執着を「維持」「正義」と置き換えて正当化しているカルト

2026-07-26 記
トピック: スピリチュアル: 回想録

形あるものは全て滅びる。何一つ同じものはない。仏教の世界観をわざわざ持ち出さずとも、そのようなことは当たり前のことであります。

同じのように見えるものであっても変化があり、いわゆる「創造」「維持」「破壊」のサイクルが繰り返されます。ここで仏教では「維持」の概念は薄く、代わりに「無常」を解きます。

同じ状態であることはないのに同じ状態であることを求めると苦しい、よってそれは執着である、と説くわけです。

一方、カルトにおいては同じような言葉を使っていても、全く違う意味を帯びることがあります。カルトにおいては、特にゾロアスターなど古典的な善悪の観念がある宗教の流れを組むものにおいては、維持を正義、破壊を悪とみなすことがあります。そして、その、維持を正義とみなすのは、仏教においては執着とみなすような感情を、様々な理屈によって自己肯定している場合があるのです。

本当はというと執着している、しかしそれをエゴが認めない、様々な理屈によって自己正当化する。離したくない何かがあり、変わってほしくない何かがある。それは実のところ変化するのが自然であり「ありのまま」であるのにも関わらず、直視せず、「正義」とか「維持」という理屈に逃げてしまっている。変わらずいて欲しいと思う気持ち、固定化しようとする気持ち、それこそが苦しみの源泉であり、執着であるが、それを「正義」と呼ぶことで自己正当化する。それは「ありのまま」から離れている状態とも言えます。

正義であるというのは、「維持」が善であり、「破壊」が悪である、という根本的な理屈に基づきます。維持が善であるのだから維持する行為は正義となります。

それが実は執着でしかないのに、「維持は善」という理屈を持ち出し、「正義」を標榜するのです。

これは別に全てのカルトがそうだというわけではありません。そのようなカルトがいる、ということです。

ここにおいて、カルトの定義からすると「維持が善」「破壊が悪」であるということです。

別の見方

私はそういう見方はしません。「結果」として良い状態になるのだとしたら、その課程としての行為や意図は全て「善」になります。一方、「結果」としてあまり良くない状態になるのだとしたら、その課程の意図がどれほど崇高なものであったとしても、必ずしも「善」とはみなされません。

要は、元の状態が維持されるかどうかが善悪ではないのです。

変化はいつでも起こります。様々な変化の結果として良い状態になれば、その課程は正当化されるのです。それが「善」ということです。

逆もまたしかりです。

ですから、過去のことを根掘り葉掘り確認して「どっちが先に手を出したか、先に手を出した方が悪」みたいなカルトの主張には同意しません。

そのような、「どっちが先にやったか問題」は本質ではないのです。結果として、良い状態になるのか、その結果が問われるのであり、課程は二の次なのです。

カルトの論理では世界は平和にならない

「維持が善」という論理では、世界は平和になりません。それは変化を否定しているからです。

お互いに維持を主張したなら、延々と自己の正義を標榜した争いが続きます。変化を拒んでいるからです。

変化を前提とした平和に導くこと

過去が全部どうでも良いとまでは言いませんが、過去に区切りをつけることです。そして変化を受け入れること。

このあたりの細かな話が、地球の平和に意外と効いてくるお話になるように思います。

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