誰のための王国だったのか
アルジュナが王国や快楽を望んだのは、自分一人のためではありませんでした。兄弟や友人、親族とともに喜ぶためです。ところが、その大切な人々自身が、命と財産を賭けて戦場に立っています。
師、おじ、息子や甥、祖父にあたる人々、義父や妻の兄弟。その人々を失って得た王国に、いったいどんな意味があるのでしょう。目的のために戦いを選んだはずなのに、その手段が目的そのものを壊してしまう。愛する人々のいない王国は、アルジュナにとって喜びではなく、苦しみの源にしかなりません。
ギータプレス版からの日本語訳――第1章第33〜34節「王国を望んだ相手が戦場に立っている」
yeṣāmarthe kāṅkṣitaṁ no rājyaṁ bhogāḥ sukhāni ca |
ta ime'vasthitā yuddhe prāṇāṁstyaktvā dhanāni ca || 33 ||
ācāryāḥ pitaraḥ putrāstathaiva ca pitāmahāḥ |
mātulāḥ śvaśurāḥ pautrāḥ śyālāḥ sambandhinastathā || 34 ||
語句
yeṣām arthe は「その人々のために」。
kāṅkṣitam naḥ は「私たちが望んできた」。
rājyam は「王国」。
bhogāḥ は「享楽」「富による楽しみ」。
sukhāni は「快楽」。
te ime は「まさにその人々が」。
avasthitāḥ yuddhe は「戦場に布陣している」。
prāṇān tyaktvā dhanāni ca は、
「命と財産を賭けて」。
ācāryāḥ は「師たち」。
pitaraḥ は「おじたち」。
putrāḥ は「息子たち、また甥たち」。
pitāmahāḥ は「祖父にあたる者たち、また曾祖父にあたる者たち」。
mātulāḥ は「母方のおじたち」。
śvaśurāḥ は「義父たち」。
pautrāḥ は「孫にあたる者たち、大甥たち」。
śyālāḥ は「妻の兄弟たち」。
sambandhinaḥ は「その他の親族たち」です。
訳
「私たちが王国、 享楽、 快楽を望んできたのは、 まさにその人々のためでした。
ところがその人々が、 命と財産を賭けて、 ここ戦場に布陣しています。
師たち、 おじたち、 息子や甥たち、 祖父や曾祖父にあたる者たち、 母方のおじたち、 義父たち、 大甥たち、 妻の兄弟たち、 その他の親族たちが、 ここにいるのです。」
注釈訳
ここでアルジュナは、 王国を支配することも、 その権力に伴って得られるすべての快楽や享楽も、 自分自身のためにはまったく必要ではなかったと語っている。
彼はよく知っていた。
そのような快楽は永続するものではなく、 所有物そのものも永遠ではない。
もし彼が王国を望んでいたとすれば、 それは兄弟、 友人、 親族たちのためであった。
しかし今、 彼はその人々すべてが、 命を捨てる覚悟で戦場に集まっているのを見ている。
もし彼らが互いに殺し合って地上から去ってしまうなら、 王国も、 豪奢な暮らしも、 快楽も、 何の役に立つだろうか。
したがって、 どのような観点から見ても、 戦争に訴えることは望ましくないのである。
師、 祖父にあたる者、 おじたちなどの関係は、 すでに前の節で言及されていた。
ここではさらに、 ドリシュタデュムナ、 シカンディン、 スラタなどの「妻の兄弟たち」、 またジャヤドラタなどの「その他の親族」に触れている。
アルジュナが言いたかったのは、 この世で人が富や享楽の対象を得るために努力するのは、 愛情の中心である親族たちのためだということである。
その親族たちがすべて戦いで殺されてしまうなら、 王位やその他の享楽の対象が、 いったい何の役に立つだろうか。
そのような王国、 そのような快楽は、 極度の悲惨と苦悩の源にしかならないのである。