61.社会問題が個人の「波動」の問題へ変換される
ここにはもう一つ重要な変化がある。たとえば、低賃金、長時間労働、不安定雇用、住宅費の高騰などは社会的問題である。しかしスピリチュアル化すると、「あなたが豊かさを受け取れていない」という個人の問題に変換される。すると、社会制度を変える、のではなく、自分の潜在意識を変えることになる。
ある意味では、これは本来のカウンターカルチャーが持っていた社会批判性を弱めている。1960年代の対抗文化は、「社会そのものがおかしい」と言った。現代の自己啓発型スピリチュアルでは、「あなたの波動を変えればよい」となることがある。これはかなり大きな変化である。
この章で生じうる解釈の乖離
論理的に確認できること 感情が先行した解釈 社会構造による問題と、個人の内面状態は異なる説明水準にある 社会問題も個人の波動が原因であり、内面だけで解決できると考える
62.反資本主義的な思想が、非常に資本主義的な商品になる
そして最終的な逆説がここにある。出発点には、反消費主義、反競争、反労働、自然回帰などがあった。ところが最終的には、数十万円のセミナー、高額コンサルティング、オンラインサロン、認定講師資格、リトリート、スピリチュアルグッズとして販売されることがある。
つまり、資本主義への違和感から生まれた思想が、資本主義市場の非常に効率的な商品になる。しかも商品は物ではなく、「豊かになれる可能性」である。
- 在庫もほとんど必要ない。
- 成功を保証する必要もない。
- 結果が出なくても、「まだブロックがある」と説明できる。
ビジネスモデルとして見ると、かなり興味深い構造である。
この章で生じうる解釈の乖離
論理的に確認できること 感情が先行した解釈 反資本主義的な商品を購入することと、資本主義の構造から自由になることは別である 反資本主義的な教えを買えば、資本主義の問題から自由になれると考える
63.最も皮肉な循環
極端に単純化すると、次のようになる。
参加者が「働かずに豊かになりたい」と望む → 講師が「働かなくても豊かになれます」と語る → 参加者が高額な受講料を支払う → 講師が豊かになる → 講師の豊かさが「この思想は正しい」という広告になる → さらに参加者が集まる
という循環が成立し得る。この場合、「働かなくても豊かになれる」ことを最も確実に実現しているように見える人物が、実際には、「働かなくても豊かになれる」という思想を熱心に販売することで働いている人物という逆説が生じる。
この章で生じうる解釈の乖離
論理的に確認できること 感情が先行した解釈 参加者の支払いが発信者の豊かさを作る 講師の豊かさを、働かない成功法が正しい証拠と考える
64.もちろん、すべてのスピリチュアルがこうなのではない
ここは強調しておきたい。スピリチュアルと呼ばれる文化は非常に広く、瞑想、宗教的実践、哲学、死生観、心理的自己探究、自然との関係、共同体、神秘体験など、多様なものを含んでいる。これらを一括して、「スピリチュアルは詐欺だ」と結論づけることには意味がない。
同じように、自然農、環境運動、NPO・NGO、オーガニック、ヘンプ文化なども、それぞれ個別に評価する必要がある。ここで扱っているのは、その巨大な文化圏の中から生まれた、「何もしなくても自分には物質的豊かさが与えられる」という特定の思想である。
65.むしろ面白いのは、どうしてここまで変形できたのか
思想史として興味深いのは、誰か一人が突然、「働かなくても宇宙がお金をくれる」という思想を発明したわけではなさそうなことである。100年以上の時間をかけ、さまざまな思想が少しずつ意味を変えながら接続された。
- ニューソートから、「意識には力がある」
- ニューエイジから、「宇宙と調和する」
- 引き寄せから、「受け取る」
- 自然思想から、「任せる」
- 老荘から、「無為」
- ノンデュアリティから、「何もする必要はない」
- 自己肯定から、「そのままで価値がある」
- 女性性思想から、「与えるより受け取る」
- カウンターカルチャーから、「会社中心の人生から降りる」
これらが一つの文化圏で混ざる。そしてSNS時代に、複雑な前提条件が削除される。最後に残るのが、「頑張らなくていい。何もしなくていい。必要なものは与えられる」という短いメッセージなのである。
66.結論――「何もしなくても与えられる」は混成思想である
「何もしなくても与えられる」という現代スピリチュアルは、単純にニューソートから生まれたものではない。また、単純にアメリカから日本へ輸入された思想とも言い切れない。より正確には、ニューソート・潜在意識論・ニューエイジ・引き寄せ・東洋思想・ノンデュアリティ・カウンターカルチャー・自然回帰・エコロジー・自己肯定・女性性思想などが、長い時間をかけて混成した結果と考えるのが自然だろう。その過程には、「人間は世界をコントロールしすぎている」という、かなり重要な問題提起があった。自然農の、「自然がやってくれることまで人間がやる必要はない」という知恵もあった。
カウンターカルチャーの、「会社で賃金を得ることだけが人生ではない」という問いもあった。自己肯定の、「生産性だけで人間の価値を測るべきではない」という主張もあった。ノンデュアリティの、「自我がすべてを支配しているという感覚を疑う」という哲学もあった。それぞれ単独で見れば、考える価値のある思想である。
しかし、「余計なことをしない」が、「何もしない」に変わり、「人間の価値は成果だけでは決まらない」が、「成果を出さなくても物質的な豊かさが与えられる」に変わり、「自然の働きを利用する」が、「宇宙が自分の代わりに必要なものを用意してくれる」に変わり、「結果に執着しない」が、「結果のために行動する必要もない」に変わったとき、思想の性格は大きく変化する。もともと存在していた、「人間の過剰な作為を減らす」という思想が、「自分は作為しなくても、世界が自分のために作為してくれる」という思想へ変わるのである。この二つは、似ているようでほとんど正反対である。
異なる思想から「任せる」「頑張らない」といった共通の言葉だけを取り出すと、それぞれの前提や適用範囲の違いが見えなくなる。その結果、本来は別々だった教えが、すべて「何もしなくても必要なものは与えられる」という同じ真理を示しているように見えやすくなる。