悟りのないサイキック能力は人生の苦しみを深めるだけ

2022-10-01 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

魔法とかサイキックあるいは霊能力という分野がありますけど、これらは気の次元(アストラル界、エーテル、ヨーガでいうプラーナ)を主に扱うもので、それと悟りとは一応は切り離して考えるべきです。

サイキックで何かを予知したり見抜いたり心を読んだりみたいなことは実のところ低いチャクラであるスワディスタナとかでも可能なわけですけど、スワディスタナは無意識のチャクラとも呼ばれていて、自分ではコントロールできず、不意に見えたり聞こえたりしますけど、自分から意識的に情報を取ってきたり発信することはなかなか難しいわけです。意識を失ってトランス状態になったりするのが低いチャクラの特徴で、いくらサイキックだと言ってもスワディスタナくらいが動いていることがかなり状況としては多いのです。

マニプラが動くともう少しサイキックらしいことが意識的にできたりしますけど、一応は、そうしたお話と悟りとは切り離して考えるべきなわけです。

時に、人はこれらのことに必要以上に重きを置いたりしますけど、適切にそれらは捉えるべきなわけです。

語弊があるかもしれませんけど、こういうたとえ話が分かりやすいかもしれません。

例えば整体の技術に優れた人がいたとして、体の不調を取り除いたり体幹を伸ばしたり開脚がよくできるように施術できたとします。そのように整体に優れた人がいたとして、だからと言ってその人が悟っているとは誰も思わないでしょう。施術士が悟っている場合ももちろんあるにはあると思いますけど、整体の技術が優れていて物凄いからといってそれだけで悟っていることにはならないわけです。

それと同じように、サイキックで見えたり聞こえたりしても、整体の技術と同じで、単に技術が優れている、あるいは、単に目が見えたり聞こえたりするだけなのです。

実際のところ、サイキックが見えたり聞こえたりしている能力というものは人が死ねば誰しもが現れる能力なわけで、特別に優れているわけではありません。ちょっとしたテクニックと知識があるか、あるいは臨死や酷い精神的ショックなどが原因で不意にそういう能力が現れてくることがありますけど、それと悟りとはそこまで関係がないのです。

整体の技術を突き詰めるのと同様にサイキックの能力を高めようと思えば色々と修行方法があって、そうすることで現世利益の追求もできますけど、そこまでしても悟りとはそこまで関係ないこともあったりします。

ですけど、時に、特に当の本人はサイキック能力が悟りあるいは優れているかのように勘違いしがちなのです。


■サイキック能力に興味を失うとサイキック能力を失う

人は時に、サイキック能力が高まれば悟ることができる、というような誤解をしがちですけど、実際のところ、高次の次元になるとサイキック能力というのは存在しないのです。というと語弊があるかもしれませんけど、高次の次元には、人々が想像するような、わかりやすい物理的あるいは現世利益的なサイキック能力は存在しないわけです。

サイキック能力は主にアストラル界(思いの世界、気の次元、エーテル、ヨーガでいうプラーナ)を扱うもので、それは物理的なものです。その一つ上のコーザル界(カーラナ、原因)になってもまだ物理的なものですけど物理的性質は弱まってきて、現世利益的な性質が薄れてゆきます。

それも終わりではなくて、その先にはヨーガでいうプルシャ、あるいはヴェーダンタでいうアートマン(真我)があるわけですけど、これは純粋精神(プルシャ)だったりして、それはもはや物質ではないのです。物質ではないのですから、現実に働きかけるという意味でのサイキックとは無縁なお話なわけです。

悟りとは、物質界を超えてプルシャあるいはアートマン(真我)へと至る、というお話なわけで、一方、サイキックはアストラル界で現実(特に物質)に対して何かを働きかける、というお話なわけですから、かなり違うお話なわけです。

ですから、そもそもサイキックと悟りとはそこまで関係はないのですけど、時に、サイキックだから悟っているとかいう勘違いをしたりします。

確かに、サイキックであることは時に悟りの基礎にはなることはありますし、それなりの悟りの状態にそれなりのサイキックはつきものですけど、サイキックだからと言って悟っているとは限らないわけです。

実際のところ、サイキック能力というものは転生を重ねるごとにノウハウが溜まってきて上達してくるわけですけど、波動が高くなると、そういう能力に興味を失っていって、次第に、能力がないかのような感じになってきます。それでも思いだせば使えたりしますけど、あまり能力というものが気にならなくなってくるわけです。

悟りが高まってもいないのにサイキック能力が開花したら刺激が強くなって苦しむだけだ、みたいなことはよく言われますし、それはその通りかと思います。

サイキック能力を使う人生を転生の中で何回も当たり前のように行なっていると、やがて、能力のない生き方を選ぶ時がやってきます。これは、どうしてそうなるのか理解が難しいかもしれませんけど、霊界には特殊なマントがあって、アストラル能力を封じて霊視や霊聴を無くしてから転生するという選択をする段階があるのです。

それは例えるなら、転生の経験が豊富な魂が手足や五感のうちいずれかがない状態で障害者として難しい人生を送ることで急激な成長を遂げようとするようなもので、サイキック能力を封じることで成長の壁を突破しようとする時があります。


■悟りのないサイキック能力は人生の苦しみを深める

サイキック能力を高めるならば悟りも相応に高めていかないとサイキックになったとしても邪悪なものを引き寄せてしまったり悪霊ばかり見えるようになったりして、苦しむことになります。最初は見えないものが見えるようになって喜んだりしたとしても、自分の波動が低かったりしますと邪悪な次元と繋がってしまって、日々苦しんだり、面倒になったりします。

波動がそこまで高くないと例えば街歩きの場合でも悪霊を避けたり人混みを避ける必要が出てきて、色々と面倒なことがあります。波動が高ければあまり気にしなくても次元が異なっていますから影響されません(ものにもよりますけど)。

都会には色々な悪霊が漂っていて人々は知らずにその悪霊を通り抜けたりしていますけど、そういう時、自分の波動が低いと多少ながら同調して気分が落ち込んだりします。ですけど、自分の波動が高ければ影響が少ないですし、近くにいるだけでそういう悪霊にエネルギーが与えられて成仏に近づいたりします。

実際、サイキック能力がなければ「知らぬが仏」というもので、街の雑踏の中に悪霊が漂っていて自分がその中にもろに突っ込んでしまって低いオーラを拾ってしまったとしてもたまたま気分が悪くなったとしか思わないでしょうけど、霊視などができると悪霊は奇妙な気持ち悪い姿形をしていますから、それを避けて歩こうとするわけです。

そうして、邪悪なものを避けて生きることが霊視によって可能になるわけですけど、そうしてサイキック能力で見分けて生きていると、実際のところ、「ただ、それだけ」でしかないわけです。邪悪なものを避けて生きていたとして、永久に避け続けることができたとしても、避けることと悟りとは関係ないわけです。

自分の波動が低くて、それでも霊視ができる場合、それは能力開発ですからやろうと思えばできるわけですけど、そのように自分の波動が低いと浮遊霊などが見えてしまって、見えるということは自分の波動がそれに同調しているということですけど、同調している状態ですと、それから影響を受けてしまうわけです。そうして苦しみが生まれてきます。霊視によって見えてしまって苦しみ、悪霊を避けようとして歩くルートを変えたりすることは、割と面倒なわけです。そうしていると、疲れてきたりします。

私のグループソウル繋がりの人生のいくつかにおいてこうして邪悪なものを避ける生活をしてきて、結果、疲れてしまっていたように思います。時に、避けるのに一生懸命になってしまい、次第に邪悪なものに対する抵抗力を失って行ったりします。

それよりは、悟りを目指して、何も見えなくても、何に接触したとしても影響されない、波動の高い人生を目指した方が良いわけです。


■守護霊の雑談を相手の心の声だと勘違いするサイキック

サイキックにも色々なレベルがあって、誰が喋っているのか心の声の見分けがつかない場合がほとんどです。

実際のところ、単に「心の声を聞く」だけであれば大勢の人がすることができて、そこまで大したことでもないわけですけど、元々読めなかった人が読めるようになったりすると大したことだと勘違いすることがあります。実際のところ、特に女性は感覚が鋭くて親しい人の心の声を読み取ったりしています。これは人もよりますし、付き合う人や家族にもよるのですけど、家族の間で心を読み合って生活するなんてことは割と普通かなと私なんかは思いますけど、そうは言いましても世間を見ますと心が全く読めなかったりする人も多そうな感じですので、これは人によると思います。

そうして対面ですと相手の心の声かなぁ、と感覚でわかるわけですけど、そういう時、相手のことをよく理解しているのならば本当にその人が発している心の声かどうかも感覚として見分けがつくわけです。

一方、相手とそこまで理解し合っていない場合、あるいは、単に営業トークで付き合っている程度の関係の場合など、それほどの付き合いでもない場合、例え相手の心の声が聞こえてきたとしても、それが本当に当人の言葉かどうか判別がつかなかったりするのですけど、そこまで勘が鋭くない人の場合、ただ単純に、相手の心の声だと勘違いしてしまう人も割と多いように思います。

見えない存在というのは色々で、狐が化かしたりというのはそれほどないにせよ、生霊が悪戯をしたりあの世の世界の人がちょっと話しかけてきたり、というのはよくあるわけです。そういう時、声が聞こえると「神様からの声」と勘違いしてしまうこともありますけど、大抵の場合は、単に霊人から話しかけられてきただけだったりします。

守護霊の雑談なんかもそうで、対話相手について守護霊がワイワイ井戸端会議をしていると、ふと、その声が対談相手に届いたりして、そうすると、対談相手は、まるでこちらがそのことを心の中で思っているかのように勘違いしてしまうことがあるわけです。

実際は守護霊が井戸端会議しているわけですけど、サイキックだとしても、大抵の場合は単に「不意に」聞こえてくるだけで、その発信源まで正確に把握できないことがほとんどのように思います。

マニプラやスワディスタナのチャクラが活性化されているくらいの段階ですとなかなか細かなところまでは判別できなくて、特にスワディスタナは無意識のチャクラですから不意に聞こえてくることがあったとしても、それに対して深いところまで判別できないのです。

大抵、霊聴や心の声を聞いたとしてもスワディスタナで不意に聞こえるくらいで、誰が喋っていることなのか判別できないことがほとんどのように思います。

実際このようなことが最近あって、そのとき私はとあるスピリチュアルのセッションで女の人と雑談をしていたのですけど、私の後ろで井戸端会議をしていた私の過去生の妻たちがその女の人のことを調べていて、その過去妻は昭和妻ですのでその価値観で「なんなの、この子。家事もしないで旦那を放っておいてこんな遠くまで出歩いていて」みたいに噂していてその女の人は過去妻たちに気に入られていなくて評判悪かったのですけど、その言葉をふと聞いた相手が、まるで私が心の中でそう思ったかのように勘違いしたらしく、いきなりそのことでブチギレ始めたのです。私は最初、言っていることが理解できなくて意味不明に感じていたのですけど、ちょっと後で私の見えないガイドに教えてもらったところによると、どうやらそういうことだったようです。多少ながらスピリチュアルをかじったところで、細かいところはわからなかったりするわけです。その女の人は自分のスピリチュアルに大層自信があったみたいですけど、それなりに自信があったとしても、この程度だったりします。どんな理由があるにせよヒステリーな女は私は嫌いで避けますのでその女の人とはもうほとんど関係ないのですけど、そういうこともありましたね。

ちゃんと(霊的な)視覚で(肉体の視覚では)見えない存在を認識した上で、誰が言っているのかを(霊的な)視覚としての映像として認識しつつ(霊聴としての)言葉の感じから誰が喋っているかを判別できるようになるまではこの種の混乱は無くならないように思います。霊的、とは言っても、要は「感じること」な訳です。感じることで見える気がする、聞こえる気がする、という感じる感覚で見分ける、判別するわけです。