行為の価値は、外形だけでは決まらない
供犠や布施、苦行や礼拝は、外から見れば高貴な行為です。一方、仕事や商い、農業、生活を支えるための務めは、ごく普通の営みに見えます。しかしギーターは、その見た目だけで霊的な価値を決めません。
果実への執着を離れて義務を行う人は、活動していても放棄者であり、ヨーギーだとされます。反対に、立派な儀礼を行っていても、名誉や報酬を得ることだけが目的なら、その行為は人を解放へ導きません。
問われるのは、何をしたかと同時に、何がそれを動かしているかです。行為者としての誇り、所有感、欲望を握りしめているのか。それとも正しい務めを果たしながら、その結果を自分だけのものにしないのか。
ギーターが精神を重んじるとは、行為を軽視することではありません。行為と内面を切り離さず、その両方を見るということです。
ギータプレス版からの日本語訳――行為そのものより精神を重んじる理由
ここでは、ギーターの一つの特徴として、 行為そのものよりも、 その行為をどのような心で行っているかが重んじられる、 という点が述べられます。
『ギーター』は、 正しい行いと高い精神のどちらも、 幸福へ導くものとして認めています。
しかし、そのうえで、 特に重きを置くのは、 精神、 つまり人の内面的な態度です。
第二章の終わりに説かれる、 心の定まったヨーギーのしるし。
第十二章で説かれる、 献身者のしるし。
第十四章で説かれる、 三つのグナを超えた人のしるし。
これらにおいて強調されているのは、 外から見える行動だけではなく、 その人の内なる心のあり方です。
第二章と第十四章では、 アルジュナの問いは、 どのように振る舞うのか、 という行動面に関わっています。
しかし、クリシュナの答えは、 その背後にある精神を重んじる方向へ向かいます。
ギーターの見方では、 戦うこと、 商いをすること、 農業をすること、 奉仕的な仕事をすることのような、 一見すると普通の営みであっても、 私心なく行われるならば、 解脱へ導くものとなります。
反対に、 祭祀、布施、苦行、公共への奉仕、礼拝のような、 一見すると高貴に見える行為であっても、 そこに利己的な動機があるならば、 前者に劣るとされます。
つまり、 行為の外形だけでは、 その霊的な意味は決まりません。
その行為が、 執着なく、 私心なく、 神の実現へ向かう精神でなされているか。
そこが問われます。
第四章でも、 さまざまな実践が「供犠」として語られますが、 そこでも解脱は、 供犠という行為そのものより、 供犠を行う者の精神に大きくかかっている、 と示されています。
ここで押さえておきたいのは、 ギーターは行為を軽んじているのではない、 ということです。
行為は必要です。 しかし、行為だけを見て、 これは高い、 これは低い、 と決めることはできません。
同じ行為でも、 欲望から行えば束縛になり、 執着なく行えば解放へ向かう。
この視点が、 ギーターにおける実践理解の中心にあります。