サイキック能力に興味を失うとサイキック能力を失う

2022-10-28
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

人は時に、サイキック能力が高まれば悟ることができる、というような誤解をしがちですけど、実際のところ、高次の次元になるとサイキック能力というのは存在しないのです。というと語弊があるかもしれませんけど、高次の次元には、人々が想像するような、わかりやすい物理的あるいは現世利益的なサイキック能力は存在しないわけです。

サイキック能力は主にアストラル界(思いの世界、気の次元、エーテル、ヨーガでいうプラーナ)を扱うもので、それは物理的なものです。その一つ上のコーザル界(カーラナ、原因)になってもまだ物理的なものですけど物理的性質は弱まってきて、現世利益的な性質が薄れてゆきます。

それも終わりではなくて、その先にはヨーガでいうプルシャ、あるいはヴェーダンタでいうアートマン(真我)があるわけですけど、これは純粋精神(プルシャ)だったりして、それはもはや物質ではないのです。物質ではないのですから、現実に働きかけるという意味でのサイキックとは無縁なお話なわけです。

悟りとは、物質界を超えてプルシャあるいはアートマン(真我)へと至る、というお話なわけで、一方、サイキックはアストラル界で現実(特に物質)に対して何かを働きかける、というお話なわけですから、かなり違うお話なわけです。

ですから、そもそもサイキックと悟りとはそこまで関係はないのですけど、時に、サイキックだから悟っているとかいう勘違いをしたりします。

確かに、サイキックであることは時に悟りの基礎にはなることはありますし、それなりの悟りの状態にそれなりのサイキックはつきものですけど、サイキックだからと言って悟っているとは限らないわけです。

実際のところ、サイキック能力というものは転生を重ねるごとにノウハウが溜まってきて上達してくるわけですけど、波動が高くなると、そういう能力に興味を失っていって、次第に、能力がないかのような感じになってきます。それでも思いだせば使えたりしますけど、あまり能力というものが気にならなくなってくるわけです。

悟りが高まってもいないのにサイキック能力が開花したら刺激が強くなって苦しむだけだ、みたいなことはよく言われますし、それはその通りかと思います。

サイキック能力を使う人生を転生の中で何回も当たり前のように行なっていると、やがて、能力のない生き方を選ぶ時がやってきます。これは、どうしてそうなるのか理解が難しいかもしれませんけど、霊界には特殊なマントがあって、アストラル能力を封じて霊視や霊聴を無くしてから転生するという選択をする段階があるのです。

それは例えるなら、転生の経験が豊富な魂が手足や五感のうちいずれかがない状態で障害者として難しい人生を送ることで急激な成長を遂げようとするようなもので、サイキック能力を封じることで成長の壁を突破しようとする時があります。

(続きます)