義務への怠惰と所有意識を手放す


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義務を捨てず、怠惰と所有感を手放す

放棄の第五段階では、義務そのものではなく、義務を怠ることと、結果を求める欲望を手放します。礼拝や奉仕だけでなく、仕事や食事のような日々の営みも、ここでは果たすべき務めに含まれます。

第六段階で問われるのは、「これは私のものだ」という感覚と執着です。財産だけでなく、身近な人、評価、行為、さらには身体に対しても、所有する意識を離していきます。

これは家族や生活を粗末にすることではありません。義務は無私の仕方で果たしながら、そこに自分の満足や所有を結びつけない。行為を続けながら執着を手放すところに、カルマ・ヨーガとしての放棄があります。


ギータプレス版からの日本語訳――放棄の第五・第六段階

第五の段階は、自分のすべての義務について、怠惰と果報への欲望を完全に放棄することです。

神への献身、神々への礼拝、両親や年長者への奉仕、供犠、布施、苦行を行うこと。さらに、自分の社会的な立場や人生の段階にふさわしく生計を立てること、食べたり飲んだりするような身体の機能を果たすこと。これらはすべて、その人の義務に含まれます。

これらの義務について、怠惰を捨て、あらゆる形の欲望を手放すこと。これが、放棄の第五段階です。

第六の段階は、すべての世俗的な対象と活動について、「自分のもの」という感覚と執着を完全に放棄することです。

富、家、衣服などの世俗的な対象。妻、子ども、友人など、身近で大切な人々。この世と次の世における名誉、名声、評価など、あらゆる享楽。これらは一時的で、滅びゆくものであり、永続しないものとして見なされるべきです。

そのため、それらについて「これは私のものだ」という感覚や執着を持つべきではありません。

同じように、神だけに向けられた純粋で混じりけのない愛を育てたなら、心と言葉と身体を通して行われる行為についても、さらには身体そのものについても、「自分のもの」という感覚と執着を持つことをやめるべきです。

これが、放棄の第六段階です。

この第六段階に達した人々は、この世のすべての対象に対して離欲を育てます。そして、至高の愛そのものである神だけが、彼らの執着の対象となります。

そのため、神の徳、栄光、神秘を明らかにする汚れなき神聖な愛の物語を聞き、語り、心の中で思いめぐらすこと。絶えず礼拝と瞑想を行うこと。人里離れた場所に住みながら、聖典の隠れた意味を深く考えること。これらだけが、彼らの好む営みになります。

彼らは、感覚的な人々のただ中で暮らすことを好みません。また、陽気な遊び、贅沢、不注意、他人を悪く言うこと、感覚的な楽しみ、無駄話などに、貴重な時間を一瞬たりとも費やしたいとは思いません。

そして彼らは、神のためだけに、無私の仕方ですべての義務を果たし、常に神の名と姿に心を住まわせます。

以上の六つの放棄の段階は、カルマヨーガの実践を構成します。この修行を続けることによって、求道者は神の恩寵により神についての真理を悟り、不滅の最高の境地に到達します。