サマーディの種類とダルマ・メガ・サマーディ(法雲三昧)

2023-02-26 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

サマーディというと、おそらくはヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」に出てくるニルヴィカルパ・サマーディが有名で、それによって二元論を超える、みたいな説明ですとか、あるいは、ラマナ・マハリシが説明しているサハジャ・サマーディ(真のサマーディ)みたいなお話が出てきます。

ヨーガ・スートラの最後に出てくるダルマ・メガ・サマーディ(法雲三昧)も割とそれと同一に扱われがちですけど、視点が違うように思います。

心というものを中心にして感情あるいは感覚を元にして捉えた場合、二元性とか非二元性とかいうお話が出てきます。一方、心としてではなくて、プルシャ等との合一と捉えると、それは二元論とかとは違って、単に、どの階層で合一するか、というお話になります。心の二元論を元にして捉えるのがニルヴィカルパとかサハジャとかのお話で、サマーディというとこちらのように心と二元論を元にしたお話が割と主流のように思いますけど、一方、ダルマ・メガは合一のお話で、少し違うお話なのです。しかしながら繋がっていて、ダルマ・メガ・サマーディでプルシャと合一すればその状態は(安定した後には)サハジャ・サマーディになるように思います。世間で、ダルマ・メガ・サマーディ(法雲三昧)とサハジャ・サマーディ(真のサマーディ)は割と別物として扱われているように思いますけど、実のところ、視点が違うだけで同じプルシャの段階のお話なわけです。

サマーディは各階層でそれぞれ起こって、アストラル界の感情に関するサマーディと、カーラナ界におけるある程度まで純粋なサマーディ、そして、プルシャとの合一をするサマーディがあって、このダルマ・メガやサハジャはプルシャとの合一だったりプルシャにおける心的状態を言っているわけです。世間の解釈としては、ダルマ・メガの方は一時的でサハジャの方は永続的で真のサマーディだ、なんて言われてもいて、ニュアンスとして、同じ土俵に並べて「比べる」ということをしてしまいますけど、比べる時点で既にマインドの二元論の世界から見た視点になってしまっていますし、そもそも視点が違うのですから、真にこのサマーディの姿を捉えられてはいないわけです。

サマーディとはそもそも(それぞれの階層において)一時的なものから安定した状態へと遷移するものですので、一時的だとか永続的だとか言うのは当然すぎるお話で、あまり意味がないように思えます。それよりも、本山博先生風にアストラル、カーラナ、プルシャという階層で分けた方がわかりが良いように思います。そして、プルシャの階層での合一をダルマ・メガだと言えばそうですし、サハジャだというなら、それはそれでありと言いますか、言い方と見方の違いだけの問題のように思います。お勉強をしていると「ダルマ・メガは一時的でサハジャが本物だ(だからサハジャの方が上等だ)」なんていう解釈も耳にするかもしれませんけど、そういうことではないのですよね。そういう、比べてしまったり、優越意識で見ている時点で、本当のサマーディの姿を捉えられてはいないわけです。既に二元論を超えているお話を、二元論の視点から優越を持って見てしまっているわけです。ついつい比べて優越をつけてしまうマインドを超越する必要があります。そうしてようやく本当の姿を捉えることができます。


■ダルマ・メガは合一のお話で、サハジャとかいうのは心的状態のこと

ダルマ・メガ・サマーディ(法雲三昧)というと、一般的な解釈では、単に「神々しい光」「激しい光」のように、単なる体験かのように解釈されてしまっていて、瞑想中に見える光とごっちゃになってしまっているように思います。瞑想中に普通に見える光のようなものと、この、ヨーガ・スートラの最後に出てくるダルマ・メガ・サマーディ(法雲三昧)の光あるいは強烈なオーラとは全く性質が異なって、単に瞑想中に「見える」とか「感じる」とかそういうお話とはものが全く違っていて、それは「強い、はっきりとした意識」を持った、まさに意識体としてのオーラなのです。それは光といえばそうですけど、光としてより、意識を持った魂、意識そのもの、肉体を持たない魂そのものとの融合なわけで、それがプルシャ(神霊)と呼ばれていたりするわけです。そのプルシャ(オーラ、光、神霊)により自己の本質が全く変容してしまうようなものであり、見ようによってはまさにアートマンそのものが飛び込んできたような強烈な変化があるものですから、それまでのサマーディ体験などとは比べ物にならないくらいの違いがあります。決して、「(単なる)一時的なサマーディ」とか、その程度のものではないわけです。

ラマナ・マハリシは、サマーディにおいて「全体」と一体になるときに恐怖を覚えた、そして、それを乗り越えることより真のサマーディに至り、二元論を超えた、みたいなお話が有名で、ラマナ・マハリシのアシュラムの壁にもそのことが刻まれていて、一つの宣伝文句にもなっていたように思えます。その時が(一時的とも思える)ダルマ・メガ・サマーディ(法雲三昧)だった可能性があって、あるいは、そのまた一つ手前の、体の形を持ったハイヤーセルフ相当と融合した可能性があります。そして、その後、しばらくしてサハジャ・サマーディ(真のサマーディ)に至った、と解釈することもできると思います。

ダルマ・メガによるプルシャとの「合一」は確かに一時的なものであっても、その時に合一してきたプルシャ(神霊)は常に自らの内に居続けますので、確かに「合一」というのは一時的だとしても、合一してきたプルシャとその後ずっと合一し続ける、という点に関しては継続的なお話なわけです。

思うに、自分のヴァイラーギャ(離欲)の進み具合によってどの程度の次元のハイヤーセルフあるいはプルシャ(神霊)と合一するのかが違っていて、それなりの段階に達すれば、神意識としてのプルシャ(神霊)と結合する少し前に、いわゆる普通の一般的なハイヤーセルフ(それでも十分高次なのですが)と合一するように思います。少しずつ、自分の成長に合わせて高次の存在が自らの内に入って活動をするわけで、その境目が、一応は、ダルマ・メガ・サマーディと言っていいと思います。

そのことを理解・体験する以前でも、理屈を学べばいくらでもその気になることがあって、単に心の段階で色々と理解してサマーディに達したとして、それでニルヴィカルパとかサハジャと言うことは個人の自由ですから一応はできると思うのです。その「理解」は「心」の段階を抜けきれていなくて、二元論を本当に超えるのは、本当の体験のみだと思うわけです。理解だけでダルマ・メガを理解しょうと思うと、ダルマ・メガを見誤るように思います。ヨーガ・スートラの最後で出てきているお話ですから、そう軽いものではないわけですが、何故か、世間ではあまり注目されていないようです。

表現として、「ダルマ・メガが安定したらサハジャだ」と言うのなら、それはそうかもしれませんが、世間でそういう説明は聞きませんね。もしもサハジャという言葉を使うのならば、そのような言い方は一応はできるかと思います。ただ、それすらも、結局は「経験」を元にした見方でしかなくて、「心」の理解、「心」が見た視点になります。

一方、本当にその経験をしたのならば、それは心の状態や心の見方のことではなく「プルシャとの融合」のことであるとわかるわけです。そして、ダルマ・メガは合一のお話で、サハジャとかいうのは心的状態のことで、見方が違うだけで、どちらもプルシャの段階であることがわかるわけです。


■ヨーガ・スートラのダルマ・メガ・サマーディ(法雲三昧)の後の到達点

ヨーガ・スートラ4章の最後の方にダルマ・メガ・サマーディ(法雲三昧)のことが書かれていて、ヨーガ・スートラの最終到達点であることがわかります。完全なるヴィヴェーカ(識別)を得てさえもヴァイラーギャ(離欲)を保つ者のところにダルマ・メガ・サマーディ(法雲三昧)が訪れると言い、そして、4章の最後の幾つかのシュローカ(節)が最終到着地点を説明しています。

4-30) そのサマーディによって、すべての苦悩(煩悩)とカルマ(業)は終息する。
4-31) かくして、知のすべての覆いと汚れが完全に取り除かれる。この知は無限であるので、なおも知られるべきものはほとんどない。
4-32) そのとき、3つのグナはその目的を遂げたので、転編の継起を終える。
4-33) 略
4-44) かくして、もはやプルシャに仕えるという目的のなくなった3グナはプラクリティに遷入し、かの無上なる独存の境地(カイヴァリャ)が現れる。
「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」

サハスララが十分に開いて、胸の奥の小部屋のプルシャ(あるいはアートマンと言っても良い)が活性化して平穏な時、全ての苦悩は止み、心の動きは客観視の状態になって、カルマの動きは終焉したことを感じとります。これは最近の感覚と一致します。

ここに達すると、もはや、意識の状態が落ちることはない、とも言われていて、私はまだ完全に安定したわけではないにせよ、言わんとしていることはわかります。基本的に、そういうことなのだろう、と思いますし、実感があります。これが安定すれば、もはや、意識が蒙昧に転落することは基本的にないようにも思います。ずっと車で走っているとエンジンから時折ちょっとした聞き慣れない音が聞こえることがあっても壊れるわけでもなく、基本的には安定して動いている、と、そういう感じかなと思います。

一方、「完全なる知識がやってくる」という記述は本山博先生がおっしゃられる「過去・現在・未来が同時に存在している境地」ということでしょうから、私はまだのようです。

最近、瞑想中や睡眠中に一瞬ですが時間が止まったような状態に何度かなりましたので、おそらくはこれが「一瞬(今)の中に全てがある」ということなのかなと思います。その時、時間が凍結したようになりました。例えるならジョジョの漫画で時間を止められる能力が何度か出てきましたけど、そんなイメージです。瞑想の中の感覚だけではありますけど、全てが止まったかのような感覚になります。時間と空間が一瞬ですが凍結されます。まだその凍結は長く続けることができなくて一瞬ですけど、長く時間を止められるようになれば色々と見えてくるのかなとも思います。時間を止めているのに長い時間なんていうのは表現としておかしく思われるかもしれませんけど、ジョジョの漫画のように、時間が止まっている間でも「見ている意識」があって、おそらくはそれがプルシャ、見るもの、純粋精神なのですが、プルシャは止まっている時間と空間を超越しているように思うのです。

おそらくは、この状態がもっと確立したら「過去・現在・未来が同時に存在していることを見ることのできる境地」になるような気がしていて、グナ(ヨーガなどで言われている3グナ、サットヴァ、ラジャス、タマス)の役目を終える、というお話も、その状態になればグナはプルシャと結びつかないようになって、プルシャはグナと分かれて独立して存在するようになるため、ヨーガ・スートラの最初の方、1-3で述べられているように「見るもの(プルシャ)」はそれ本来の状態に留まる、つまり、プルシャがグナと結び付かなくなって、純粋な観察状態になる、ということだと思います。

ヨーガ・スートラは1-2と1-3が概要であり、1-2で修行について書かれていて、1-3で到達点について書かれているわけで、4章の最後にきて、その到達点について詳しく書かれているわけです。

となれば、私が次に目指すべきは、このサマーディを完全にすることと、カイヴァリャの達成ですね。