行為者意識を見抜くか、行為を神へ向けるか
知識の道では、世界や行為をそのまま絶対的なものとは見ません。心、感覚、身体を通じて起こる行為をグナの働きとして捉え、「自分がすべてを行っている」という意識を見直します。これは責任から逃れることではなく、自己と行為の関係を根本から見る道です。
ヨガの道では、すべてを神のものと見て、成功と失敗のどちらにも偏らず、結果への執着を離れて行為します。行為をやめるのではなく、行為の向きを神へ変えていきます。
知識の道は行為者意識を見抜き、ヨガの道は行為を神へ向ける。この対比が、これから先を読むための基本になります。
ギータプレス版からの日本語訳――二つの道の本質
知識の道では、すべての対象を蜃気楼の水や夢の世界のように幻想的で実在しないものと見る。心、感覚、身体から生じるすべての行為は、マーヤーから生まれたグナが、感覚などの姿をとって、感覚対象というグナの中で動いているにすぎない。
これを悟った知識の道の実践者は、それらの行為を自分が行ったとは考えなくなる(第5章8〜9節)。真理・意識・至福そのものであり、あらゆるところに遍在する至高の霊、すなわち神との同一性に絶えず安住し、神以外の何ものの存在も認めなくなる(第13章30節)。これが知識の道、サーンキヤ・ニシュターであり、ジュニャーナ・ヨーガ、またはカルマ・サンニャーサとも呼ばれる。
一方、ヨガの道の実践者は、すべてを神に属するものと見る。成功と失敗において平静を保ち、執着と結果への欲望を捨て、神の命に従ってすべての行為を行う(第2章47〜51節)。あるいは、思い、言葉、行為のすべてを神に委ね、信仰と敬意をもって、御名、美徳、栄光とともに神の御姿を絶えず瞑想する(第6章47節)。これがヨガの道である。
この道は、平静のヨガであるサマトヴァ・ヨーガまたはブッディ・ヨーガ、神のために働くタダルタ・カルマまたはマダルタ・カルマ、サットヴァ的な放棄であるサーットヴィカ・ティヤーガなど、さまざまな名でも呼ばれる。
ヨガの道では、献身が一般的な形で、あるいは中心原理として働く。ギーターの説くヨガの道は、献身から切り離されていない。献身を明記しない節にも、少なくとも主の命への服従が含まれており、それも神の実現へ導く。この意味で、そこにも献身は間接的に存在する。
あわせて読む――2021年版の記事
この内容を紹介した2021年の記事も、当時の記録としてそのまま掲載します。
2つの道の本質的な特徴
<久々ぶりに、ギーター解説書の続きを読んでいきます。>
(1)すべての物体は、蜃気楼で見られる水、あるいは夢の世界のように幻想的または非現実的です。心、感覚、および体から生じるすべての行動は、マーヤー(自然)から生まれたグナの動きに他なりません。感覚などの形で、さまざまな感覚の対象の形でグナの中に生じます。 これを理解することで、知識の道の信者はもはやそれらの行動の実行権を主張しません(V.8-9)。 そして、真実であり意識と至福でありすべてに浸透している至高の精神または神とのアイデンティティを常に確立したままで、彼は神以外のものの存在を認識することをやめます(XIII.30)。 これが知識の道、またはサーンキャニシュター(Sānkhyanişthā)と呼ばれるものです。 ニャーナヨーガ(Jñānayoga)またはカルマサンキャーサ(Karmasannyāsa)とも呼ばれます。
(2)一方、ヨガの道の信者は、すべてを神のものと見なします。 彼は成功と失敗の準備ができており、愛着と実の欲望を放棄し、神の願いに従ってすべての行動を実行します(II.47-51)。 または、思考、言葉、行動において神に身を任せ、信仰と敬意を持って、彼の名前、美徳、栄光とともに、神の形について絶えず瞑想を実践します(VI.47)。 これがヨガの道を構成します。 サマトヴァヨガ(Samatvayoga)やブッディヨガ(Buddhiyoga)など、他のさまざまな名前で指定されているのはこの道です。
つまり、平静のヨガ「タダルサカルマ(Tadartha Karma)」または「マダルサカルマ(Madartha Karma)」、すなわち神のために働くこと。Sāttvika Tyāga(Sāttvikaの種類の放棄)。
ヨガの道では、バクティまたは献身は、一般的な方法、あるいは、規則の原則として役割を果たします。 ギーターで発表されたヨガの道は常に献身から離れていません。 献身の神(II.47-51)について明確に言及していない節でさえ、いかなる場合でも主の戒めに従うことを含んでいます。 そしてそれもまた神の実現を助長します。 この意味で、バクティは間接的にそこも考慮しています。