無抵抗で殺されるほうがよい、と考えるまで
アルジュナの論理は極限まで進みます。武器を持たず、抵抗もしない自分を相手が殺すなら、そのほうがよいと言うのです。彼の中では、それが一族殺しの罪を避け、親族や友人の命を救い、一族を破滅から守る道に見えています。
ただし、これは無抵抗の死や自己犠牲を誰にでも勧める普遍的な教えではありません。追い詰められたアルジュナが、戦場で組み立てた論理の記録です。慈悲から出た考えであると同時に、戦士としての役割も自分の命も手放そうとするほど深い混乱でもあります。第2章でクリシュナが語り始めるのは、この混乱をほどくためです。
ギータプレス版からの日本語訳――第1章第46節「抵抗せずに殺される方がよい」
yadi mām apratīkāram aśastraṁ śastrapāṇayaḥ |
dhārtarāṣṭrā raṇe hanyus tan me kṣemataraṁ bhavet || 46 ||
語句
yadi は「もし」。
mām は「私を」。
apratīkāram は「抵抗しない者として」。
aśastram は「武器を持たない、防備のない」。
śastrapāṇayaḥ は「武器を手にした者たち」。
dhārtarāṣṭrāḥ は「ドリタラーシュトラの子ら」。
raṇe は「戦場で」。
hanyuḥ は「殺すならば」。
tan me kṣemataraṁ bhavet は「それは私にとって、よりよいことであろう」です。
訳
「もし、武器を手にしたドリタラーシュトラの子らが、 武器を持たず、抵抗もしない私を戦場で殺すならば、 その方が私にとって、よりよいことでしょう。」
注釈訳
ここでアルジュナは次のように言っている。
戦争が始まった後であっても、 自分が武器を捨て、 敵に対して何の抵抗もしないならば、 おそらく敵もまた戦いをやめるだろう。
その結果、 すべての親族と友人の命が救われるだろう。
しかし、 もし彼らがその道を取らず、 アルジュナが武器を持たず、 戦う意志もないことを見て、 それでも彼を攻撃して殺すならば、 そのような死は彼にとって祝福された死となる。
なぜなら、 その場合、第一に、 彼は一族を殺戮するという大きな罪に関わらずに済む。
第二に、 すべての親族と友人の命が救われる。
第三に、 一族を破滅から救うという大きな徳によって、 彼が至高の境地へ到達することが容易になる。
アルジュナの心の中では、 このように何の抵抗も示さずに死ぬことは、 一族の保護と自分自身の最高の善の両方につながる、 という考えが明確であった。
だから彼は、 そのような死を自分にとって「より望ましい」と述べたのである。