<前回の続きを読んでいきます。>
ここでは、 ギーターに出てくる「サーンキヤ」と「ヨーガ」という言葉が、 哲学学派としてのサーンキヤやヨーガと同じものなのか、 という問題が扱われます。
結論から言うと、 この解説では、 ギーターでいうサーンキヤとヨーガを、 カピラのサーンキヤ学派、 あるいはパタンジャリのヨーガ学派と同一視するのは適切ではない、 とされています。
ある人々は、 ギーターの中に「サーンキヤ」という言葉が出てくると、 それはカピラに由来するサーンキヤ哲学を指している、 と考えます。
たしかにギーターには、 プラクリティとプルシャという、 サーンキヤ哲学で重要な用語が出てきます。
そのため、 ギーターがカピラのサーンキヤ説を支持しているのだ、 と見る人もいます。
同じように、 ギーターに出てくる「ヨーガ」という言葉を、 パタンジャリのヨーガ学派として読む人もいます。
また第五章の冒頭などでは、 サーンキヤとヨーガという言葉が並べて使われるため、 なおさらそのように見えやすくなります。
しかし、この解説では、 その見方は十分に根拠づけられない、 とされます。
ギーターにおけるサーンキヤは、 カピラのサーンキヤ哲学と同じではありません。
また、ギーターにおけるヨーガも、 パタンジャリのヨーガと同じではありません。
その理由として、 いくつかの違いが挙げられます。
第一に、 サーンキヤ哲学は、 ギーターが説くような神を認めません。
第二に、 プラクリティの意味が異なります。
カピラのサーンキヤでは、 プラクリティは三つのグナが均衡した状態を指します。
しかしギーターでは、 プラクリティは三つのグナの原因であり、 グナはその展開として語られます。
またサーンキヤでは、 プラクリティは無始で永遠とされますが、 ギーターでは無始ではあっても、 永遠とはされません。
第三に、 プルシャの理解も異なります。
サーンキヤではプルシャは多数あるとされます。
しかしギーターで説かれるサーンキヤでは、 ただ一つのプルシャが認められます。
第四に、 解脱の理解も違います。
サーンキヤにおいて、 解脱は苦しみの最終的な停止です。
しかしギーターにおける解脱は、 苦しみの停止だけではありません。
そこには、 至上の至福そのものである神の実現が含まれます。
第五に、 パタンジャリのヨーガでは、 ヨーガは心の働きの止滅として定義されます。
一方、ギーターでは、 「ヨーガ」という語は、 文脈に応じてさまざまな意味で使われます。
したがって、 ギーターの教えと、 サーンキヤ学派やヨーガ学派の教えとの間には、 大きな違いがある、 というのがここでの整理です。
ここはかなり重要です。
同じ言葉が出てきても、 その言葉をそのまま別の体系へ持っていくと、 意味がずれてしまうことがあります。
ギーターを読むときには、 サーンキヤ、 ヨーガ、 プラクリティ、 プルシャ、 解脱といった言葉を、 ギーター自身の文脈の中で読む必要があります。
<次回は、この解説書を書いた著者自身の断り書き、つまり「本注釈へのお詫び」の部分を読んでいきます。>