願えば叶う。 波動を整えれば現実が変わる。 宇宙に委ねれば、必要なものは自然にやってくる。
引き寄せの法則には、いろいろな言い方があります。
思考は現実化する。 波動が現実を作る。 自分にふさわしいものが引き寄せられる。 執着を手放せば、自然にやってくる。
一見すると、どれも高尚なことを言っているように見えます。
しかし、かなり乱暴に言えば、これは結局のところ、欲望を綺麗な言葉で言い換えているだけではないかと思います。
「お金が欲しい」 「成功したい」 「愛されたい」 「認められたい」 「もっと良い人生が欲しい」 「今より楽になりたい」 「特別な存在だと思われたい」 「誰かに選ばれたい」 「嫌な現実から抜け出したい」
そう言えば済む話です。
しかし、それをそのまま言うと、どこか俗っぽい。 エゴっぽい。 執着しているように見える。 精神的に未熟な感じがする。 いかにも欲にまみれているように聞こえる。
だから、「欲しい」とは言わない。
代わりに、こう言います。
「引き寄せる」 「宇宙にオーダーする」 「波動を合わせる」 「自然に現実化する」 「魂が望んでいる」 「本来の自分に戻る」 「豊かさを受け取る」 「必要なものが必要なタイミングで来る」
すると不思議なことに、ただの欲望が、急にスピリチュアルなものに見えてきます。
「お金が欲しい」と言えば欲望ですが、 「豊かさを受け取る」と言えば、何か良いことのように見える。
「成功したい」と言えば野心ですが、 「自分の可能性を開く」と言えば、成長のように見える。
「愛されたい」と言えば寂しさですが、 「魂のパートナーを引き寄せる」と言えば、運命のように見える。
「認められたい」と言えば承認欲求ですが、 「使命を生きる」と言えば、崇高なことのように見える。
しかし、そこで本当に何かが変わったのでしょうか。
変わったのは、欲望そのものではありません。 変わったのは、欲望につけられた名前です。
欲望がなくなったのではない。 欲望を、欲望と呼ばなくなっただけです。
ここに、引き寄せの法則の一つのからくりがあります。
欲望がある。 でも、欲望だとは認めたくない。 欲望だと言うと、自分の中の「欲望はよくないものだ」という価値観とぶつかる。 欲望だと言うと、他人から俗っぽく見られる。 欲望だと言うと、自分が低い存在のように思えてしまう。
だから、欲望ではなく、別の言葉に置き換える。
それが「引き寄せ」です。
「私は欲しがっているのではない」 「宇宙が与えてくれるだけだ」 「執着しているのではない」 「波動が合っているだけだ」 「手に入れようとしているのではない」 「受け取る準備をしているだけだ」 「努力して奪おうとしているのではない」 「自然に現実化する流れに乗っているだけだ」
そう言うことで、自分の欲望を、自分の欲望ではないものとして扱える。
これは、とても便利です。
なぜなら、欲望を持ちながら、欲望を持っていないふりができるからです。
欲しい。 でも、欲しがっているわけではない。
手に入れたい。 でも、執着しているわけではない。
成功したい。 でも、エゴではない。
愛されたい。 でも、依存ではない。
特別になりたい。 でも、魂の使命だから仕方ない。
こうして欲望は、スピリチュアルな言葉によって浄化されたように見える。
しかし、本当に浄化されたのでしょうか。
むしろ、欲望を直視できなくなっただけではないのでしょうか。
欲望があるなら、欲望があると言えばいいのです。
お金が欲しいなら、お金が欲しいでいい。 成功したいなら、成功したいでいい。 愛されたいなら、愛されたいでいい。 認められたいなら、認められたいでいい。 楽になりたいなら、楽になりたいでいい。 特別だと思われたいなら、特別だと思われたいでいい。
その方が、まだ正直です。
別に、欲望があること自体は悪ではありません。
問題は、欲望があることではありません。 欲望を欲望として認めないことです。
欲望を認めれば、それをどう扱うか考えることができます。
これは追求していい欲望なのか。 これは誰かを傷つける欲望なのか。 これは自分を壊す欲望なのか。 これは単なる寂しさなのか。 これはただの承認欲求なのか。 これは一時的な衝動なのか。 これは本当に必要なものなのか。
欲望を欲望として見れば、まだ判断できます。
しかし、それを「宇宙の導き」や「魂の願い」や「波動の一致」と呼んでしまうと、急に判断しにくくなります。
なぜなら、それはもう自分の欲望ではなく、何か大きなものの意思のように見えてしまうからです。
本当は自分が欲しがっているだけなのに、 「宇宙が与えようとしている」 と言ってしまう。
本当は自分が執着しているだけなのに、 「魂が求めている」 と言ってしまう。
本当は自分が不安なだけなのに、 「波動を整えれば解決する」 と言ってしまう。
本当は自分が認められたいだけなのに、 「使命を果たす時が来た」 と言ってしまう。
こうなると、欲望はかえって厄介になります。
なぜなら、欲望が欲望の姿をしていないからです。
欲望が欲望の姿をしていれば、まだわかりやすい。
「ああ、自分はお金が欲しいのだな」 「ああ、自分は愛されたいのだな」 「ああ、自分は認められたいのだな」 「ああ、自分は悔しいのだな」 「ああ、自分は勝ちたいのだな」
そう見れば、自分の中にあるものがわかります。
しかし、それを綺麗な言葉で包んでしまうと、自分でもわからなくなります。
「これは欲望ではない」 「これは導きだ」 「これは宇宙の流れだ」 「これは本来の自分に戻るプロセスだ」
そう言っているうちに、自分が何を欲しがっているのか、見えなくなる。
そして、見えなくなった欲望ほど、かえって強くなります。
なぜなら、それは反省されないからです。 検討されないからです。 疑われないからです。 自分のものとして引き受けられないからです。
欲望は、自分のものとして認められた時にはじめて扱えます。
しかし、引き寄せという言葉に変えた瞬間、それは自分のものではなくなる。
「自分が欲しがっている」のではなく、 「宇宙が与えてくれる」。
「自分が求めている」のではなく、 「波動が一致している」。
「自分が執着している」のではなく、 「現実化のプロセスが進んでいる」。
これでは、欲望を自分のものとして見つめることができません。
しかも、この構造は、見た目にはとても前向きです。
ポジティブに見える。 明るく見える。 希望があるように見える。 自分を責めていないように見える。 未来を信じているように見える。
だから、批判しにくい。
「夢を持つことの何が悪いのか」 「願うことの何が悪いのか」 「豊かさを受け取ることの何が悪いのか」 「自分の可能性を信じることの何が悪いのか」
もちろん、それ自体が悪いわけではありません。
夢を持つことは悪くない。 願うことも悪くない。 豊かになりたいと思うことも悪くない。 自分の可能性を信じることも悪くない。
問題はそこではありません。
問題は、欲望を欲望として認めずに、別の高尚な言葉で包んでしまうことです。
欲望があるなら、欲望があると認めればいい。
その上で、努力するなら努力すればいい。 行動するなら行動すればいい。 願うなら願えばいい。 祈るなら祈ればいい。 追求するなら追求すればいい。
しかし、それを「私は欲しがっていない」「宇宙がそうしているだけだ」と言い始めると、話がおかしくなります。
欲望を持つことよりも、欲望を持っていないふりをすることの方が、ずっと不誠実です。
欲望を持つ人は、ただ欲望を持っているだけです。
しかし、欲望を隠す人は、欲望を持ちながら、それを高尚なものに見せようとしています。
そこに、自己欺瞞が生まれます。
欲望がある。 しかし、欲望とは言いたくない。 だから、引き寄せと呼ぶ。 宇宙の流れと呼ぶ。 魂の願いと呼ぶ。 波動の一致と呼ぶ。
けれども、名前を変えたところで、欲望そのものが消えるわけではありません。
欲望という名前を消しても、欲望は消えないのです。
むしろ、名前を消された欲望は、見えにくくなります。
見えにくくなった欲望は、自分の中で長く生き延びます。
それは欲望ではない顔をして、ずっと残り続ける。
時には、使命の顔をする。 時には、愛の顔をする。 時には、豊かさの顔をする。 時には、成長の顔をする。 時には、宇宙の導きの顔をする。
しかし、その奥にあるものは、ただの欲望かもしれません。
欲望があることは、人間として自然なことです。
けれども、欲望を欲望として認めないことは、自分自身を見えなくすることです。
そして、自分自身を見えなくしたまま、いくら引き寄せても、そこにある欲望は終わりません。
欲望を欲望として見ること。 それを自分のものとして引き受けること。 その上で、追求するのか、手放すのか、距離を置くのかを考えること。
本当は、それだけでいいのだと思います。
欲望を宇宙の言葉で飾る必要はありません。 欲望を波動の言葉で包む必要もありません。 欲望を使命や魂の言葉にすり替える必要もありません。
欲望があるなら、欲望がある。 まずは、そこから始めればいいのです。
その方が、まだ正直です。
そして、正直に見られた欲望だけが、いつか終わることができるのだと思います。