることなのです。獣から神性に至るまでの一連の流れは、善悪の物語ではなく、波動の調和へと向かう過程に過ぎないのです。
欲望の衝動で行動し、やがては良い人になる
例えば企業活動において、特に創業者は最初から他者への貢献を目的としているとは限りません。むしろ、自身の利益や欲望に突き動かされて行動している場合が多いでしょう。そして後になってから、他者への貢献や社会的意義が語られることも少なくありません。
これは、それが悪いということではなく、まさに成長の過程そのものなのです。
よくある善悪モデル、あるいは「光と闇」の対立モデルでは、この種の個人的な欲望が「悪」或いは「闇」として解釈され、「公」としての貢献モデルが「善」或いは「光」として比較され、階層或いは高低差として位置付けられます。
一方、「成長」モデルにおいては、それは対立ではなく、自身の「変容」なのです。確かに、個人の感情や理屈、感覚的な面において内面的な対立が生じることがあります。そのため、個人の変容にはある種の「痛み」が伴います。そのような葛藤を伴わない人はいないでしょう。しかし、それは「悪」ではないのです。過去の自身を統合し、人として成長していくのです。それが、人間性を備えるということです。
最初、獣から始まり、欲望により何かを手に入れる、安全を強化する、欲しいものを手に入れる、というところが関心の主たるものになります。しかし、それは「悪」でもなければ「闇」でもないのです。そういう比喩で語られることもありますけど、「滅すべきもの」としての状態ではないのです。
ゾロアスター教的な観念の「滅ぼされるべき悪」ではなく、成長の一過程に過ぎないのです。
さて、これを個人の人生のモデルに当てはめてみると、同様のことが言えます。例えばある人が、最初は自身の利益のために、より良い条件を持つ相手を得ようと強く意識するところから始まるかもしれません。しかし、やがては自身の家の財産を自分の子供やその繋がりのある人たちに回して自身の周囲の人たちを豊かにする、というところに意識が変わっていくのです。
企業活動と同じように、その場合においても、最初から自分は他者への貢献を考えていた場合もあるかもしれませんが、自身の利益を中心に考えていた場合も少なくはないでしょう。それが、精神の成長と共に、自身のことだけでなく、他者のことも考慮するようになるのです。それが成長であり、人間性を備えるということです。
こうして、最初は獣のようなところから始まり、欲望から動いていたとしても、やがては成長し、人間性を備え、良い人になっていくのです。それは「善と悪」の対立モデルではなく、段階的な変容としての成長のプロセスなわけです。
地球に残る人は欲望の連鎖(サムサーラ)の輪廻転生が続く
今までは、それが悪いことかのように喧伝されてきました。
しかし、実際には、この地球に残る人たちこそが、この地球における主役なのです。それは将来に主役になると言うこともそうですが、既に今もこのグループが地球における主役なのです。
欲望が悪いと判断する価値観はこれまで述べてきました2番目のグループであるライトワーカーの価値観です。そして、何度も説明しました通り、ライトワーカー自身もその分離の価値観が統合に至り、見方を改めます。欲望が「悪」ではなく意識の一面であることを悟り、そして、争いが止みます。その時、欲望に対する非難も止みます。
スピリチュアルでは輪廻転生があたかも悪いことかのように言われることもありますが、先に説明しました通り、獣が人間性を得て神性を身につける上でそのサイクルはどうしても通ることになるかと思います。その力強い輪廻のサイクルは肯定的に捉えるべきなのです。
欲望は概ね第2チャクラのスワディスタナの感情によって生じ、欠乏感によってそれは激しい感情に転じることがあります。仏教で語られているように欲望から執着が生まれ、欠乏感や苦しみを生み出します。そして転生のサイクルが延々と続くのが輪廻の世界です。とは言いましても、その感情はそこまで否定的なものでもないのです。苦しいというのは、人間性を得てきたということです。獣は人間のような自己認識を伴う葛藤としての感情を抱きません。獣は純粋な生命の働きがより強い状態にあります。そこから人間的になって感情を得たことにより、最初は悩むことでしょう。ですが、それは健全な悩みなのです。
そうして悩みつつも欲望が生じ、悲しみと苦しみの連鎖(サムサーラ)の中で人間性を学びます。それは、欲望や渇望によって次の転生を衝動的に選ぶ連鎖が生まれる構造です。その連鎖の中で、人は成長していきます。そのサイクルは、衝動的に転生を選ばなくなるほど精神性が成熟するまで続くのです。欲望から卒業すると、それは仏教で言う解脱、あるいはヴェーダンタでいうモクシャ(自由)です。そうなるまで地球で輪廻が続くのです。
そうして地球に残ることは、決して悪いことではありません。地球に生きる人たちには自由があるのです。地球の未来を自分たちの選択によって作り出せる自由です。その力強さは決して否定できるものではありません。もっとポジティブに捉えて良いのです。欲望すらも未来への原動力になります。その活力により、未来を切り開いていくのです。
そして、より良い未来を自ら作り出した結果、輪廻が終わるのです。
辛いことも、その原動力があってこそ乗り越えていけるのです。すべきことを成し遂げるまで、その輪廻は続くでしょう。それが役目であるとしたら、それを(良い)欲望と呼ぶか、あるいは、使命と呼ぶか。そこに大差はないかもしれないのです。
荒々しさから始まり、そして、やがて気高さを身につけるでしょう。それが、未来の地球人たちの素養になるかもしれません。それは否定的なことではなく、未来の地球の人々の姿なのです。朝日の太陽に向かって歩くような神々しさと力強さが、そこにはあります。
このサイクルは、とても長く続くでしょう。そして、人生は幾度となく繰り返されます。
それは、獣から始まって神になるストーリーです。その神とは半神半獣のことではなく、文字通り、神のみになるのです。変容のストーリーです。その変容はとても興味深いものであり、地球に残る人はそれを自ら体験するのです。
それは、一見するとアセンションとは無縁であるかのように見えるかもしれません。しかし、この変容こそがアセンションであるとも言えるのです。一時的に起こることではなく、長期をかけて変容する、そのストーリーこそが本当の意味における(広義の)アセンションであるとも言えます。
それ以外のグループ(天使、ライトワーカー)はその長い過程の異なる部分を経験しているとも言えるのです。地球に残るグループは、これから長い時間をかけて変容します。そしてその後に、(狭義の)アセンションを経験するとも言えるのです。
ライトワーカーがいうような「悪(欲望、闇)」を光が滅ぼすというストーリーではなく、獣が神に変容していくストーリーを体験することになるのです。それは、アセンションでもあるのです。
地球に残る人たちは、自身の足で力強く生きていくのです。
地球の人こそがこの地球における主役なのです。