私の理解するアセンションの三つの姿(統合・分離・それ以外)

2026-04-21公開 (2026-04-05 記)
トピック: :スピリチュアル: 未来

<とりあえずファンタジーと思っておいて頂ければ良いと思います>

今後、地球がどのような方向に向かうのか。それを考えるために、まず「手放し」について触れてから地球の行末を見ていく方が理解しやすいかもしれません。

スピリチュアルで「手放し」で高次へ、みたいなお話はよく見られます。 そしてそれは分離の二元性(非ワンネス)になり得えます。

「手放し」結論

  • 手放しというのは「結果」
  • それがあたかも、手法であるかのように勘違いされている
  • 『手放し→高次』ではなく、逆の『高次→手放し』の順序

「雑念を手放す」はまだわかりますが、「高次になるために手放す」と解釈して二元性の分離に嵌っているケースも少なくないように思います。

トラウマとか感情の「解消」が「手放し」で起こるとして、それは、比喩表現なわけです。比喩であって、本当に手放しをしていると思い込んでいるとしたら、それは分離である可能性が一定数あります。分離というのは二元性です。二元性というのは非ワンネスであるということです。

非ワンネス的な手法や理解を用いて「善と悪」の対立、「光と闇」の戦い、などをしながら自分はよく分かっていなくてワンネスを標榜しているような矛盾した方も割と見受けられます。

「手放し」→「高次」→「ワンネス」という誤解とやり方をして二元性の罠に陥っている方を散見するわけです。本当は逆です。手放しというのは「結果」です。それがあたかも、手法であるかのように宣伝されています。逆、と言うのは、高次になった結果として手放しが起こるということです。高次やワンネスのために手放しをするのではなく、順番が逆で、高次やワンネスの結果として「手放し」が起こると言うことです。手放しというのは「行動」ではないのに、あたかも、手放しをすれば何かが起きるかのようにスピリチュアルでは昔からそう広く理解されています。

更に、この種のお話でよくあるやってはいけないことは、「手放し」で他人をマウンティングし、価値観の操作、あるいは上下関係を作り出すことだったりします。そう言う行動をしている時点で自身が低次の視点にいるわけですが、本人はというとそれに気がついていないのです。

それはというと、個人としての感情や「個」というものを否定してそれ以外の純粋さを作り出そうとしていることがあるのです。その時に、一緒くたになって他人をも否定してしまっているのです。個人の感情の面を否定することで分離を作り出し、他者よりも自分が上だという固定観念のようなものが生まれ、エゴが喜びます。他者の「手放しできていない」(ように見える)場所を見つけるや、エゴが喜んで「よっしゃー!私の方が上だ!」と上機嫌になってドヤ顔で「手放しができていない!」などと指摘したりするのです。割とスピリチュアル初心者あるあるで誰しもが通る道のようにも思いますが、だからこそ、そう言う人は割と多くて相手をするのがめんどくさいですし、そういうのは側から見ていて恥ずかしいので他人にこの種のことを言うのはやめておいた方がいいと思います。

実のところ、この段階ですと、手放せば良い、と思っていること自体がエゴによる巧妙な自己容認になったりします。手放し、というのがドグマになってしまうわけですね。そうした思考を気にせずに集中状態(ゾーン)に入ることで簡単に突破できたりもするのですが、この段階で嵌っている人が一定数おられるわけです。

「手放し」を言い換えると「気にしなければ良い」「相手にしない」ということですね。波動が高まればそうなる、しかし、それは狙ってやるものではないということです。順番が違うのです。

瞑想の初心者あるあるですが、「私は瞑想ができています!」というエゴによる騙しは瞑想を始めた初期にありがちなものです。同様に、スピリチュアル初心者は「私は手放しができています!」みたいな勘違いに陥ったりします。実のところ、どちらも、実際にそうなってしまうまではわからないものなのに、頭でなんだか分かったふうになってしまうのです。考えすぎ、というものだったりします。そして、スピリチュアル初心者ほど課題に向き合う他者を幼稚だと判断する。マウンティングを取る。

オーラ的、チャクラ的に考えれば、特定のチャクラに問題を抱えている方は感情をうまく昇華することができません。そういう意味では、「手放し」とか関係ないとも言えるのです。手放しとかよりも、単純にチャクラの問題を解消すれば問題は解決するのです。チャクラはわかりやすい波動のそれぞれの段階です。一つでも上がればその分だけ高次になって、気持ちも楽になるのです。それを手放しといえばそうですけど、手放しは結果でしかないわけです。

それはというと、苦しみや悲しみというものを昇華する方法を知らないから「手放し」こそがその手法だと思ってしまっているわけです。スピリチュアルで頭でっかちな人にありがちな罠です。

ある意味無知なわけですが、それは、「高次」というものを理解していないからそうなるのです。マイナスの感情を「手放す」ことこそが高次へと至る道だと勘違いしているからそうなるのです。結果であるものを、あたかも手法であるかのように勘違いしているのです。

順番が逆で、高次の波動になることで、そのような感情が現れてもすぐに昇華されるのです。高次の波動が先で、感情の解消が後です。ですから「感情のことは一旦横に置いておきましょう」みたいなことが言われるわけでけど、それはというと、高次の波動が先だからです。ですが、それを何か勘違いして、感情が良くないものだとか捨てるものだとか手放すものだとか考えるのだとしたらそれはエゴの自己肯定にもなり得るし、そもそも理解が間違っているわけです。順番として「感情を捨てる」→「高次」ではなく、高次の波動が先で、感情の解消が後です。ここで言っているのは、「感情を一旦捨てたら、もうそのマイナスの感情は二度と現れない」ということではありません。生活をして他者と関わる以上、マイナスの感情は現れます。ですが、それはすぐに解消できるようになるということです。それは傍目には全く感情がなくなってしまったと見えるかもしれません。しかし、実際には素早く解消しているだけなのです。そして、その素早く解消する感情を楽しむことができる人こそ、人生を楽しめる人です。

一方、オーラの法則がありますから、他人から引き受けてしまった雑多なオーラをいちいち処理していたらキリがありません。自分の問題ではないものは受け取らない、拒否する、ということも必要です。人はあれやこれやと理由をつけてオーラとしての雑念を他人に押し付けようとしてきますから、「それは私の問題ではありません」と拒否することが必要です。これはある意味「手放し」と言えなくもないですが、元々自分のオーラではないのと、自分の課題ではないので、そもそも手放しというよりも「受け取らない」というだけなのです。手放しですらないわけです。それでも、ある程度は他者を感じる心はあります。その程度具合が必要なのではないでしょうか。

マイナスも含めて感情がなくなってしまったらそれはただの不感症はたまた精神分裂症です。もっと言えば、チャクラを閉じてしまった状態であれば感情というものはかなりなくなります。チャクラが開くと感情が豊かになるのです。その状態は「手放し」とは無縁とも言えます。

感情に関して言えば第2チャクラのスワディスタナが閉じていると感情に対して非常な恐怖を覚えたりします。ですから、非常に(感情の)「手放し」をヒステリーに言って他者にもそれを(暗黙に)強要する人がいたら、それはスワディスタナに問題を生じている可能性があります。「他人は自分を映し出す鏡」の如く、他者に自分の問題を投影してしまっているわけです。そういうこともあります。

この辺りの理解があまりできていないと、他者の感情的な面を見てすぐに「あの人は感情的になっている、手放しができていない、低次だ(低い波動だ)」と判断し、自分の波動の方が上だと思い込む、そして時に他者に対してマウンティングをする、ということにもなるのです。

感情の解消というのは、高次の波動になればなるほど瞬時に解決できるようになるのです。回復が早くなるということです。低次の場合は時に解消に何年あるいは何十年とかかることもあります。同じことが時に1週間はたまた半日、数時間、時に30分、はたまた瞬時にできるようになるのです。もちろん、物によります。それでも、一時的な感情というものは生じます。その、一時的な感情が全くないわけではないのです。それは、人というのは他者との関わり合いがあるからです。

高次、と言わずとも、単純に第2チャクラ(スワディスタナ)の問題が解消してチャクラが開けば感情的な問題はかなり解消するのです。第2くらいですとまだまだですが、それでも、それなりに解消はします。本当に解消に至るには第6(アジナ、サードアイ)はたまた第7(サハスララ)も開いた方が良いですが、それは、程度問題というものです。第2より第7の方が高次と言えばそうですが、そこは、あまり気にすることではないように思います。誰でも自分の段階というものがあります。比べる必要はあまりないわけです。

この辺りを勘違いしていると、他者の課題を見ては自分と比べる、その人が劣っていると判断する、みたいな二元性の罠にはまり込みます。

傍目から見て、他者の課題は当人の課題であって、自分(読者)の課題ではないのです。ですから、基本的には関わり合いがないのです。当人にしかその課題の意味と最終地点はわからないのです。

ちなみに今、私は、そのような個人的な感情の解決とかは今はそこまで興味がないと言えばそうなのですが、かつてそれが主たる課題だった頃はあります。ですので、思い出話をすることもあるのです。

グループの特徴を見極める

それより今私が興味あるのは、この地球に関わっている勢力にそのような各種の特徴があるグループがいる、という方です。であれば、それらのグループを理解するために、むしろ、違和感を手放さない方が良いのです。時に、めんどくさいグループもいたりします。それは、そういうものなのです。そこで「手放し」をしてしまうと興味を失うということにもなり、理解への機会を失うわけです。

地球の平和のために各種グループを知識として多少は知っておく必要があると判断することもあります。そのため、不思議な、あるいは違和感のあるグループのことも調べてみたりします。その時、あまりにもカルトや団体の考え方が不思議で引け目を感じてしまうこともあります。

たまに、この種のお話で「揺さぶられるのは精神が未熟だ」として、違和感もなく揺さぶられないのが精神的に強いかのように見るお話があります。しかし、それは逆で、一見すると揺さぶられない人というのは単純で、カルトに引っかかりやすいこともあるのです。違和感や引け目はあった方がいいのです。

その自分の引け目は何だろうと考えた時期もありましたけど、結局、その引け目は割と健全な感情でした。一見すると未熟さと捉えられてしまう面もあるかもしれませんけどそうではなく、批判的精神が働くと言うのは防衛機能であるわけです。一見すると「揺さぶられない」と思われている人が容易にカルトに引き込まれてしまうのは、実は見た目と実際とが逆であったりするわけです。一見すると揺さぶられることで自身がまだまだ精神的に未熟であるかのように見られることもありますが、一周回って、そのような感受性を未熟と思うこと自体、価値基準が画一的になってしまっている現れでもあることすら自覚して内省して、価値観を新たにする機会を得ているわけです。

それはというと、カルトにおいてはそもそもの価値観が歪んでいるため、そこで生じる劣等感や引け目は、その価値観によって「押し付けられた」ものでもあります。その場合、その解消方法は、その価値基準に従うことではなく、価値観そのものを見直すことにあります。

当初は、不真実に基づく劣等感を(時にそれと自覚することなく)「引け目」として感じていたかもしれません。それは、一般的な劣等感というよりも、違和感として現れた心理的な抵抗だったとも言えます。

よって、この場合の引け目とは心理的抵抗であり、自分の価値観が揺さぶられていることを示し、そもそも自身の価値観があるからこそ抵抗しているのであり、無批判にその思想に従わない印とも言えます。

そして感覚として抵抗および危険信号が働くというのはむしろ健全な印であり、自律的思考がそこに働いていることが見て取れます。

また、それは内面的な自己像が崩れることへの「エゴの抵抗」とは異なり、外部に対する違和感として現れます。

単純に、見た目通りだと判断するのか。あるいは、その見解を最初は得ても、それを内省し、本当にそうなのか価値観を見直すのか。そこに、精神的な成熟度の違いが現れてくるわけです。

結局、この種のお話の根本を辿ると、「強いか弱いか」という野生的な価値基準でものを見ている、というところに行き着くのです。人の心というものを単純化して見ており、「揺さぶられる人は精神的に弱くて未熟」という価値が生まれるのは「弱肉強食、強いものが偉い」という論理に根ざしているわけです。人は理性的になればなるほど一見して弱く見えることがあります。

精神的に未熟であれば野生的で強い、そして動じない強さとして見えることもあります。しかし、その種の、動じない強さとして見えるものが、実は心理的な脆弱性のサインであるわけです。

実のところ、元々野生的な人がスピリチュアルやカルトにハマる図式は、ある意味、なるべくしてなる場合も多いように思います。多少ながら真実を知ることで目覚めていく一歩が、そのような極端なグループに関わることだったりします。

様々なグループを見て引け目を感じたならば、その分析をします。そこで「手放し」をしてしまったら、状況への理解の機会を失ってしまいます。時間をかけてでも理解をして、解消をしていく方が良いわけです。そして一度理解したのならば、もうその課題や問題は繰り返さなくなります。卒業したからです。

この種の解消の仕方はそれぞれで、散発的に現象として現れたり心像として浮かび上がる種類のものもあります。継続することもあります。私は継続というのは今はほとんどなくなりましたが、時折現象面に現れたり、時折思い出して、であれば、それを整理するのです。そういう意味では、最終的な解決までには少なくとも私は解消に時間がかかるとも言えますが、他者との関わり合いがありますので、そこは大した問題ではないと思っております。スピリチュアルでよく言われているような「必ず手放しが必要だ」という前提ではないので、時に長く持っていることもありますし、特に解消が必要とも思われない状況も多々あります。

なので、きっと何度も何度も同じ話が繰り返されるわけです。お話の解決と謎解きにはまだまだかかるものもあります。ただ、謎が全て解決できなくてもさほどの問題ではないので、そのうち忘れるものもあります。大抵の場合、しばらく忘れていたお話が多いです。そのくらいのお話であっても懐かしくも思うこともありますし、当時の嫌な気持ちを整理するために言葉にすることもあります。

低次も含めてワンネス

そして、私は必ずしも「高次が良い」という立場を取っておりませんので、そこが読者にとって根本的な理解の齟齬になることもあります。

「低次を切り捨てて、高次」というスピリチュアルな考えは二元論に基づきます。何かを切り捨てている時点でワンネスではないのです。ワンネスというのは低時も高次も含めてワンネスであり、低次を切り捨てるのは分断を生み、時に善と悪あるいは光と闇という対立を生み出すのです。

その前提に立てば、切り捨てるかどうかとか、手放すかどうかではなく、もっとこの世界の実在に根差した、どのような存在がこの世界に関わっているかを理解する上で重要な視点を得続けることこそがこの世界に平和をもたらすために重要なのです。

もし、誰かが「そういうことを含めて手放しだ」というのなら、それはそれで当人の文脈で判断すればいいと思います。低次であってもそれはワンネスという前提の「手放し」もあれば、低次を手放すという意味の手放しもあるわけで、当人の解釈によるところが大きいわけです。手放しという言葉とワンネスという言葉の解釈は一定ではなく、幅があります。分離によるワンネスとして理解している方も一定数おられるわけです。

低次を含めたワンネスを公言しているのにも関わらず二元性の感情や観点に基づく発言が出てくるとすれば、それは言葉で自身を騙しているだけの可能性があります。エゴが存続するために、巧妙に理屈で騙してくるわけです。それは割とよくあることで、ある程度は致し方なくて防ぎようがないという面もあり、二元性の状態ではそういうものだと理解して、本当のワンネスに向けて探究を進めれば良いわけです。

二元性の状態では、「差」を悪いものとして捉えがちです。しかし、本来、差は価値判断とは別のものです。

また、感情を悪いものと考える人もいます。それは、エゴが自分を騙すことと感情とをごちゃ混ぜにしているのです。エゴが自分を騙そうとするのは割と良くあることで、その時、感情や理性を利用して騙そうとしますが、かと言って感情や理性そのものは悪くはないのです。問題なのはエゴが巧妙に騙そうとすることの方です。

そもそも感情というのは物事を理解するための道具の一つです。ヨーガでいうインドリヤ(感覚器官)です。道具を見てそれはエゴだと思うなら解釈にずれがあります。道具なのに(それをエゴだと解釈して)手放そうとするのは自然な解釈とは言えないわけです。

感情なのだから一時的なものです。自然と手放すのが普通であり、長くマイナスの感情を保持しているのだとしたら自分あるいは他者に何がしかの問題があるということです。感情というのは拾いますから必ずしも自身の問題であるとは限りません。ですから、他者の問題であればそれぞれのケースで対応すればよいのです。

道具である感覚器官を否定する必要はありません。道具なのにエゴだと思っているのであればその間違った解釈を直すことが必要ですし、エゴが道具として使っている感覚を悪者だと見做す必要はなく、エゴが自身を騙す構造こそ見抜くべきものなわけです。

エゴというのは、「私」という間違った観念のことです。ヨーガではアハンカーラ。それを、一部のスピリチュアルでは「感情がエゴ」かのように誤認されています。感情は感覚器官の一部、道具です。一方、エゴは本当は存在しない幻想です。全く違うものである感情とエゴが何故かごっちゃに語られるのです。

マイナスの感情があるのは、感受性があるからです。それはエゴではなくて単に感情です。自身だけでなく誰かの感情を拾う場合も多々あります。それをいちいちエゴだと解釈するのは不要です。何故なら感情はエゴではないからです。

エゴとワンネス

「ワンネスになるためにエゴを捨てる」みたいなスピリチュアルなお話は昔からよく耳にします。ワンネスが先で後にエゴが消えるわけですけど、もし手段として捨てることをワンネスへ至る手段だと間違って捉えると分離の心理になりがちだということです。

大抵、修行とかは、エゴを捨てる為の「(別の)手段」なわけです。手段としての修行があって目的としてのエゴの解消があります。

ですがスピリチュアルではエゴを捨てること自体が手段のように理解されていたりします。ですので、頭で理解しただけで自分が既にできていると勘違いしてしまうことがあるのです。

エゴも含めて世界を理解することこそが必要なわけです。それこそがワンネスです。そうしたらまやかしで実態のないエゴという概念は自然に崩壊します。

そして、何故このことが大切かというと、欲望やエゴを含めた低次の人間の感情を切り離して高次だけでこの世界を引率したために世界が分断し、破壊を免れなかったからです。

この違いは、一見すると分かりにくいかもしれません。本当に高次であれば低次のエゴは不真実で実態がありませんから自然と崩壊するのですが、エゴが残っている状態のまやかしで自身が高次だと自称して善と悪との戦いに突入したら、それはこの世界の破滅をも引き起こすのです。

高次と低次を切り離す、「手放す」ということこそが、争いを生みます。というのも、人間の欲望と高次の意思とが切り離されているからです。どちらかが、どちらかに歩み寄る、ということをしなければこの世界に平和は訪れません。理想的には両者が歩み寄ることです。理想的、と言いましたが、それは比喩で、実際には、両者が必ず歩み寄る必要があります。

そもそも「高次が良い」ということではなく、この世界は低次と高次が交差しているのだから、2つの視点と理解を繋ぐことが必要で、低次と高次との融合、自分の中で理解とオーラが融合(低次と高次の融合)する、そのようなところが必要であり、「低次を手放す」みたいなお話ではないわけです。

この種のお話は、スピリチュアルで「手放し」を強くすり込まされてきた人にとっては理解が難しいかもしれません。手放しをしている(ように見えるかどうか)が恐怖観念として自身の中にできていて、その恐怖を避けることが「手放し」だという条件反射的なものがあると、その暗黙の恐怖が他者にも強く伝播してしまうのです。それこそが非ワンネスであるわけですが、当人は「避けること」あるいは「低次を滅すること」こそがワンネスであると思い込んでいます。ここに理解と認識の齟齬があります。高次という概念で、意識が分離してしまっているわけです。

そういう人は往々にして、自分たちを「高次元のこっち側」として線引きしてしまうのです。それが分離です。

部分的には、そのように解釈してしまうのは辿ってきた歴史を見れば致し方ない面もあるとは思います。その歴史を踏まえて、その自身の理解を正したり、これからどうしていくのを決めるのはそれぞれの人に委ねられているのです。

世界を救う

世界が何故、何度も破滅してしまったのか。

何故、どうしてライトワーカーが動いたのに何度も地球がやり直しを強いられているのか。それを解釈すると、どうやら、そのあたりに鍵があるようなのです。

人間の欲望を肯定しなければこの世界は存続しないのです。

「手放し」では、かつてレムリアで起きたような、低次を切り離して高次だけのアセンションになってしまいます。そうなれば、また長い時をかけて低次の自分を助けるためのループに入ってしまいます。

今度のアセンションは、低次をも含めて完全なるアセンションにすべきなのです。

そうしなければ、また、高次が低次を忘れた分離の世界に長い間住むことになります。

それはもう、前回に分離のアセンションを経験した人は既に後悔している筈です。今、外の世界から来ていてそのような由来がある人は、低次の自分を助けようと決心してきていると思います。分離のアセンションは、かつてレムリアで起きたような長い悲しみを生むのです。

いわば、そのような悲しみから逃れるために高次への手放しというストーリーが作られた、とう面もあるかと思います。それは一時的には必要なことでも、本当に必要なのは低次の感情と高次との融合である筈です。

「手放し」を主張している当人は、自分は既にそのようなことを克服していると思うかもしれません。しかし実際には、「その時」になってみないとわからないのです。

その時、どのような結果になるのか。

分離によるアセンションになるのか、それとも、統合されたアセンションになるのか、あるいは全くアセンションできないのか。

そもそもこの時期のアセンションと無縁の人であればあまりこのあたりは心配する必要はありません。無縁な人はただ単にこの地球での生活が継続するだけです。ですが、完全なるアセンションを目指していて、この地球に低次を置き去りにするという悲しみをまた経験したくないのであれば低次を「手放す」という考えにはならないはずです。その自覚があるかどうかはそれぞれですが。

  • レムリア方式のアセンション(分離によるアセンション、悲しみ。悲しみに耐えれないので「手放す」)
  • 統合されたアセンション(低次と高次が統合されているため「手放し」ではない)
  • アセンションしない(地球に残る。死ぬわけではない)(欲望の追求が可能、それが許された自由の世界)

それとは別に、単純に、この地球が存続するためにある程度は人間のエゴを肯定する必要もあります。それは、以前に言及したエルサレムや3つの宗教の融合のお話とも関わってきます。

更には、オーラの法則があります。押し付けられてしまった負のオーラは自身の中に蓄積します。そして、死後高次に帰るときは、大抵の場合は分離が起こって高次だけが昇天し、低次は地上に近いところに残されます。それが普通です。

ただ、そうしてしまうと高次の本元のいわゆるグループソウルからしたら、自身の分身の一部が地上に残されてしまって帰れない状況になってしまうのです。これが、いわゆる、よくある「分離」による高次への帰還です。これはなるべく避けた方が良いのですが、一部はそうなってしまっているように思います。

完全な形で全て高次に帰る方法、それが模索されています。その手段は少なくとも「手放し」ではないのです。このようなことを言っても、この種の課題を共有して解決策を模索している人は少ないかもしれません。そもそも課題としてこのようなものがあるということが理解できないかもしれません。この解決策としてヨーガあるいはそれに近しいスピリチュアルな手法が鍵になると見られています。

そして、ヨーガあるいは一部のスピリチュアル手法による低次と高次の融合と、レムリア方式でかつてアセンションを経験した人が如何にして今回完全なる統合に至るのかという点とが、実は繋がるのです。

それは、かつてレムリアで分離アセンションを経験して今度こそ完全なるアセンションを目指しているグループと、地球に関わったために完全に高次に帰ることができずに一部を低次に残してしまっている存在、それらが、母体が違えども、手法としては重なり合う部分が出ているのです。

天使たちのグループによって、低次を含めてこの地上に残された同胞の魂を救う方法が模索されてきました。かつては、それがわからなかったのです。地上に降りた結果、魂の一部がどうしても切り離されてしまって地上に残されていたのです。それを助けることは、長年の課題でした。

今、肉体を使った各種の精神的修養の手法が、低次の自身の魂を救う方法として有力になりつつあります。

扉を開くための自己否定と修行(苦行)

各種の修行、肉体の苦行のみならず、精神的なもの、例えば「雑念に捉われない」や「手放し」という手法も、一定の(擬似的な)効果を生じることがあります。

苦行あるいは修行により効果が出る場合もあれば、自己に関する探究が効果的な場合もあります。

それらは、低次と強く結びついているエゴとしての自己観念(それは究極的には幻想)を低次から引き剥がす作用があるのです。心地よく結びついている状態から引き剥がされるがゆえに、エゴは抵抗します。それが時に「苦行」として認識されます。意識が低次に強く結びついている状態から強制的に離れさせるわけです。

そして、このようなことは、一時的なとある段階において効果があります。

と言いますのも、後に、高次の意識が低次に行き渡る「統合の段階」になると、それは分離ではなくなるのです。元々結びついていたことが究極的には幻想であるならば離れるというのもまた幻想なのです。

低次と触れた部分を救出する

面倒な人や欲望に満ちた人と多少なりとも接触をすると多少ながら低次のオーラに触れてしまい、低次が切り離されて死後に魂の一部が地上(地球)に残ってしまうリスクが生じます。

残された魂を「手放し」して切り捨てて高次だけが帰るというのは、自身の一部と別れることになります。低次に残された自身の魂を回収することをしないのであれば、そこには悲しみが残ります。それは、残された者の悲しみでもあり、低次を残してきてしまったという高次の側の悲しみもまたあるのです。

その悲しみを癒すのは統合なのですが、統合できない状態が長引くと対処療法として「手放し」みたいなお話が出てきたりもしたのです。しかしそれは限られた効果しか持たないのです。

それは今世のみに限ったことでなく、長い時を遡ります。この地上に残されてしまった各種の魂がいて、何もしなければそのまま放置され忘れさられてしまっていることもあれば、手分けして探し出し回収が行われることもあります。それを最初から避けられればそれでも良いわけですが、既に低次に触れたことにより分裂してしまったのであれば、それを助けるにはその時の記憶に繋がって残された魂を回収するわけです。これは現代風に言えば、魂の一部が外に残る現象であり、沖縄でいう「マブイ落とし」に近いものです。そのように今世とは限りませんが、自身の魂(マブイ)がどこかに置き去りになっている、分離して漂っているということです。それらを自らに統合するわけです。

そうやって切り離されて低次に残された魂を回収するということは、時に、単に語りかけて自分で動いてもらう時もあれば、自身の一部に融合される時もあります。明確な意思を持たず自発的に動けないような魂の切れ端の場合は、自分の中に取り込んだ方が動かしやすいのです。その場合は、自身の一部がそうなるということです。自身が、かつてそうでなくても、置いて行かれた魂の記憶を共有することになるのです。

その、残された分身はかつて低次の経験をしたわけですが、その一部は時に「もともと高次にいたのに、低次まで降りた」という記憶をも保持していたりします。そして、合流時点で、それは私自身の記憶の一部にもなるのです。過去生の記憶として認識されるものの多くが、こうした魂の断片です。そして、自分はというと多数の記憶がある状態で生きることになります。それは慣れないと混乱を生じますが、このようなことであると理解すれば、記憶が断片的であるのも当然だと理解できるのです。

ですから、記憶があったとしても、その全てが自身の経験ではなかったりするのです。特に、低次に切り離された部分は感情や他者の欲望の妬みあるいは嫉妬等を受けていることが多く、具体的なものを含まなかったりします。そのような魂・オーラを取り込んだ時に、自身には全く心当たりのないことでトラウマが生じたりします。その責任は必ずしも今世の自身にはなく、相手の不条理にその原因があることが多々あるわけです。であれば、トラウマがあったとしても自分が悪いと思う必要はあまりなくて、不条理なその状況を理解して、魂を回収してあげて、低次に陥ってしまった自身の魂を波動を高めて調整して統合してあげれば良いのです。

大抵の場合、その状況というのは大した意味のない、くだらない感情や嫉妬はたまた相手の欲望によるものだったりします。状況を知れば、その強欲や陰謀に呆れ返るようなことも多い筈です。それは、人間の低次の強欲と密接に結びついています。

そして、他の低次のオーラを救い出すのは、同じ地上の存在としての波動領域の方がしやすいのです。自身の高次の部分がやるよりも、既に地上にいて波動が近い方がやりやすいわけです。そうして、うまくいけば多数の魂を救うこともあります。

統合の時、割と最初に出てくるのは強い悲しみです。特にレムリアで分かれた魂はその傾向が強いかと思います。それは、そう言うものなのです。

時に、外野が、状況もわからず無責任にもそのことを批判したりします。例えば「エゴを慰めている」だとか、「手放せば高次に行ける」などいう色々な意見が、時にライトワーカー的な善悪の観念から投げかけられます。しかし、それらの大半はこの種の「低次の自身の魂を救う」という文脈で言えば的外れなのです。更に言えば、そうして「分離」をしたライトワーカー自身が長い時を経てやがて置き去りにしてしまった自己を救い出すサイクルに入ることにもなる筈です。そのような各種の「手放し」は一時的に棚上げにしているだけということに気付かないでいるのです。それでいて、もう解決したと思い込んでしまっているだけなのです。最終的には、長い時を経るかもしれませんが、統合を果たすのです。目の前に現れている「葛藤」「低次の波動」が、実は自分自身の片割れかもしれないのです。と言いますか、究極的には全て「自分(私)」です。ただ、出自によって多少の流れがある程度の違いなのです。今、それぞれの出自に応じた同族を救うということがそれぞれのグループで行われていて、救うときに統合が起こります。

そして、統合の時に、残された側の様々な感情が流れ込んでくるのは普通なのです。

それでも、ずっと悲しんでいるわけでもないのです。統合には多少の時間が必要なのです。多少の時間を経て、感情は落ち着きます。

個人的統合のプロセス

完全なるアセンションするためには低次の経験をも理解して自己の中で統合する必要があります。これは別に、他人(面倒な隣人や欲望に満ちた人)のために行なえと言っているわけではありません。自身の中で生じてしまった低次の葛藤を含めて統合しなければ完全なる帰還にはならないのです。ですから、他者を変えたいわけでもなく、理解してもらいたいわけでもなく、自己の統合をすることが重要で、そのために理解を進めるべきなわけです。これは私と同族でルーツが同じ人(あるいは地球に関わって同様になった存在)にとっても同じな筈で、欲望に満ちた人たちに影響されて故郷(地球の外)へと帰ることが難しくなった人(あるいは魂の一部分)たちが大勢いるように思います。彼らも同じように自己の中で統合を果たす必要がある筈です。そうしなければ再度、地球の生活の輪廻のループに巻き込まれる可能性があるからです。そのために、助ける方も、助けられる方も、ある程度は地上の欲望というものを理解する必要があるわけです。その難易度は人それぞれで、ルーツを思い出すだけで十分な場合もあれば、欲望から離れるためにとても苦労する場合もあります。

それは、理解して自己の中で統合するためであって、その相手を助けたいかどうかは帰還という意味においてはそこまで関係がなく、ましてやその人たちと競ったり比べたり罵り合ったりするためでもないのです。

これらは全て、私を含めた同族が自分達への故郷へと帰るために行うステップです(他の宇宙存在にとっても同じである可能性があります)。私の場合、その雛形になりえるかもしれない、ということで模索が(私以外も含めて)多様になされているのです。

統合の時、自身のオーラと受け取るオーラが接触することで一時的に葛藤が発生して様々な感情が出てくることがありますが、それらは否定せずに受け入れれば次第に解消します。その感情を、程度が低いとか高いとか価値判断をしないことが重要です。と言いますのも、発見された自己の分身は時に何万年という置き去りにされた悲しいオーラを纏っていたりします。その分断されたオーラを受け入れて統合する時、様々な感情が出るのはむしろ普通なのです。

そのことを側から見て、外野がやれ「分離」だとか「手放しすべき」だとか「思考を止めなさい」だとか的外れな指摘や助言を言ったりすることがありますが、前提が違いすぎるのです。

それらの各種の感情は、時間が経てば自然と解消されます。自身の中に統合されるのです。複雑さを受け入れるのです。

低次と高次の統合をテーマにしている人たち

人数は多くないのですが、このようなテーマで地上に転生している人を稀に目にすることがあります。

これは(活動母体としてよりも)分類としてのサブグループと思った方が良いかと思います。それは、先に述べたグループの1つから生まれた実験的な試みであるように思えます。実験的とはいえ、先駆けとなりうるようなテーマです。一応サブグループと言っても良いですが、人数はさほどいないのと、このサブグループの人同士で集まることはほとんどないように思いますのでグループというと誤解があるかもしれません。活動母体としてのグループがないことが多く、あるとしても誰か個人を中心に集まるグループとして存在しています。

具体的に何をしているかのお話の前に、まず、この世あるいは天界などでも「浄化の儀式」(火の儀式)が行われているということを説明する必要があるかと思います。自身の不浄な部分を切り取って消滅させ浄化するわけです。時に、その、本来ならば消滅させるべく集められた(儀式の参加者の)オーラが意識を持つことがあります。そうであっても大抵は気付かれず消滅させてしまうのが常なわけですが、実験的な試みとして、そのようにオーラが意識を持った時に消滅させることを止め、(不浄かつ意識を持ったオーラの魂に対して)清浄なオーラを少し混ぜ、不浄と清浄の混在の状態にして転生させる、ということが行われているのです。

この時、魂の基本としては元々清浄なる天のオーラであった。しかし地上の不浄なる欲望や嫉妬などに触れたことにより穢されてしまったオーラになってしまった。その、本来は消滅させるべくして儀式で集められたオーラが意識を持った時、それに再度清浄なオーラを少し混ぜ、そのような魂を、低次と高次の融合・統合をテーマとして地上に降ろしているのです。

これは、高次の人からしたら低次に見えるし、提示の人からしたら高次のようにも見える。特に若い頃は精神分裂症のようにも見える状況でもあります。この地上の、殺伐とした世界にいて合わない、しかも自身の中には穢れたオーラがある。それでいて自分の一部には清浄なオーラを所持しているような状態です。

出自としては天の側でありますが、生き方の系統としては先の3つのグループ(天、ライトワーカー、それ以外)のいずれにも属さないかのように一見すると見えます。天のグループのように啓蒙する側では必ずしもないですし、ライトワーカーのように光と闇の戦いを標榜しているわけでもない、低い欲望に染まっているわけでもない。たま虫色の状況で、どちらに振れるかは、それぞれの場合になるのです。

うまくいくかどうかは未知数ですし、もし著しく失敗したら捨てられる可能性があります。再度、火の儀式の対象になって消滅させられるわけです。ですので、自身の中で統合を果たすか、そうでなければ捨てられて地上に残されるか、あるいはあまりにも酷い状況になれば消滅させられることもあり得ます。

往々にして実験体は観察下にあり、あまり世間と交わらないように注意されているわけですが、そうは言いましても個人の意思が尊重されておりますので自由があります。ある意味、使命などとは切り離されているので一番自由があるとも言えるのがこの分類の特徴です。

アセンションそれ自体において実は「消滅」とかはなく、単に3つに分かれていくのですが、この分類の人はその出自により「私は消滅させられる筈だった」という記憶を所持しています。更には、そのグループの存在がもしも失敗して意識が混沌に落ちてしまった場合には再度同じ儀式に連れて行かされてやはり消滅させられてしまうリスクをも負っています。それはこのグループの個人のことではありますが、そのような背景があると、アセンションと消滅というイメージが誤って重なって表現されてしまうこともあります。

更にこれに加え、人によっては過去、レムリア型アセンションにより崩壊を経験した記憶を(一部に)持つ者もいます。それによりアセンションと崩壊がイコールのイメージで語られることがありますが、実際には、崩壊が先に起こったのだと理解した方が良いと思います。ですから、アセンションが崩壊を引き起こすのではなく、崩壊によってアセンションの引き金になったということです。とは言いましても、その前段階に意識の分離というのがあり、それがあった状態で崩壊が起こり、そして、元々あった意識の分離が実際に現象面に現れた、ということだと思うのです。ですから、同型の崩壊型アセンションは今回は基本的にはそこまで想定しなくて良いと思うのですが、このような複数の要因があったが故に、崩壊のイメージとアセンションが重なってしまうのです。

そのような背景や当人の消滅リスクがありつつも、過去の記憶や経験を統合していくプロセスを辿っているのがこのサブグループ(分類)の特徴です。

アセンションの構造について

  • 葛藤(低次)を切り離して高次、というお話では本来ない
  • 低次で相手と比べ合う(マウンティング)というお話ではない
  • 他者に指示・提示をしているお話ではない
  • 自己の中で低次と高次を統合して完全なるアセンションに至るお話

アセンション、というと何やら本当にあるのかないのか、というお話になりますけど、内容をわかってしまえば、それほど不思議なお話でもないのです。

死後、高次の意識は昇天して天に昇ります。それがアセンションです。

その時、全体丸ごと昇天するのはなかなか難易度が高いのです。これは、死後、オーラが分離せずに一体となって天に昇天できるかどうかというお話です。低いオーラが分離状態にあり、かつ統合されていないと、その低次の部分が昇天することができず、全体が丸ごと登ることができないため、一部が切り離されて地上に残ってしまうのです。

レムリアのように崩壊と分離を伴うアセンションでもなく、死後の分離によるアセンションでもない。完全なる統合を目指すべきなのです。

あるグループに属する魂にとっては、もうこの地球から離れる時期が決まっています。

その時までに自身の別れた魂をなるべく残らず救出するのです。

この世界に関わることで何やら地上の低級な欲望の人と付き合って泥臭い状態にもなっていますが、それも含めて、完全なる統合、完全なる帰還をするべく準備をするべきなのです。であれば、今は模索の時期なのです。これは同族(あるいは同様の課題のある人)が完全なるアセンションを果たすための雛形になり得るのです。

過去、アセンションというと地球の崩壊というイメージと共に語られました。しかし騒がれていた時期にそれが起きなかったことで嘘だとか拍子抜けだとかいうお話になりました。それは元々の理解が違うのです。レムリア型のアセンションは文明及び島の物理的な崩壊を伴いました。そして高次の意識だけが抜け出てアセンションしたのです。それはというと、低次と高次の分離という形式によるアセンションだったが故に、そのような崩壊を伴ったのです。今回、地球においてはアセンションを騒がれていた時期は過ぎました。ということは、分離による崩壊は免れたのです。崩壊がなかったのは、良い方向に向かっているということです。またレムリア型でアセンションが起きれば、次の統合へと長い時をかけて準備をしなければならなかったのです。

今後、先に述べましたように3つの形態に分かれます。統合されたアセンション、分離によるアセンション、地球に残る者(アセンションしない人)。

出自にもよりますが、最終的にそれを選ぶのはあなた(自分自身)です。

この地上に変化はおそらくなく、死後、転生しないという選択をすることでアセンション相当を果たすケースが大半になると思います。

アセンション失敗というのは地上に魂が残され、輪廻のループに巻き込まれるわけです。それは必ずしも悪いことではありません。

輪廻のループに死後巻き込まれないのがシンプルなアセンションです。

ヨーガやヴェーダで言うモクシャ(自由)あるいは仏教の解脱にも相当するのがアセンションだと言えばイメージが掴みやすいかもしれません。

様々な流派で、「死後に救われる」だとか「死後にこそ悟りがある」「転生しなくなる」「輪廻の輪を抜ける」などと語られています。それはというと、その一部は実はこのようなことだったりするのです。

本来、アセンションと地球の破滅や存亡とは直接的には関わりがないのです。ただ、時期的なものが重なるのと、皆が活動する基盤としての地球の存続が必要ということで重なって表現されたりしてきたように思うのです。

  • アセンションはこの地球における輪廻の終焉、モクシャ(自由)
  • 多くの場合、死後に転生しないことでアセンションと同等になる。
  • 死後、同胞たちに助けられて転生しないことを選ぶことでもアセンションと同等になる。往々にして生存中に同胞たちに発見されることでそのように導かれる。
  • レムリア式の、大規模崩壊を伴うアセンションは今回はもう起こらない可能性が高い。
  • 地球が滅亡するかどうかは欲望に満ちた地球の権力者次第でありアセンションとは本来関係がないが、大勢が活動する地球を存続させることが第一の目的だった時期はかつて存在した。

社会のあり方

出自に応じて、それぞれの社会の行末があります。

  • 地球を卒業する層(天から来た者。天使。レムリアやり直し群、等)(自己の統合を果たした完全なるアセンション)自己の意識の統合が起こればアセンションになり死後、転生しません。内なる混乱の収束と統合。
  • (政治・社会としては)統合された地球に残る層(これから高次に向かう人たち)(低次から中間的な意識へと上昇する)意識の統合をせず地球に残り続ける者たち。転生を繰り返す場合、それは欲望の世界に生きることになり、世界の統合という現実と、その荒波の中を生きることになります。目に見える世界の混乱と統合があります。

多くの存在が宇宙に帰り、地球に残された人がどうなるのか。かつて高度な文明を築き上げたものの忽然と衰退あるいは消滅した遺跡が世界各地には数多くあります。宇宙から降りてきて文明が栄え、富が集まり、いなくなると富が集まらなくなり、かつ、富が再分配されず富が独占され、貴族と奴隷の関係が生まれ、多様性を失い、人々の知能が低下し、技術者が減ることによりインフラが崩壊し、社会が崩壊すると人々が離れてゆき、時に文明が崩壊する、ということは過去も繰り返されてきたように思います。

実のところ、宇宙人および宇宙由来の人たちにとって、地球人が豊かになるかどうかはそこまで本質ではないのです。例えば、とあるグループにとっては、かつてあった宇宙の戦争の分離の意識を統合するべく箱庭として選ばれたこの地球において、彼ら自身の意識が統合すれば、それで目的を果たしたことになるのです。

それぞれの目的を果たした後は、自分の出自の世界へと戻るわけです。その時、地球人は地球にそのまま置かれます。特に何か関与する理由もなくなるからです。宇宙人たちは自分たちの出自に基づく理由があって地球に関わっているのであって、地球の暮らしを良くするために来ているわけではないし、ましてや地球人の欲望を叶えるために来ているわけでもないのです。彼ら自身のカルマがあり、経験をして学ぶために来ています。

その過程で、自身のグループあるいは縁のあった人たちを助けることがあります。それぞれのグループ自身には救済があります。ですが、それは無条件に地球の人の欲望を叶えてあげるということではないのです。

宇宙由来の人たちが自分たちの目的を果たした後、グループによってはそのまま帰ることもあるでしょう。あるいは、例えば天使などは、ある程度の地球の安定を見届けた後、自身の出自の世界に帰ります。そのような帰還の時期が過ぎた後、地球は元々あったように変化の少ない平穏な状態に戻るのです。宇宙人がもたらした変化が大きかっただけで、元々の進歩のスピードに戻るだけのことです。平穏な、変わり映えのない日常に戻るのです。ただ、それはというと宇宙由来の人が様々な変化を起こした後の、その前提での平凡な日々です。

平凡、とは書きましたが、社会に新しい劇的な変化がないという意味です。

それでも過去に作られたインフラの整備は行う必要があり、動かなくなった設備の多くは廃墟になって置いて置かれることになるかもしれません。その時、宇宙由来の人がもたらした多大な恩恵を地球に残る人は実感することになるでしょう。かつてあった当たり前の日常は、そのインフラが崩壊することにより維持が難しくなるかもしれません。

ただ、「インフラの整備は行う必要がある」と思うこと自体、宇宙由来の人の価値観を押し付けているのかもしれません。過去に作られたインフラが放置されて崩壊して行く末を、将来の世代は目撃することになります。そして、それでもあまり気にしないのが地球由来の人たちの特徴なのです。

それでも、地球に残る人はどうにかするでしょう。インフラの崩壊を受け入れて、尚、生きるのです。その崩壊を見て嘆くのは割と宇宙由来の人であり、地球に残る層は、理想としてのシステムの秩序を、そこまで気にしないのです。目の前にあるものを見て、利用できれば利用するし、なければないでどうにかするのが地球に残る人たちの生き方になる可能性が高いです。

その将来の時を考えて関わっているグループもあれば、考えずに自身の目的だけを果たすために地球に来ているグループもいます。地球の将来に責任を持っていると考えて関わるグループもあれば、遅れた原始的社会は自分たちの好きに使っても良い、と考えている場合もあります。

基本的には宇宙には不干渉の法則があり、地球の運命は地球の人の手に委ねられています。それには例外があって、その星に転生する場合は星の運命に関われるのです。そうして多くの魂がこの地球に関わっています。それらの魂が彼ら自身のカルマを果たした後、地球を離れることになるわけです。

その頃までに宇宙由来の人がもたらしたインフラは、まるで神のようになんでもできる状態になっている可能性があります。SFで見たように、願えば何でも与えられる魔法の箱がそこにあります。そして、人によっては実際に、本気で「神が与えてくれたもの」として拝むようになるかもしれません。しかしそれは人が作り出した便利な道具としての工場あるいは機械であり、いつか壊れるものです。そして、壊れた時、神はいなくなってしまった、神は恵みを与えてくれなくなった、と嘆くかもしれません。そのように、地球に残る人は技術としてではなく神の作りたもうた道具として、将来作られる魔法のようなインフラを見るようになる可能性があります。将来、インフラを技術として見るか、あるいは、神が与えてくれたものとして見るか、それは地球に残る人次第です。

そのどちらの場合においても、技術を地球に残る人が学んでおかなければ、インフラはやがて崩壊するのです。ですから、今、世界は唯物論で科学技術万能の考え方が優勢になっているのは、ある意味、将来にそのような信仰に陥らないために有用という見方もあるのです。

信仰に陥ってしまった場合、「何でも与えられるだけの生活」というような非現実的な考えを信じてしまい、やがて、インフラを支える層が宇宙に帰っていなくなった時にインフラおよび社会が揺らぎ、そして文明が崩壊する可能性すらあります。

一方、信仰に陥らずに技術を学べば、インフラは維持できるのです。それは誰か(宇宙由来の人)がやってくれることではなく、地球に残る層が学ぶ必要があり、それを学ばないという自由もまたありますけど、その時は相応にインフラが崩壊するだけのことです。地球に残る層が、それをあまり気にしないというのであれば、それはそれで、残る人たちの自由の選択ということになります。

非干渉の原則

宇宙には非干渉の法則がありますから、(地球の破滅の危機など異常時を除いて)基本的に(直接的に)助けることはしません。 (常時において)宇宙人が地球の人を(直接的に)助けるのは基本的に良くないことであり、幾つかのパターンがあります。

  • 地球の文明は未開だから干渉しても良いとみなす場合(宇宙の法則的にはNG。宇宙の法則に反して干渉している)
  • 地球の人は子供だから、神様ごっこして宇宙人自身のエゴを満足させている
  • 自身の種族のカルマ

ここで、「地球の人を(直接的に)助けてくれるのは自己中心的な宇宙人」という見方もあるわけです。

一方、地球の人は自立すべきとして、あまり助けないグループもいます。一見すると「助けない」なんて、なんて酷いグループなのだろうかと思うかもしれません。しかし、実際は、(直接的に)助ける方が自分勝手で、助けない方が思慮深く慈悲深いのです。その、「(直接的に)助けない」グループは自立を助けて、時に、ほんの少しだけ後押しする、ということが行われています。それは宇宙人のちょっとした手助けかもしれませんし、天使の恵みとして与えられることもあります。

自主性を尊重するためには、その人の内情を深く知って理解する必要があります。そうでなければその時々における「ほんの少し」という程度がわからないからです。よくわからなければ助けないし、理解した上でほんの少しだけ後押しする一部のグループがいます。

この法則には例外規定があり、その星に転生した場合は関与を許可されます。しかし、それはというと本来、元々の規定を理解して尊重した上での不可抗力という範囲における例外規定なのです。しかし、その例外規定を文字通り解釈して何でも自分の思い通りにして良いと思い込み、実際、そうしているグループがいるのです。それは本来は許してはいけないことですが、地球人がしているという建前を取っているために見逃されています。

アセンションの時期が過ぎる数世代の間、しばらくこのような、本来あるべきでない干渉が続くでしょう。

そのような状況で、地球の人は、本来ある筈のないテクノロジーと接することになるのです。その結果、利益を享受することもあれば、その逆もまたあるのです。翻弄されることもあります。一部のグループが例外規定を逆手に取って地球に干渉を強めた結果、様々な歪みが生じてきています。それでも、自身のグループの出自を見極めて行末を決めればそのような状況に驚いたり影響されにくくなります。道筋が見えるようになるのです。

基本的には、それらの干渉は自身のグループの影響力を高めることが目的であり、時に激しいマーケティングをも伴います。ですが、そもそも、そのような干渉それ自体が道理に反しているのです。いくら驚かされるような、時にカルトの崇高なお話があったとしても、宇宙由来のものは眉唾であることも多いのです。

出自ごとの方向性

そのような状況を踏まえ、今後の自身のあり方を考える上で、出自を見極めることは重要に思います。

  • レムリア系、分離のアセンションをかつて経験し、地上に取り残された人たち。この人たちには、完全なるアセンションを提唱する。分離ではなく、統合されたアセンションを目指すべき。そうでなければ悲しみは繰り返される。地上にいるレムリア人は基本的に取り残された方であり、アセンションした部分との統合を果たすべく努力している最中。
  • 天使など、宇宙から降りてきて、部分的に切り離されて地上に取り残された部分の魂。この場合、分離ではなく、統合されたアセンションにより(死後に)元いた場所へと戻ることが目的になります。
  • 地上に残る組。これは良し悪しではなく、それぞれに応じた在り方ということになります。まずは技術や能力を高めること。そのためには集中を学び、ゾーンに入り、効率を高めることこそが第一になります。そうすれば社会の軸となりインフラを支え、時に人知れずして世界を救う、支えることにもなるのです。これから数世紀後の未来を背負って立つグループです。ここが、これから伸びる必要があります。このグループは、地球をどのように成長させてゆくか、自身で考えて選択する自由があります。未来があります。希望があります。今までは宇宙から来たグループがインフラや社会を率いていましたが、今後は、地球は地球に残るグループが考えていくのです。その時、善と悪の二重構造ではなく、自身が変容していくという統合のモデルが必要です。

特に、レムリア系や天使など宇宙から降りてきた場合は、地上に自身のマブイのようなもの(取り残された魂の片割れ)を置き去りにしてしまっている可能性があります。それらを見つけて統合するには、それなりに魂の履歴も含めた探索能力が必要になります。

その他、宇宙から来て日本や世界をサポートしているグループもいますが、それらはひとまず上の分類から外しておいても良いでしょう。というのも、この地球の将来に関わる主体ではないですし、実態としては多様なものになっているのでここで扱うには雑多なものになりすぎるからです。実態としては多数存在し、能力が高いので影響力がを持つこともありますが、実のところ、地球の行末という点で見たときに、このグループはサポートという分類をしておくのが適切のように思います。ある意味、今の時期に必要だから来ていて、その役割(カルマ)が消えると急にいなくなるグループです。いわば、役割、使命があって来て関わっているグループです。そのため、サポートとして位置付けるのが適切でしょう。その一部は永続的に地球に関わり続けることになるかもしれません。いわば、昔天使が担っていた部分に入れ替わるようにして入ってくるグループとも言えます。

そうは言いましても、基本的にはこの地球は、地球に根ざした人たちが主体となって運営していくものです。そのため、これらのグループはサポートとしての位置付けが主になります。そして、大部分はやがて変革を遂げた地球から離れることでしょう。長い時を経て、やがて、それら地上へと取り残された人々を救うべく統合したアセンションが繰り返されることにもなるかもしれませんが、それはまだまだ先のお話になります。

今、この地球で主体となっているのは、かなり長い期間、地球にいたり関わっていた存在たちなのです。それらの課題を解決することが、地球の存続のためにも優先される事項になります。

それぞれのグループに対する私の立場

  • レムリア系に対しては、統合されたアセンションを提唱する。
  • 天使系に対しては、今後数世代後に故郷に帰ることを意識させる。
  • このどちらに対しても、その人の魂の片割れ(マブイに類したもの)がどこかに取り残されている場合は回収するよう促す。
  • 分離(善悪の対立、光と闇の対立)では世界は滅ぶことを伝える。
  • 地球に残る人たちには、仕事を大切にして学びを深めるよう促す。

まず第一に自身がどのグループにいるのか見極めが大切で、その上で、出自ごとに進むべき道が異なるわけです。もちろんこの融合や例外も多数ありますので必ずしもこの通りではありませんし、実のところ、天使についていきたいという人が一定数いるわけです。それは特に本人の意思次第でありますから、当人が希望すればそこまで阻まれるものでもありませんが、それでも、生きやすい状況というのはありますので、人によって合う合わないはありましょう。

地球では、特にスピリチュアル系で欲望が悪者かのように言われておりますが、それは野生を生きる上で大切な本能です。7つのチャクラで言われているように、人間が持つ7つのチャクラのうち一番下のムーラダーラは、動物で言えば一番上のチャクラです。動物で最高に成長してから人間に生まれ変わるのであり、その最初はとても野生的であるということです。それを否定すべきではありません。何故なら、そういうものだからです。

人のそれぞれの段階において学ぶべきものは異なります。欲望や情愛を学ぶ段階の人もいるでしょう。他人に対して自己を投影して誤った見解を押し付けてそれを当然と思っている者もおられるでしょう。それも全て、当人の段階を示しているのであり、統合という意味においては全て意味があるものなわけです。

これは、出自によってもスタンスとアプローチが異なります。

  • レムリアのグループは、自身がかつて分離した高次と融合することによってサイクルが完結します。あるいは、低次が手を伸ばして、高次も手を伸ばして、手を結ぶ、と言っても良いです。
  • 天使のグループは、地球に関わったことにより低い波動に影響されてしまった、その重い波動を切り離すのではなくそのまま高い波動へと昇華することで統合することができます。これは他のグループがやっているよりも熟練が必要とされますが、天使グループなら可能です。
  • 地球に残るグループは、より段階的に経験を積み重ねながら、時間をかけて波動や意識を上昇させていく流れになります。

過去、人の誤った見解によって何がしかの価値観が「悪いもの」として抑圧され、「闇」として見えなくされました。そのことで、人々の成長が止まってしまったこともあったかのように思えます。今、資本主義の社会によっていわば人々の欲望がその名のもとに正当化され、経済論理であればなんでもして良いかのような風潮さえあります。

それはというと、欲望という段階において人々が学ぶべきレッスンなのです。

欲望が資本主義によって単純に全て正当化されるというのは、獣が欲望を学ぶという段階におけるレッスンです。チャクラで言えば一番下のムーラダーラの「生きる」力から、その一つ上の第2チャクラであるスワディスタナで感情や欲望を学びます。資本主義でなんでも良いと言っているのはこの段階におけるレッスンなのです。

やがて、その一つ上である第3チャクラ、マニプラに至ると「情」としての愛着とも言える個人的な愛に至ります。それは盲目的で利己的ではありますが、それでも、その一つ前の段階より愛を得ている状態な訳です。

資本主義社会とは、現在はスワディスタナ的に欲望が全て肯定された理屈で動いており、それが、もう1つ上の段階である、情によって動く資本主義社会へと変革していく必要があるのです。それは、モラルや責任を伴った資本主義であるとも言えます。人間性を学んだ時に、資本主義の有り様は変わるのです。

と言いますか、元々、日本社会はこの第3チャクラが優勢で、資本主義もそのように動いておりました。一方、昨今の欧米主義が入ってきたことにより第2チャクラ的に考えて欲望は何でも肯定するという考えが増えてきております。本来、そのように下がらず、上がるべきなのです。欧米の悪い低い考え方を学ぶことは、もしかしたら、日本社会はその辺りにまだ学び終えていないレッスンが残っていて、一時的に戻っていた、という見方もあります。

ですが、日本にせよ世界にせよ、下がるのではなく上がるべきなのです。情によって支えられた資本主義が世界中に広がる時、地球は天国に一歩近づくでしょう。

為政者や起業家がそれを学び終えて、そして、モラルに従った、人々に幸せをもたらすべきだと気がついた時、世の中は劇的に変わることでしょう。そのためには周囲からの働きかけも重要です。

過去、幾つものタイムラインで地球が破壊されて来ました。そのレッスンから学んだことは、為政者や起業家などを「悪」と決めつけて遠ざけた結果、そのような分離の世界は継続を許されなくなったということです。それは、ある意味、天から降りてきた存在たちが地上の欲望の世界を知らなかった、ということでもあります。天からの論理を地上の欲望だらけの人々に押し付けた結果、反感を買い、社会が混乱し、反乱が起き、世の中が乱れていったのです。地上で生きてきた多くの人にとっては人間の欲望は慣れっこですが、天から降りて来た存在は、そのような欲望や捻くれた感情を理解できないのです。このように、天から降りて来た者と、地上の欲望に塗れた人々との間で認識の乖離がある状態が長らく続いていました。ここにきて、これからは地上の人たちに政治を任せようという方針が100年ほど前からなされ、今、資本主義の名の下、欲望が正当化される社会が出来上がっているわけです。しかし、このままでは世界の存続は難しくなるのです。

求められているのは、そのような悪の懐へと飛び込み、内側から変えていく人材です。特定の権力構造の中枢などに深く入り込んで権力のある人たちに良い影響を与えられるようなライトワーカーの活動が求められています。それは多くの場合は転生を伴いますが、外側から働きかけることもあります。

そうして、欲望に満ちた人たちに情としての愛を教え、階段を一つ登らせるのです。それを導くのが、ライトワーカーの仕事です。しかし、今は、ライトワーカーは欲望に満ちた人を悪とみなし、悪を滅ぼせば善が残って世界は平和になると思い込んでいます。そこに、理解の乖離があるのです。人は滅ぼされるべき悪ではなく、成長することができる可能性を秘めています。欲望に満ちた人も愛に目覚めることができるのです。

そして、為政者や政治家が悪のように見えたとしても、彼らも変容できるのです。その変容を、ライトワーカーが起こすのです。そうでなければ、地球はまたしても滅亡してしまうことでしょう。ライトワーカーの役目は悪を滅ぼすことではなく、悪のように見える人を変容させて愛に目覚めさせることです。

そのような経過を経て、ようやく地球が統合に至るのです。そうして初めて、地球が存続できるのです。

  • ライトワーカーは(善悪のフレームに陥っているのであればそれから脱出し)統合した視点を持つことが期待されています。
  • 天から降りた者(天使など)は人間の欲望をある程度理解していくことが求められます。
  • 地上にいて地球に根ざしている者は、高次のワンネスや調和へと向かって、一歩一歩歩んでいく必要があります。

この辺りのお話を理解するのは、最初は難しいかもしれません。同じテーマを扱っていても、それぞれの立場から視点が異なるからです。(例:欲深さというテーマ。捻じれた関係性というテーマ)

天使へ送る言葉

天使は自分のことを思い出して覚醒したら転生しません。転生している天使が思い出したら、地球での転生は終わりに向かっていくでしょう。多くの天使たちは、これから思い出していく段階にあります。天使はどこか場に馴染みきれない感覚を持つことが多いことでしょう。いわゆる「浮いている」ように感じられるのも、そのためです。自身のルーツの自覚をし、帰ることを決断した後は転生が終わり、空で帰還を待つようになります。

この輪廻の輪から逃れることは仏教で解脱とかインドのヴェーダでモクシャと言われているような状態です。天から来たグループ(天使など)は「自分はもともとこの世界の存在ではない」と自覚した時点で、自然と帰還の方向へと向かうことになります。

あるいは、生きている時に見つけ出されたら、生きている時あるいは死後に語りかけられます。寄り添う存在がつくのです。そうして、最終的には死後に「救出」されます。同胞がついていてくれれば、もう、転生することなく、時が来たら帰還をすることになります。

地上に残されている天使は自分で気が付いて仲間の元に戻ることもあれば、実のところ大半は見つけ出されて救出されることの方が多いように思います。

私も時折、例えば、よくわからないスピリチュアルあるいはカルトのような団体で天使・女神が場違いにも働いていたりするのを見たことがあります。あるいは、普通の職業についていることもあります。そのような時、「あ、見つけた」となるのです。そうしたら、心の中で、こう囁きかけます。「あなた。こんなところで何をしているの。ここは貴方が本来いる場所ではありません。あなたは天使なのです。」と遠くから心に話しかけると、顔が「ハッ」とした表情になり、そのことを自覚し始めます。最初は理解できなくても、やがて、自覚を深めていくのです。一旦見つけたならば(見えない)同胞が寄り添ってくれるのであとは自身が関わる必要はあまりありません。

天使たちのほとんどは、死後、救出されます。心配はいらないのです。

天使たちの世界においては、遙か過去、二元性の価値観に基づく争いが起きました。そして今、意識が統合されワンネスに対する理解が天使の社会に広がってきている段階であると言えます。

そこには確かな救済があります。

ライトワーカーたち

状況もわからないまま、自称「世界を救った」と当面は思い込むかもしれません

様々な存在が動いています。そして、うまく状況を動かそうとしています。それらの施策がうまく行った結果、世界が救われる方向に動くとします。それらの大半は、ライトワーカー自身の成果ではないのです。

確かに、表面的にはライトワークをして世界を救うようにも見えたりします。ですから、それは一応は正しいと言えなくもないのです。

当初、ライトワーカーたちは状況を「光と闇の戦い」の文脈で理解する可能性が高いのです。

そして、事態を理解するのに相応の月日を要するかもしれません。それでも、一旦は「悪が滅んだ」と、ある意味、勘違いをした結果、ひとまずは「安心」するのです。それが意識の統合に向かうきっかけになるかもしれません。

一部は意識の統合に向かうことでワンネスに至り、一部は「善と悪」の戦いに勝利したことを喜ぶことで二元性の意識を保ち続けるでしょう。

このグループの多くは今後数世代の間に地球を離れることになるように思います。その一部は地球に残る可能性がありますが、人数が減ることと、悪との戦いという大義名分の大半を失うことで団体としての活動は下火になり、影響力は今よりも低下します。

一部は地球に善を教える救世主的な役割を担うでしょう。

そして、また一部はワンネスを知り、いわば救済されてこの世界を去るでしょう。

レムリア由来の人たち

高次との融合・統合を果たし、癒やされます。

そして、この地球を離れます。このグループもまた、救済されるのです。

地球に残る人たち

これからの地球の主役です。自由があり、責任も付き纏います。地球をどのような世界にするのかは、このグループにかかっています。

まず最初、この意識の段階に応じた統合が武力と経済力、政治力はたまた宗教的な力によってなされるでしょう。それが統合の第一歩です。

そうしたら、まず、「他者を征服する」という価値観を捨てるべきなのです。

そして、前と悪という価値観における二元性の光の側になるのです。それを教えてくれるライトワーカーが常にいるでしょう。

そこに救済があります。

ワンネスには程遠いですが、まず、意識の底上げを行い、「善」を学ぶのです。その二元性のある世界観をライトワーカー等から学ぶことで、善あるいは光の側に立って悪を滅ぼすという世界観に生きるようになるでしょう。

この段階では、ワンネスというお話は一応は聞いていても、実際に理解することはありません。ですが、それでも特に問題ないのです。この段階においては、二元性のある状態で、光と闇という側面のうち、光の側を学ぶことになります。

ライトワーカーはこれから二元性からワンネスへと進みますが、そのライトワーカーが長年持ち続けてきた光と闇という二元性の論理を、今、地球で欲望に満ちている人たちが学ぶのです。バトンタッチのように理屈と理解が受け渡され、かつてライトワーカーが考えていた光の二元性の理論を、地球の人たちが学んで身につけることになります。

何も無駄はない

地球で欲望に満ちた人は二元論の善悪を学び、善を地球に行き渡らせることを学びます。一方、ライトワーカーは善と悪の二元性を超えてワンネスを学びます。天使たちは自己の統合を果たして自身の世界へと帰ります。レムリアの人たちは統合を果たします。

様々なグループが交差し、お互い学び合うものがあり、救済され、それぞれの未来があるのです。

アセンションという名の元に、ワンネスとして統合されて二元性を解消した意識となり、多くの存在が地球を離れるのです。

そして、地球に残る者たちは二元性の光の側を体現するようになり、正義の名の下に、善を世界に行き渡らせるのです。

地球を観察にやってきている、その他大勢の宇宙人たちは実はこのアセンションの流れそれ自体には乗りません。いわば傍観者である訳です。ですが、このように地球でアセンションという名の元に意識が統合されてゆくのを見届け、状況をそれぞれが理解し、やがて地球を離れて自らの成長に活かしたり、知識として興味深い現象と理解を蓄えることになります。

地球でアセンションに至る存在、アセンションせずに地球に残る存在、そしてサポートをする宇宙存在や、観察に来ている存在。それら全てがこの地球のアセンションの数世代を自ら体験するか、あるいは、興味深く眺めているのです。