同じ言葉でも、体系が違えば意味は同じとは限らない
ギーターには、サーンキヤ、ヨーガ、プラクリティ、プルシャといった言葉が現れます。これらは他のインド哲学でも使われるため、同じ単語なら同じ教えを指していると思いやすいところです。
けれど、精神世界の言葉は、単語だけを取り出すと意味がずれます。誰が、どの文脈で、何を説明するために使っているのかを確かめる必要があります。ギーターを読むことは、こうした言葉を文脈へ戻す作業でもあります。
たとえば第13章では、プラクリティは世界や心の変化を展開させる神の根本自然として、プルシャは意識や霊の側として語られます。そこから生じるグナの理解も、別の体系の定義をそのまま当てはめればよいわけではありません。
名前が共通していても、神、自然、霊、解脱の関係は体系ごとに異なります。ギーターの用語は、まずギーター自身の文章の中で読む。その姿勢が、混同を防ぎます。
ギータプレス版からの日本語訳――ギーターとサーンキヤ・ヨーガ学派の違い
ここでは、 ギーターに出てくる「サーンキヤ」と「ヨーガ」という言葉が、 哲学学派としてのサーンキヤやヨーガと同じものなのか、 という問題が扱われます。
結論から言うと、 この解説では、 ギーターでいうサーンキヤとヨーガを、 カピラのサーンキヤ学派、 あるいはパタンジャリのヨーガ学派と同一視するのは適切ではない、 とされています。
ある人々は、 ギーターの中に「サーンキヤ」という言葉が出てくると、 それはカピラに由来するサーンキヤ哲学を指している、 と考えます。
たしかにギーターには、 プラクリティとプルシャという、 サーンキヤ哲学で重要な用語が出てきます。
そのため、 ギーターがカピラのサーンキヤ説を支持しているのだ、 と見る人もいます。
同じように、 ギーターに出てくる「ヨーガ」という言葉を、 パタンジャリのヨーガ学派として読む人もいます。
また第五章の冒頭などでは、 サーンキヤとヨーガという言葉が並べて使われるため、 なおさらそのように見えやすくなります。
しかし、この解説では、 その見方は十分に根拠づけられない、 とされます。
ギーターにおけるサーンキヤは、 カピラのサーンキヤ哲学と同じではありません。
また、ギーターにおけるヨーガも、 パタンジャリのヨーガと同じではありません。
その理由として、 いくつかの違いが挙げられます。
第一に、 サーンキヤ哲学は、 ギーターが説くような神を認めません。
第二に、 プラクリティの意味が異なります。
カピラのサーンキヤでは、 プラクリティは三つのグナが均衡した状態を指します。
しかしギーターでは、 プラクリティは三つのグナの原因であり、 グナはその展開として語られます。
またサーンキヤでは、 プラクリティは無始で永遠とされますが、 ギーターでは無始ではあっても、 永遠とはされません。
第三に、 プルシャの理解も異なります。
サーンキヤではプルシャは多数あるとされます。
しかしギーターで説かれるサーンキヤでは、 ただ一つのプルシャが認められます。
第四に、 解脱の理解も違います。
サーンキヤにおいて、 解脱は苦しみの最終的な停止です。
しかしギーターにおける解脱は、 苦しみの停止だけではありません。
そこには、 至上の至福そのものである神の実現が含まれます。
第五に、 パタンジャリのヨーガでは、 ヨーガは心の働きの止滅として定義されます。
一方、ギーターでは、 「ヨーガ」という語は、 文脈に応じてさまざまな意味で使われます。
したがって、 ギーターの教えと、 サーンキヤ学派やヨーガ学派の教えとの間には、 大きな違いがある、 というのがここでの整理です。
ここはかなり重要です。
同じ言葉が出てきても、 その言葉をそのまま別の体系へ持っていくと、 意味がずれてしまうことがあります。
ギーターを読むときには、 サーンキヤ、 ヨーガ、 プラクリティ、 プルシャ、 解脱といった言葉を、 ギーター自身の文脈の中で読む必要があります。