すべてはブラフマンである、という見方


本記事の一部はAIを活用して作成しています。内容は編集者が確認・修正を行っています。

形の違いの奥にある実質を見る

「すべてはブラフマンである」という言葉は、何をしても同じだという倫理停止の宣言ではありません。ギータプレス版は、海に浮かぶ氷の塊をたとえに使います。氷は形を持っていますが、内も外も水であり、その実質は水です。

同じように、人や物が異なる形に見えても、その内外には神だけが遍在し、すべては神の姿として存在すると説明されます。変化する形だけでなく、その基盤を見るための実践です。

「すべては私自身」という表現も、個人的な自我が世界を所有するという意味ではありません。個人的な自分を超えた自己として、あらゆる存在を見る方向を示しています。


ギータプレス版からの日本語訳――すべてはブラフマンである

先に示した原則は、次のように詳しく説明できる。

第一に、この動くものと動かないものからなる世界に現れるすべてはブラフマンであり、真理・意識・至福そのものである神と異なるものは何もない。私たちが行う行為、その手段と材料、そして行為者自身、そのすべてがブラフマンである(第4章24節)。

海に浮かぶ氷の塊が、その内側も外側もただ水によって満たされ、氷そのものも水にほかならないように、動くものと動かないもののすべては、内も外も神だけによって満たされている。あらゆる存在の姿として存在するのは、神御自身である(第13章15節)。

第二に、現象として現れるすべてを、幻想であり、一時的で滅びゆくものとして退け、そのすべての基盤である神だけが存在し、神以外には何もないと悟る。心と知性さえブラフマンへ溶け込ませ、神との同一性に安住することで、求道者は直接の実現を通じて神と一つになるべきである(第5章17節)。

第三に、動くものと動かないものからなる全世界はブラフマンであり、そのブラフマンは私自身である。それゆえ、このすべては私自身である。この思索に従い、求道者はあらゆる存在を自らの自己として見るべきである。この実践を続ける求道者の目には、ブラフマン以外の何ものも残らない。そして知識と至福そのものである自己の存在を喜ぶ(第5章24節、第6章27節、第18章54節)。

第四に、三つのグナから生じる幻想的な現象世界と、そこから生まれるすべての活動を、自己とは別の、滅びゆく一時的なものと見て、完全に否定する。自己だけを唯一の実在として悟るべきである(第13章2、34節)。


あわせて読む――2021年版の記事

この内容を紹介した2021年の記事も、当時の記録としてそのまま掲載します。


全てのものはブラフマンであるという原則

ギーター解説書の続きを読んでいきます。>

原則は、次のように詳しく説明することができます。
(1) この世界に現れる生物や無生物のもの全てはブラフマンです。それは、 確実なる真理、意識、至福である神と何ら変わりはありません。 私たちが実行する行動が何であれ、その行動の手段と道具、そして実行者自身など、そのすべてがブラフマンです(IV.24)。 海に浮かぶ氷の塊が内側も外側のどちらもそれぞれ水と水だけで浸透しており、塊自体が水に他ならないのと同じように、すべての生物と無生物の内側と外側の両方がそれぞれ神と神だけであり、神によって存在し、神のみが存在し、神がそれらすべての存在の形で存在するのです(XIII.15)。

(2) すべての驚異的な存在を幻想的で瞬間的でやがては消え去るものとして否定し、それらすべての基盤、つまり神だけが存在し、神以外には何も存在しないことを認識し、精神と知性さえもブラフマンに統合されるべきです。 したがって、神との同一性を確立するために、求道者(サダカ)は直接の実現(気付き)を通して神と一体になるべきです(V.17)。

(3) 生物と無生物の創造物全体がブラフマンであり、そのブラフマンは私自身です。 したがって、すべては私自身です。 この考え方に従って、求道者(サーダカ)はすべての生物と無生物を自分自身と見なす必要があります。 上記の実践を続ける求道者(サーダカ)の目には、ブラフマン以外に何も残っていません。 ブラフマンは彼の内にある確実なる知識と至福と同じものであることを識別することで彼は喜びに満ち溢れます。(V.24; VI.27; XVIII.54)。

(4) 全ての現象的な存在およびそれから生じる活動の全ては永遠ではなく、滅するものであり変わりゆく幻想であり、また、3つのグナの産物であると見なし、本当の「私」とは離れたものであると見なし、それら全てを完全に否定しつつ、「私(Self=ブラフマン)」のみが本当に存在している唯一のものであると識別すべきです (XIII.2、34)。




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