他人の内面を簡単に判断する言葉
スピリチュアルな世界に関わっていると、ときどき強い違和感を覚えることがあります。
それは、他人の内面を簡単に判断してしまう人がいる、ということです。
「あの人はまだ癒えていない」
「あの人は波動が低い」
「あの人はエゴが強い」
「あの人はまだ目覚めていない」
「あの人はメンタルに問題がある」
こうした言葉は、一見すると、何か深い理解に基づいているように聞こえます。
けれども実際には、その人自身の主観や思い込みを、スピリチュアルな言葉で包んで相手に押しつけているだけ、ということも少なくないように思います。
もちろん、言っている本人に悪意があるとは限りません。
本人としては、本気でそう見えているのかもしれませんし、相手のためを思って言っているつもりなのかもしれません。
ただ、それでも結果として、相手を不当に決めつけたり、見当違いの評価を与えたりしてしまうことがあります。
本当に起きていたことは何だったのか
私自身も、そうしたものに対して、今になって思うところがあります。
怒り、というと言い過ぎかもしれません。
けれども、憤りや不満のようなものは、やはりあります。
なぜなら、今から振り返ると、当時こちらに起きていたことを、相手はほとんど理解していなかったのではないかと思うからです。
それにもかかわらず、あれこれと解釈されました。
メンタルの問題のように言われたり、スピリチュアルな成長段階の低さのように扱われたり、未熟さやエゴの問題として見られたりしました。
しかし、こちらからすれば、根本のところはそこではなかったのです。
当時の問題は、人格や精神性の問題というより、もっと単純に、エネルギーが十分に通っていなかったことに関わるものだったのだと思います。
スピリチュアルな言葉で言えば、チャクラがまだ十分に開いていなかった、という言い方もできるかもしれません。
チャクラとは、一般に身体に対応するエネルギーの中心のようなものとして語られます。
生命力、感情、意志、愛情、表現、直観、意識など、さまざまな働きと関係づけられるものです。
ただ、ここで細かいチャクラ論をしたいわけではありません。
大事なのは、そこに何か人格的な欠陥があったのではなく、単に内側のエネルギーの流れがまだ整っていなかった、ということです。
それは性格や精神性の問題ではなかった
あとになって振り返ると、当時の問題は、性格が悪いとか、精神性が低いとか、単純なメンタルの問題ではなかったのではないかと思うようになりました。
むしろ、内的な感覚の通り道がまだ開いていなかった。
感じる力、見通す力、表現する力、現実に接地する力などが、自然に流れる状態になっていなかった。
見えるべきものが見えず、理解できるはずのものが理解できず、自分の中でうまく統合できていなかった。
そう考えた方が、ずっと腑に落ちるのです。
チャクラが開いていない、あるいはエネルギーが通っていない状態では、本人にも自分の状態がうまく分からないことがあります。
感情が混乱したり、直観が働かなかったり、言葉にできなかったり、現実とのつながりが弱くなったりすることもあります。
それは、その人が未熟だから、低いから、劣っているから、という話ではありません。
単に、まだエネルギーが通っていない。
ただ、それだけのことだったのかもしれません。
外側からは分からないものを断定する危うさ
けれども、外側から見ている人には、そこまでは分かりません。
だからこそ、本来なら慎重であるべきなのだと思います。
人の内面を語ることは、とても難しいことです。
まして、スピリチュアルな領域は、目に見えにくいものを扱います。
だからこそ、言葉には慎重さが必要です。
ところが現実には、かなり簡単に人を判断してしまう人がいます。
「あなたはまだこの段階です」
「あなたはこの課題をクリアしていません」
「あなたの問題はこれです」
そうした言葉を、まるで上から診断するように言う人がいます。
そして、その人自身は、どこか満足しているように見えることもあります。
自分は分かっている側であり、相手はまだ分かっていない側である。
自分は導く側で、相手は導かれる側である。
そういう立場に立つことで、無意識に優越感を得ているように見えることもあります。
もちろん、すべてのスピリチュアルな先生や講師がそうだと言いたいわけではありません。
本当に深く学び、謙虚に向き合っている人もいると思います。
人の成長を助けるために、誠実に活動している人もいるでしょう。
ただ一方で、十分に理解していないまま、スピリチュアルな言葉を使って他人を判断してしまう人もいます。
そして、その判断は、ときに相手を傷つけます。
スピリチュアルな言葉が人を縛るとき
「あなたの問題はメンタルです」
「あなたはまだ低い段階にいます」
「あなたは執着しています」
「あなたはエゴを手放せていません」
そう言われた側は、自分に何か根本的な欠陥があるように感じてしまうことがあります。
実際には、単にエネルギーがまだ通っていなかっただけかもしれません。
チャクラがまだ開いていなかっただけかもしれません。
それを人格や精神性の問題にされてしまう。
これは、かなり乱暴なことだと思います。
スピリチュアルな言葉は、本来、人を自由にしたり、自分自身を深く理解したりするためにあるはずです。
ところが、それが人を縛る言葉になってしまうことがあります。
「あなたはまだ分かっていない」
「あなたはまだ低い」
「あなたはまだ癒えていない」
こうした言葉は、使い方によっては、相手を助けるどころか、相手を小さくしてしまいます。
本当に深い理解があるなら、簡単に人を断定しないのではないかと思います。
なぜなら、人の内側で何が起きているかは、外からは完全には分からないからです。
その人が何を通過しているのか。
何が開こうとしているのか。
何がまだ流れていないのか。
それは、本人にもすぐには分からないことがあります。
まして他人が、それを一言で決めつけるのは危ういことです。
必要なのは判断ではなく、丁寧に見ること
スピリチュアルな世界で本当に必要なのは、上から判断することではなく、もっと丁寧に見ることなのだと思います。
相手を分類することではなく、相手の中で何が起きているのかを、決めつけずに見守ること。
自分の解釈を押しつけることではなく、相手自身の理解が深まる余地を残すこと。
「あなたはこうだ」と断定するのではなく、「もしかすると、こういう見方もあるかもしれない」と差し出すこと。
それくらいの慎重さがあって、初めてスピリチュアルな言葉は人を助けるものになるのだと思います。
私自身、過去に受けた判断や言葉に対して、今でも違和感はあります。
よくもまあ、あれほど簡単に人のことを分かったように言えたものだ、と思う気持ちもあります。
ただ、それを単に怒りとして終わらせたいわけではありません。
むしろ、そこから一つ学ぶことがあると思っています。
それは、人を簡単に判断しないということです。
見えているつもりになる危険
たとえ自分に何かが見えているように感じても、それが本当に正しいとは限りません。
自分の経験や知識で相手を見ているだけかもしれません。
自分の理解の枠に、相手を無理に押し込めているだけかもしれません。
スピリチュアルな感覚が少し開いたからといって、すぐに他人を判断できるわけではありません。
むしろ、少し見えるようになった時ほど、慎重であるべきなのだと思います。
見えるようになったつもりで、実は自分の思い込みを見ているだけ、ということもあるからです。
そう考えると、スピリチュアルな道で大切なのは、能力や知識だけではなく、謙虚さなのだと思います。
人のことを語る前に、自分の見方は本当に正しいのか。
相手を判断する前に、自分は何を投影しているのか。
助言しているつもりで、相手を下に見ていないか。
スピリチュアルな言葉を使って、実は自分の優越感を満たしていないか。
そういう問いを持てるかどうかが、本当はとても重要なのだと思います。
要は、エネルギーの問題だった
いろいろな言い方はできます。
メンタルの問題。
エゴの問題。
癒しの問題。
成長段階の問題。
波動の問題。
けれども、私自身の実感としては、最終的には、もっと単純なところに行き着きます。
要は、エネルギーの問題だったのです。
エネルギーが通っていなかった。
内側の流れがまだ開いていなかった。
だから、見えなかった。
だから、分からなかった。
だから、言葉にならなかった。
だから、うまく統合できなかった。
それを、外側から見た人が、メンタルや人格や精神性の問題として解釈してしまった。
そこに大きなずれがあったのだと思います。
エネルギーが通れば、自然に分かることがあります。
エネルギーが通れば、自然に動き出すものがあります。
エネルギーが通れば、それまで詰まっていた感情や理解や表現が、少しずつ流れ始めます。
それは、誰かに「あなたは未熟だ」と言われて解決するものではありません。
「エゴを手放しなさい」と言われて、無理に解決できるものでもありません。
「波動が低い」と評価されて、良くなるものでもありません。
本当に必要なのは、内側のエネルギーが通ることです。
チャクラという言葉を使うなら、チャクラが自然に開いていくことです。
そこが開けば、それまで問題に見えていたものの多くは、自然に解けていきます。
理解できなかったことが理解できるようになる。
言葉にできなかったものが言葉になる。
混乱していた感情が流れ始める。
見えなかったものが見えるようになる。
自分の内側で分断されていたものが、少しずつつながっていく。
それは、外側からの評価や診断によって起きるものではありません。
内側のエネルギーが動くことで起きるものです。
だから、人を見て「この人は低い」「この人は分かっていない」と判断するよりも、ただエネルギーがまだ通っていないだけかもしれない、と見る方が、本質に近いのではないでしょうか。
その人の人格を裁く必要はありません。
精神性の高さ低さを測る必要もありません。
メンタルの問題として決めつける必要もありません。
エネルギーが通れば変わる。
チャクラが開けば自然に分かる。
結局のところ、そこに収束する話なのだと思います。
スピリチュアルな理解が本当に役に立つとすれば、それは人を格付けするためではありません。
人の内側にあるエネルギーの流れを妨げず、本来の状態へ戻っていくために使われるべきものです。
人を裁くためではなく、エネルギーの通り道を開くために。
人を低く見るためではなく、自然に解けていくものを、余計な判断でこじらせないために。
スピリチュアルな言葉が本当に意味を持つのは、そこに戻ったときなのだと思います。