ヨーガスートラの「心の死滅」の達成

2022-12-12 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

まず基本として、最近は割と日常生活にも瞑想状態が広がっていて、普通に過ごしていても割と無念無想っぽい状態が続いていました。仕事の時は普通にそのことを思考しますし、一方で、特に何かを考えることがあってもなくても割と平安に過ごしているこの頃でした。思考する時もあれば、そうでない時もあり、静寂が訪れればその時はその時で静寂を日常で安らいでおりました。

そんなとき、ふと座った瞑想をして更なる静寂へと入ってゆきました。まず、座って割とすぐに現れたのが地平線が見えるかのような部屋の空間でした。部屋には壁があるのに何故に地平線なのか、と不思議に思うかもしれませんけど、確かに壁があってそれらしき壁や幾つかの物体があるらしいことは認識できるのですが、その一方で、その奥にまで続く地平線のようなものも感じるのです。地平線とは言っても、実際には、自分に近い地続きのところの方が強く意識されていて、自分に近いところを認識するとそれが地平線にまで続く意識の一部だ、と認識できるのです。

この状態の時、思考は既にほとんど止んでいて、思考の上にあるアートマンあるいはハイヤーセルフの意識で全てを認識して「観察」状態にありました。そうして瞑想を少し続けていると、最初は観察だけだったのですが、やがて、ハイヤーセルフの「働きかけ」の面の意識が動いてきます。

実際のところ、以前からこのような、思考(マインド)が止まってアートマンあるいはハイヤーセルフだけが観察している状態に入ることは一応はできたわけですけれども、今まではというとその状態に入ってもしばらくすると多少は思考(マインド)が邪魔してきて、基本は静寂とアートマンの観察状態に入ることはできていても、時折、思考(マインド)がそれを濁らせて観察状態が時折邪魔されてしまうような状態でした。

ここにきて、その妨げがあるにはあるもののほぼその影響を排除することができるようになり、基本的にはアートマンの観察が優位になり、そうなると、おそらくこれはヨーガ・スートラの「心の死滅」を一応は達成できたと言って良いのではないかと思います。死滅とは言っても、ここで言われているのはただ単に「絶念を止める」と言う意味ですが、歴史的に、元々のサンスクリットの「二ローダ」がこのように訳されてきたという歴史があります。

瞑想の種類には「努力を要する」もの(=努力をして瞑想状態を維持するもの)と「(努力を)要しない」もの(努力をせずに瞑想状態を維持するもの)とがあって、ここでは割と後者の状態です。座った瞑想という行為をしている時点で多少の努力をしていると言えばしているのですけど、瞑想中の特別の努力は不要での状態ですので、一応は後者の範疇と言っても良いのではないかなと思います。

これは言葉でなかなか言い表しにくい状態であり、言葉にすること自体が何やら想像を掻き立てるようで逆に誰かが境地へ達する妨げになるかもしれないような微妙な状態ではありますが、それでも、一応は言葉として記録を残しておきたいと思います。

■意識が空へと抜け切る瞑想

意識には下の波動階層におけるいわゆる普通の思考としての意識と、割と高次の意識とがあると思うのです。実際には2分割ではなくて3分割あるいはもっと分類できるように思うのですけど、スピリチュアルでは伝統的に2つに分けるように思います。その、割と普通の意識の方は活動をほとんど停止、あるいは階層を異にして動くようになり、ハイヤーセルフの意識が動き出すわけです。

この時、今まではハイヤーセルフの意識が動き出したとは言っても普通の顕在意識が動くとそちらが割とすぐに優勢に戻ってきて、ハイヤーセルフの意識の動きが顕在意識の普通の意識によって妨げられていた状態だったように思います。顕在意識であるところのロウアーセルフを止めればハイヤーセルフの意識が出てくる、という、片方を止めるともう片方が出てくるような状態でした。瞑想を重ねるにつれ、ハイヤーセルフが次第に優位になりつつあったものの、それでも、完全にハイヤーセルフの意識が自由になるというところまでは至っておりませんでした。

それが、今回、瞑想中だけのことではありますけど、ロウアーセルフの意識が動いていてもハイヤーセルフの意識が動き続けていて、それぞれがお互いを邪魔しないようになったのです。これは、比喩的に言えば、意識が「空へと抜ける」と表現することもできるのかな、とも思います。他の流派で似たような表現をしているかもしれませんけど同じかどうか分かりません。他の流派のことは分かりませんが、あくまでも言葉だけの表現です。

これは、いわゆる普通の顕在意識であるところのマインドは基本的に止まっていて、マインドが少し動いたとしても「水面の下」で魚が泳いでいるようなもので、「水面の上」にいるハイヤーセルフはあまり気にならないようなのです。マインドが水面の下にあり、ハイヤーセルフは水面の上にいるのです。

今までは、その両者は同じところにいて、水面のようなところで分かれてはいませんでした。同じ空間にいて、マインドが優勢な時はマインドだけが意識に現れ、マインドが停止しているときはハイヤーセルフが現れていました。今は、(瞑想中だけ認識できるのことではありますが)その間に水面があるように思うのです。

■スピリチュアルでの心と水面の有名な例え話

インド哲学ヴェーダンタやスピリチュアルで心と水面の例え話は昔からよくされているわけですけれども、その同じ水面で、いわゆる一般論とは違った水面の例え話ができるように今は思います。

通説では「(誰でも)心は水面のようなものだ。心(水面)が穏やかになれば下にある本当の自分(アートマン、真我)が見える。心(チッタ)に雑念が多い(ヴィリッティ=揺らぎ、が多い)と水面の下は見えない。心を沈めるのが瞑想であり、スピリチュアルの基本」のようなことが昔から色々なところで言われていて、割と文字通り普通に解釈をしておりました。一般論の通説としてはそれはそれで正しいのかなと思いますが、どうも、ちょっと違う表現をした方がわかりがいいように思うのです。

一旦は通説を忘れてしまって、水面を独自の解釈をしてみますと、「マインドが静かになり無念無想になり、ハイヤーセルフの意識が表れて空へと抜けると心は水面のようになって、ハイヤーセルフが水面の上、マインドが水面の下になり、お互いが影響されにくくなる。」ということなのかなと思います。一方、「マインドが揺らいでいて雑念が多い時はそもそも水面が存在しなくて、マインドとしての顕在意識しか存在しない」ということなのかなと思います。

あるいは、この表現は誤解があるかもしれなくて、「単にハイヤーセルフの意識が表れていないだけで、最初からこうだった」という言い方の方が正確かもしれません。はたまた「ハイヤーセルフの意識を認識できていないため、普通の思考のマインドの意識だけが表れている」と言っても良いかもしれません。

今まで、水面の例え話は通説に沿って文字通り理解はしていたものの、ここまではっきりと心のありようを認識することはなかったように思うのです。

まとめますと、
・雑念がある時は、顕在意識の普通のマインド(思考)しか(基本的には)存在しない。ハイヤーセルフの意識は基本出てこないが、時折、ふと現れる程度。水面の例えで言うと、水面の「下」だけで生きている状態。
・無念無想になり雑念が鎮まるとハイヤーセルフの意識が現れる。普通の顕在意識のマインド(思考)は水面の「下」であり、水面が静か(雑念が鎮まり、無念無想)であるが故に、水面より上にあるハイヤーセルフの意識と共存する。

と言うように解釈した方がわかりがいいと思うのです。

元々の通説はそれはそれでわかりが良いお話かなとは思うのですが、個人的にはこの表現の方がしっくりくるのです。これは人によって好みの問題かもしれません。

おそらくはこれは、まだハイヤーセルフの意識がそれほど出ていなくて普通の顕在意識のマインド(思考)が優位の場合には湖の湖畔からマインドが眺めて水面の下がハイヤーセルフ、というので正しいのかと思います。ですが、それなりにハイヤーセルフの意識が優位になる場合は立場が逆になって、ハイヤーセルフの意識が湖の湖畔から眺めるようになるわけです。そうなると、ハイヤーセルフの意識が湖畔から湖の上を眺める景色になり、湖の下にあるのが普通の顕在意識のマインド(思考)になるわけです。湖の下というのは水の中ですから実際に素潜りなどをしても水の中はぼやけて見えますので比喩としてもこちらの方が適しているようにも思いますし、ハイヤーセルフが上でロウアーセルフ(普通の思考のマインド)が下、というのも感覚と一致しています。元々の比喩だと位置関係が逆(ハイヤーセルフが下でロウアーセルフが上)になってしまいますので間隔と食い違ってしまいます。この感覚は個人的なもので人にもよるかなとは思います。

■意識がサハスララから大きく上へ抜ける

その時、ハイヤーセルフが周囲を観察しています。観察というのは部屋の各所にある特徴をなんとなく認識するという程度ですけど、それに加えて、聞こえてくる音も認識しています。ハイヤーセルフの周囲への働きかけは単なる観察としての受動の側面だけではなく、周囲へと働きかける、という能動的な面も有しております。それはまだ具合的なものではなくてマントラのオームあるいはアーというくらいの短音ではありますけど、周囲への「働きかけ」を意図して動こうとしていることを感じます。そうは言いましても、観察としての意識は多少は働きつつあるもののまだまだ全然であるように思いますし、働きかけの意識の方はというとほとんど目覚めていないようです。

そのような状態で割と無念無想の瞑想を続けていますと、意識が自由になっただけでなく、オーラがサハスララからより一層大きく上に抜けて、意識が飛び立とうとしているのを感じます。

おそらくは、これは何かの入り口なのではないかと思います。

今までもサハスララから上に抜けるというのはそれなりにしてきたわけですが、ここまで「大きく」抜けるというのはなかったように思います。大きく、とは言いましても自分での比較ですので実はそれほどでもない可能性はあるものの、少なくとも、今までよりは大きくサハスララから上へと抜けるようになったわけです。

まだまだ境地としては先があるように思うものの、そうは言いましても、一旦の急所を抜けることができて、意識がそれなりに空へと抜け切ったように思うのです。空へ抜け切ったとは言ってもまだまだ抜けたばかりですので「すわり」はそこまでついていないように思いますし、本当に抜け切ったらもっと多次元へと意識が繋がる筈ですので、ただ単に空へと抜けたというだけではまだまだだとは思うのですが、そうは言いましても一旦の急所を抜けたのかな、という気が致します。