ヨーガの知識とスピリチュアルの知識が繋がる

2023-02-08 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

割と別々のように見えていたこれらの知識が繋がり、ヨーガの道がスピリチュアルの道と同じものであることが確認できました。

こと、業界的には同じように見えても内実はお互いがお互いの言葉と考えを理解できずに、あるいはしようとせずに、それぞれ我が道を行っている場合が多いのかなと思います。

ヨーガはヨーガなりの表現方法があって、スピリチュアルにもそれがあるわけですけど、一つ一つの表現を見ていくと、段階ごとに対応が取れてくるわけです。

どちらを基本にするか、と言いますと、ヨーガを基本にした方がわかりがいいように思います。あるいは、そのまた前段階を置いて、マインドフルネスあるいはゾーンという段階を置くと更に分かりやすいように思います。

まず、ご自身の仕事あるいは趣味など何でも良いですから一生懸命取り組んで頑張って集中してゾーンの歓喜に入るわけです。それが基礎になります。

その後、ヨーガを始めて、瞑想をして、クンダリーニが活性化したりして、主に肉体的、それに加えてエネルギー的な(ヨーガでいうプラーナ的な)元気さを得て、この地上で日常生活を健康に過ごすことができるようになります。これでも割と十分なのですが、更に進むと、ハイヤーセルフ(あるいはガイド)との合一の段階があります。これは、ヨーガでも流派によってはシヴァとの合一だとかサマーディだとか色々と言われていて、表現は固定されていないものの、それに類似した表現はあるように思います。密教などでもご本尊との合一、みたいなことが言われていて、この段階に対応しているように思います。

その後、サハスララが目覚める段階がヨーガでいうところのサマーディ(の一種)、あるいはヴェーダンタでいうところのアートマン、はたまたスピリチュアルでいうところのワンネスになります。

これら、実のところそこまで違わないのですけどそれぞれ違った表現をしていて、流派によっては「混ぜるのは良くない」とか「混ぜると成長が遅れる」とか言われていますけど、個人的な意見を言わせて貰えば、それは気のせいで、どちらにせよ、ある程度のレベルになると成長できる人が限られるわけですから、その理由をそんなところに置かなくてもいいと思うのです。成長する人は何をやっても成長しますし、成長しない人はどうしてもそこそこの段階で留まります。実のところ、スピリチュアルの世界は割と残酷な、とてつもない圧倒的な差が歴然と存在していて、人によっては1000年単位で考えるべきことだったりします。

それはさておき、このように俯瞰してみると、宗教にしても、スピリチュアルにしても、ヨーガにしても、何にしても、それぞれ、ある程度の真実を含んでいるわけです。ただ、それ単体で全てが真実というところはあるようでいてなかなかなくて、結局、ある程度のところまでいくと自分で真実を掴み取る必要があるのかな、と思います。

ですから、これは理屈としてもそれはそうなのですけど、理屈というのはほんの入り口で、実際に、具体的に、直接的にこの言葉の状態、そのものに実際になることが必要だと思うのです。

主体の感覚である具体的な対象が思い浮かんだとしても、その主体の感覚はすぐに自然に消えてゆきます。主体としての対象が消えて空性に溶け込むわけですから、それはつまり、主体の対象(観念)が空性と同じであることはその状態においては自明で、当然のことなわけです。同書には「原初的な知恵」と書かれてありますけど、それが具体的にどういうことかというと、このことを直接的に認識してありありと知覚する、はっきりと見る、しっかりと理解する、ということではないかと思うのです。書物で、空性と顕現が統一されるとか、共に存在しているとか、そういうことが書かれてあったりしますけど、それは理屈としては当然なわけですけど、本当に大切なのは、実際に、その空性と顕現とがありのままの境地、心の中の境地として本当に統一されて共に存在していることを認識することなわけです。ありのままの境地で認識することで、しっかりと、本当の意味で「理解」するわけです。それが、「原初的な知恵」ということではないかなと思うのです。

これは、知識としては割と当然のこととして以前から一応は理解していたと言えばそうなのですが、この段階以前の一応の理解というと、想念というものは消えるわけですから存在の対象が空性に消える、という、一応の理解をしていたと言えます。そう説明されれば、それはそうかな、と思って一応は理解するお話ではあるのですけど、この段階に至ると、その「消える」瞬間までもがありありと、雲が空で消えるかのように、煙が拡散して何も見えなくなるかのように、それと同じように、主体のある対象である具体的な想念が雲のように拡散して次第に薄くなって空間(それは光ということでもあります)の中に消えてゆく様を、ありありと、ありのままに観察することでこのことを直接的に、本当の意味で「理解」するわけです。

こうして、しっかり認識して理解をする時、顕現たる具体的な思いが空性に溶け込むことをありのままに認識する時、書物に書かれてある「すべては一味である」という意味をも理解するわけです。ワンネスということでもあります。本当の意味におけるワンネスの始まりかと思います。ここを更に突破すると、二元論は完全に克服される、と言います。確かに、それはその通りかなと思います。同書によれば、「主体や対象が存在しないというわけではなく、三昧が持続し、二元論に限界づけられなくなる」と言います。それは感覚と一致します。