85.自然界でさえ、本当は「何もしていない」わけではない
さらに考えてみると、「自然は何もしなくても与えてくれる」という表現も、人間側から見た言い方である。森林では、植物が光合成する。
- 菌類が有機物を分解する。
- 昆虫が受粉する。
- 微生物が物質を循環させる。
- 水が移動する。
- 太陽からエネルギーが供給される。
- 膨大な活動が絶えず起きている。
人間が介入していないだけで、システムそのものは猛烈に活動している。
したがって自然農における「何もしない」の本質は、活動が存在しないことではない。人間以外がすでに行っている活動を利用することなのである。
この章で生じうる解釈の乖離
論理的に確認できること 感情が先行した解釈 自然界の供給は、多数の生物の活動と物理過程によって成立している 自然は誰の活動もなしに、自分へ恵みを与えると考える
86.これは現代社会にも応用できる考え方ではある
ここからは逆に、有益な思想を取り出すこともできる。
- 何でも自分でやる必要はない。
- すでに機能している仕組みを利用すればよい。
- 自動化できるものは自動化する。
- 他人が得意なことは任せる。
- 市場を利用する。
- 公共インフラを利用する。
- 自然の仕組みを利用する。
- 技術を利用する。
これは、「何もしない」ではなく、レバレッジを使うという考え方である。ある意味では、自然農の思想を現代社会に移すなら、こちらのほうが論理的である。
87.「自分が働かない」と「誰も働かない」は違う
現代では、資産を持っている人が働かずに生活することも可能である。株式や債券、不動産、年金、著作権、事業持分などから所得を得れば、本人が毎日賃金労働をしなくても生活できる。だから、「人間は必ず会社員として働かなければ生きられない」という命題は事実ではない。
しかし、その所得も社会のどこかで生産活動が行われているから成立する。企業が利益を生み、借り手が利息を払い、入居者が家賃を払い、現役世代が社会保障制度を支えている。
したがって、「私は働かなくてもよい」という個人的可能性と、「労働そのものが不要である」という社会的主張は区別しなければならない。
88.技術が進めば、本当に「働かない社会」に近づく可能性はある
ここでさらに面白い問題が出てくる。AI、ロボット、自動運転、自動農業、再生可能エネルギー、工場自動化などが高度に発達すれば、人間が生存のために必要とする労働量は実際に減る可能性がある。つまり、「人間はこんなに働く必要があるのか」というカウンターカルチャーの問いは、技術社会において別の形で再登場している。
ベーシックインカムなどの議論も、この問題と接続する。しかしこれは、宇宙が与えるのではない。生産性の上昇と、その成果をどう分配するかという、技術・経済・政治の問題である。
89.スピリチュアルが感じ取った問題と、説明の仕方を分ける
ここで一つ重要な見方ができる。ある思想が問題を正確に感じ取っていても、その原因説明まで正しいとは限らない。たとえば、「現代人は働きすぎている」という感覚は正しいかもしれない。しかし、「それは宇宙との波動がずれているからだ」という説明まで正しいとは限らない。「大量生産型農業には問題がある」という指摘は検討に値する。
しかし、「自然なものなら必ず安全」とは限らない。「人間は人生を過剰にコントロールしようとしている」という指摘には意味がある。しかし、「だから何もしなくても必要なものは引き寄せられる」とは限らない。つまり、問題意識と因果説明を分けて評価する必要がある。
90.スピリチュアルを観察するときの一つの方法
スピリチュアルな主張を、「信じる/信じない」だけで判断すると、見えるものが少なくなる。むしろ、その思想は、どんな不満に答えているのかを見ると面白い。「頑張らなくていい」なら、なぜこれほど多くの人が頑張ることに疲れているのか。「自然に戻ろう」なら、なぜ現代的な食や農業に不信を持つ人がいるのか。「宇宙に任せよう」なら、なぜ自分で人生を管理し続けることに疲れているのか。
「会社を辞めても大丈夫」なら、なぜ会社という制度に閉塞感を感じるのか。思想そのものが事実かどうかとは別に、その思想が人気になる社会的理由を見ることができる。