<前回の続きを読んでいきます。>
ここでは、 『ギーター』とヴェーダの関係が説明されます。
一見すると、 ギーターはヴェーダを軽く見ているように読める箇所があります。
しかし、ここでは、 それはヴェーダそのものへの否定ではなく、 欲望を動機とした実践への注意である、 という整理がなされています。
『ギーター』は、 ヴェーダに対して大きな敬意を示しています。
クリシュナは、 自分こそがヴェーダによって知られるべき者であり、 ヴェーダーンタの作者であり、 ヴェーダを知る者である、 と語ります。
これによって、 ヴェーダの栄光は大きく高められます。
また、創造世界を一本の樹にたとえて語る箇所では、 その樹の本質を知る者こそ、 ヴェーダの真理を知る者である、 と示されます。
これは、 ヴェーダの目的が、 世界の真の性格と、 その原因である神を明らかにすることにある、 という意味です。
さらにクリシュナは、 ヴェーダが神から発したものであること、 そして神の実現へ向かうさまざまな方法が、 ヴェーダの中に説かれていることも示します。
つまりヴェーダは、 単にこの世や天界での楽しみを得るための実践だけを説いているのではありません。
欲望に動かされた人が求める一時的な果報だけでなく、 不滅の神の実在についても、 深く語っているものだとされます。
この意味で、 ギーターはヴェーダを非常に尊重しています。
では、なぜギーターの中には、 ヴェーダを低く見ているように見える言葉があるのでしょうか。
たとえば、 欲望にとらわれ、 ヴェーダの言葉の表面だけに執着する人々を、 知恵の乏しい者として語る箇所があります。
また、 ヴェーダは三つのグナに関わる領域を扱うものだとして、 アルジュナにそれを超えるよう促す箇所もあります。
さらに、 三ヴェーダに説かれた儀礼に執着し、 欲望を動機として行う者は、 生と死のめぐりから脱しない、 とも語られます。
では、これはヴェーダそのものを否定しているのでしょうか。
ここでの答えは、 そうではない、 というものです。
ギーターが重んじるのは、 行為者や礼拝者の完全な無欲です。
神の実現には、 この無欲が不可欠であるとされます。
そのため、 行為や礼拝における利己的な動機、 あるいは果報を求める心が、 無欲より低いものとして示されるのです。
ギーターが問題にしているのは、 ヴェーダそのものではありません。
ヴェーダに説かれた実践を、 欲望をかなえるためだけに用いる態度です。
一時的な感覚的楽しみを目的とするなら、 それは神の実現へ向かう道としては十分ではありません。
しかし、それは禁じられた悪行のように、 ヴェーダ自体が非難されているという意味ではありません。
また、 ヴェーダに約束された果報を超えるように語られる場合も、 それは欲望を動機として行われる行為の果報について述べているのです。
したがって、 ギーターはヴェーダを否定していません。
むしろ、随所でヴェーダを讃えています。
ただし、 ヴェーダを読む側の心が、 欲望と果報への執着に偏っているなら、 その読み方はギーターの目指す方向とは違う。
ここで言われているのは、 その区別だと思います。
<次回は、ギーターにおけるサーンキヤとヨーガが、哲学学派としてのサーンキヤやヨーガと同じなのか、という問題を読んでいきます。>