8.しかし「何もしない」にはもう一つ巨大な源流がある
ここまでをスピリチュアル内部の思想史として見るだけでは、現代の「何もしない」は説明しきれない。もう一つ重要なのが、1960年代以降のカウンターカルチャーである。ヒッピー、反戦運動、コミューン、自然回帰、Back-to-the-land、エコロジー、有機農業、東洋思想、反消費主義。これらは互いに影響し合いながら一つの巨大な対抗文化を形成した。
ここで疑われたのは、単に宗教だけではない。近代社会そのものだった。
9.「なぜこんなに働かなければならないのか」
近代社会では、
働く → お金を得る → 食料を買う → 住宅を買う・借りる → 生きる
という構造が当然視されている。
しかし自然回帰思想から見ると、不思議に見える。太陽は無料で降り注ぐ。雨は降る。植物は育つ。種は増える。森林は人間が作らなくても形成される。微生物は土壌を作る。
つまり自然界では、人間が労働する以前から莫大な「生産」が行われている。そこで、「人間が価値を作っている」という近代的な発想そのものが間違っているのではないか、という問いが出てくる。
10.自然はすでに与えている
この世界観では、人間が自然を支配するのではなく、自然はすでに働いていると考える。だから人間がするべきことは、「もっと働く」ことではなく、「自然の働きを邪魔しない」ことになる。これは後のスピリチュアルな「宇宙はすでに与えている」という言葉と非常に相性がよい。
11.福岡正信の「何もしない農法」
日本では福岡正信の自然農法が重要である。1975年の『わら一本の革命』で知られる福岡は、不耕起、無肥料、無農薬、無除草などを基本とする自然農法を提唱した。重要なのは、福岡の思想が、「どうすればもっと生産できるか」ではなく、「何をしなくてもよいか」を探す方向だったことである。
自然はもともと動いている。人間が余計なことをして、問題を作り、その問題を解決するためにさらに別の作業をしているのではないか。ならば介入を減らせばよい。これは老荘思想の「無為」にも通じる。
12.しかし自然農の「何もしない」は本当に何もしないわけではない
ここが非常に重要である。自然農家は何もしないわけではない。観察し、種を蒔き、収穫し、環境を読み、長年の経験を蓄積する。
つまり、「何もしない」のではなく、「自然がやってくれる仕事を人間が重複してやらない」のである。これは高度な知識と経験を必要とする。外から見れば普通に働いている。
13.コミューンの人々も実際には働いている
同じことは1960~70年代のコミューンにも言える。彼らは「会社員として働かない」かもしれない。しかし、畑を耕し、料理し、家を建て、修理し、子育てし、共同体を運営する。つまり相当な活動をしている。
彼らにとって重要なのは、Work と Life の区別だったとも考えられる。企業に時間を売る賃金労働はしない。しかし生活そのものに必要な活動はする。したがって、「働かない」とは、「何もしない」ではなく「賃金労働を人生の中心にしない」という意味だった。
14.ヘンプ、オーガニック、エコロジーがスピリチュアルと接続する理由
この文化圏では、ヘンプ、自然農、オーガニック食品、エコロジー、エコビレッジ、パーマカルチャー、代替医療、瞑想、東洋思想、NPO・NGOなどが不思議なほど同じ場所に集まりやすい。なぜなのか。共通しているのは、「人工的な近代システムへの不信」だからではないか。
- 農業:農薬、化学肥料、農協、大規模流通への疑問。
- 食:加工食品、添加物、大量生産への疑問。
- 医療:身体を外から管理することへの疑問。
- 教育:学校・資格・偏差値への疑問。
- 経済:貨幣、大量消費、企業労働への疑問。
- 精神世界:理性や自我によって人生をコントロールすることへの疑問。
個々の問題はまったく違う。しかし、「人間が作った巨大システムが、本来存在した自然な秩序を壊している」という物語によって全部つながる。
15.だから「自然に任せる」と「宇宙に任せる」がつながる
自然農では「自然に任せる」と言う。スピリチュアルでは「宇宙に任せる」と言う。心理系では「流れに任せる」と言う。非二元では「行為者としての私を手放す」と言う。
言葉は違うが、「自我が世界をコントロールしすぎている」という点では親和性がある。そのため、これらの思想が同じ文化圏で混ざることはそれほど不思議ではない。
この章で生じうる解釈の乖離
論理的に確認できること 感情が先行した解釈 自然の自己組織化と、個人の生活資源が自動供給されることは別の問題である 自然や宇宙に任せれば、生活に必要なものも自動的に与えられると考える