相手が見えていなくても、こちらまで目を閉じる必要はない
アルジュナは、ドゥルヨーダナたちが貪りによって心を曇らされ、一族を滅ぼす悪も、友に背く罪も見えなくなっていると考えます。善悪を識別する力を失い、自分たちの行為がどんな災いを生むのか理解できていないというのです。
しかし、アルジュナとその兄弟たちは違います。一族の滅亡がもたらす悪をはっきり見ている。相手が理解していないからといって、自分たちまで同じ罪へ進む理由にはなりません。むしろ見えている側には、そこから退く責任があるのではないか。アルジュナの議論は、相手の無知ではなく、自分たち自身の選択へ焦点を移します。
ギータプレス版からの日本語訳――第1章第38〜39節「貪りに目を曇らされていないなら」
yadyapyete na paśyanti lobhopahatacetasaḥ |
kulakṣayakṛtaṁ doṣaṁ mitradrohe ca pātakam || 38 ||
kathaṁ na jñeyamasmābhiḥ pāpādasmānnivartitum |
kulakṣayakṛtaṁ doṣaṁ prapaśyadbhirjanārdana || 39 ||
語句
yadi api は「たとえ」。
ete は「これらの人々」。
na paśyanti は「見ていない」「理解していない」。
lobhopahatacetasaḥ は、
「貪りによって心を損なわれた者たち」。
kulakṣayakṛtam doṣam は、
「一族の滅亡から生じる悪」。
mitradrohe pātakam は、
「友に背くことに伴う罪」。
katham na jñeyam asmābhiḥ は、
「どうして私たちが考えないでよいだろうか」。
pāpāt asmāt nivartitum は、
「この罪から退くことを」。
prapaśyadbhiḥ は「はっきり見ている者たちによって」。
janārdana はクリシュナへの呼びかけです。
訳
「たとえ彼らが、 貪りによって心を曇らされ、 一族を滅ぼすことの悪も、 友に背くことの罪も見ていないとしても、 ジャナールダナよ、 一族の滅亡から生じる罪をはっきり見ている私たちは、 どうしてこの罪から退くことを考えなくてよいでしょうか。」
注釈訳
ここでアルジュナが言おうとしているのは、 次のことである。
ドゥルヨーダナとその仲間たちの行為は、 疑いなく非常に非難されるべきものである。
しかし彼らにとって、 それは不自然なことではなかった。
なぜなら、 彼らの度を越した貪りが、 善悪を識別する力を完全に破壊していたからである。
そのため彼らは、 一族のすべての成員が滅びることから必然的に生じる大きな悪と災いを見ることができなかった。
また、 親族や友人を敵と見なし、 互いに殺し合うために戦うことが、 どれほど恐ろしい罪であるかも理解できなかった。
しかしアルジュナとその兄弟たちは、 貪りによって盲目になっていたわけではなかった。
彼らは、 家族と一族の滅亡からどのような悪と災いが生じるかを、 はっきり見ることができた。
それならば、 知っていながら、 目を大きく開いたまま、 どうしてそのような途方もない罪を犯すべきだろうか。
彼らはその行為の悪しき性質を考え、 戦いから退くべきである。