(同テーマ&時系列の次記事)認知が歪んでいる人たちを浄化する

不道徳な人の言論パターン


不道徳な人のドヤりパターンとしては、まず、以前に述べましたように拡大解釈(あるいは論理の飛躍)で特殊なケースを言って相手を混乱あるいは黙らせます。

その後、相手がその論理の飛躍に飛び付いてきた場合は特殊ケースだけを扱って、特殊ケースが如何に正しいかを論じます。特殊ケースですから、それほど異論はないわけです。

あるいは、相手が論理の飛躍そのものに対して指摘してきた場合、その言説は無視します。この場合でも同様に、如何に自分の特殊ケースが正しいかを論じるかドヤります。

「話の繋がり」「論理の飛躍」みたいなところが話題に出たら何某かで誤魔化してきます。例えば「(ゲラゲラ笑いながら)何を訳のわからないことを言っているのか」と馬鹿にするパターンが1つ、あるいは「こんな簡単なこともわからないのか」と言って、特殊ケースだけを論じさせようとしながら馬鹿にするパターンが1つ。他のパターンとしては、(話が繋がっていなくても)一般論をとうとうと語って如何に自分が正しいかを納得させる、というパターンなどがあります。

このように、一見すると正しい論舌のように見えて何かおかしい、違和感のある場合において、議論の土台に対し、以下のような話の展開をするパターンが見て取れる訳です。

・議題の前提条件 → 特殊ケースによる否定あるいは肯定(自分の立場に基づく)→ 一般化

一般の話になった時には議題の前提条件は既に忘れ去られていて、あまり関係なくなっていて、既に話題は一般化の話になっていますから、特殊ケースも否定することは難しくて(だから特殊ケースである訳ですけど)、更には、一般的なお話というのも否定するのが難しい訳です。

こういうお話を聞くと、特に若い人は「なんて頭のいい人なんだ」と思ってしまうかもしれませんけど、割とこの種のパターンは詐欺師がよく使う手法だったりします。

そもそも、最初の議題は全く解決していませんよね。

なんとなくわかった気になって、結局、問題は先送りあるいは全く解決できていないのです。

それでいて印象としては「何か凄い議論をした気がする」と錯覚させられる・・・。自分もその凄さを目の当たりにしてる錯覚が生まれて、何か自分が特別な知識を知ったかのように思わされる・・・。だからYoutubeでその種のドヤり番組が人気になる訳です。

ですけど、繰り返しになりますけど、全く問題が解決されていないことも多い訳です。

結局、仕事とか、問題をしっかりと解決しなくてはどうしようもない場面ではこの種の手法は全く使えなくて、Youtubeみたいに娯楽の場(あるいは詐欺の交渉術)でしか使い道はない訳です。

仕事の場でこの種のお話をする人は、結局最後は誤魔化して逃げてしまうか、あるいは、「それはもう解決しています」(解決していないのに)とか言ってうやむやにしてしまいます。仕事だと出禁になってもおかしくないお話なわけです。普通の会社なら、こんなの許さないですよ。

議論というのは問題の解決のためにあるのに、Youtubeでは議題の立て方もおかしかったりします。問題解決というよりは好みの選択みたいなものだったりします。Youtuberは「人生は時間潰し」みたいなことも言ったりしますけど、それなら最初から議論なんてしない方が人々を惑わせなくて良いと思います。物理的に危害を加える人はカルマを背負いますけど、精神的に他人を操ったり混乱させる人はもっと強い深い業を背負うことになります。本人は呑気で気にしていないかもしれませんけど。

それで、そんな不道徳な人に対して我々はどうすればいいかというと、もう、同じ対処しかなくて、結局は「不道徳な人とは、付き合わない」「不道徳な人は、無視する」、これしかないわけです。単純なお話です。


問題が起きていなければ物事に良い悪いも存在しない


スピリチュアル的に言えば、問題が起きていないのであれば物事はどちらだって良いとも言える訳です。議題があったとして、どちらが正しいかとかどちらが正しいかということは基本的には存在しなくて、時と場合に応じて良い悪いは変化するわけで、問題が生じていなければどちらでも良いわけです。それを、わざわざ良い悪いを作り出した上に他人の言説をあげつらって自分を他人より優位に立たせようとする一部の論者がいて、結局、そういう人とは付き合わないのが良いのです。

物事に対して、どちらの方がより問題が少なくて社会がうまく回るのか、というお話はありますけど、何にでも特殊ケースというのはあって、特殊ケースがあるから基本的な道徳やルールが間違っているかというと、もちろんそうではないわけですけど、特殊ケースを挙げて基本ルールがおかしいと指摘する人たちは、結局、自己肯定したいがためにそう言っていたり、あるいは、不道徳な人たちなわけですから、相手にしなければ良いわけです。


環境問題も拡大解釈の1パターン(余談)


エゴが自己肯定するために拡大解釈してドヤるというパターンを見てきましたけど、実は、環境問題も同じ拡大解釈のパターンだったりします。

・温暖化 → 一部の特殊ケースを取り上げる(ツバルの海面上昇、グレートバリアリーフの珊瑚礁の消滅、異常気象等) → CO2が温暖化の原因だと一般化する
・ごみ問題 → 一部の特殊ケースを取り上げる(発展途上国のゴミの山など、海のマイクロプラスチック問題) → 温暖化の原因だと一般化する

詐欺師パターンに見事に一致しています。

温暖化は温暖化のお話ですし、海面上昇は海面上昇のお話です。珊瑚礁の消滅は温暖化が原因だとして、それはそのお話です。異常気象とか言っていますけど、そもそも地球の気候は数百年とか1000年の単位で大きく変わってきました。たった100年の間だって大きく変わるのです。それを、原因を「温暖化」みたいに単純に一般化するのは詐欺師がすることです。

現実は現実です。現実を受け入れることは大前提です。温暖化にせよ、気温が上昇していたり、というのはあるでしょう。その、事実のお話と、「原因と結果」という論理関係・相互関係のお話は別なのです。現実は正しいとしても、論理関係が正しいかというと、必ずしもそうではないわけです。

擬似相関というお話があって、たまたま相関関係があるように見えて実は全く関係がない、というお話はそこら中にあるわけです。

もしかしたら本当に温暖化が二酸化炭素が原因かもしれません。その可能性は排除できません。しかし、必ずそれが原因だということは言えないわけです。その、よくわからないことに対して宣伝をして、まるで現実かのように人々が認知をしているわけです。太陽が地球の周りを回っていると思っていた中世の人と、現代の二酸化炭素&温暖化信者が、どのくらい違うというのでしょうか。

ゴミ問題にしても、ゴミはゴミの問題です。リサイクルはリサイクルの問題です。マイクロプラスチック問題はその問題です。何故かゴミの話から「温暖化の原因」みたいに一般化がされています。

さすがにこの現代で、宣伝している側までもが本気でそれを信じてやっているとは思えません。となると、これはもう、温暖化を宣伝したい詐欺師がいるということです。温暖化をいうことで利益を享受する人たちがいて、温暖化を宣伝したいということです。本気で二酸化炭素が原因とは思っていなくても、利益のためにそう宣伝している人がいると仮説を立てた方がすっきりします。あくまでも仮説です。

実のところYoutubeだけでなくこの種の詐欺師は多くいて、温暖化みたいな「わかりやすいお話」は、実は全く論旨が繋がっていなかったりします。それでいて世界的に宣伝されているということは、世界的に宣伝したい何かの団体が背後で動いているということです。そのように推測できます。

排出権取引なんて馬鹿馬鹿しいでしょう。そもそも評価式すらまともに出せないところに金額をつけるなんて、詐欺師のやることです。

もちろん、リサイクルはリサイクルそれのみで成り立ちますのでそれは普通に必要ですけど、私が言っているのは、論旨を拡大解釈して温暖化みたいに無理やり結び付けるのが詐欺師のすることだ、ということです。

こんなお話が、世間には蔓延しているわけです。

社会活動家であればこのような状況を改善するとか色々あるのでしょうけど、スピリチュアルの立場としては基本は「不道徳な人とは、付き合わない」でありますので、自分に大きな不利益を被らない限りは、基本は無視するのが良いわけです。


認知が歪むのとキレるのと鬱はセット


エゴの自己肯定のパターンに入ると認知が歪むのですが、そうして歪んだ認知がますます歪みを強めた時、歪んだ認知は本人にとってはあたかも真実のような幻想になっているのですが、そうして出来上がった歪んだ認知としての本人にとってだけの真実を他者から否定された時、それはつまり実は否定ではなくて真実を伝えられただけなのですが、そのように、本人にとっては否定という形を持って真実を伝えられた場合、本人にとっては歪んだ認知の否定としてではなく真実の否定として受け止められるわけです。

そこまで行かなくて本人が自分の認知の歪みに気づいている場合もありますけど、それなりに酷い場合は認知がかなり歪んでいて、それを真実だと思い込んでいたりします。

その認知の歪みを他人から指摘された場合、歪んだ認知を肯定し続けるために拒否反応が体に出るわけです。

そしてそれは、他者との関係性でどのような反応が出るのかが決まって、相手よりも自分が立場的に強い場合は切れて怒鳴ったりする行動に出ますし、相手の方が強い場合は鬱になったりします。

怒鳴る場合は(酷いことを言われたから怒鳴っているのだという理屈で)被害者面しますし、鬱になる場合も同様に(なんて酷いことを言う人なのだと言う理屈で)被害者面します。実際、本人は本当に自分が被害者で、自分の認知を否定してくる他者はとても酷い人だと思い込んでいたりします。めんどくさいでしょう。

このような人に、何を言っても大抵は無駄ですし、指摘してあげたのにも関わらずキレられたりして加害者にされかねないので、助け損なわけです。

ここでも、対処法は同じです。不道徳な人とは、関わりを持たないこと。それだけのことです。

歪んだ認知を正そうとしてもキレたり鬱になって被害者だと言うのであれば、もはや助けようがありません。と、言いますか、本人に自分の歪んだ認知を治すつもりがないのにわざわざ他人がそれを指摘してあげて真実を突き付けるなど、時に余計なお世話だったりするわけです。そうして余計なお世話をした結果、被害者面されて逆に攻撃の対象にされたりしますから、結局、そのように不道徳な人とは付き合わない方が良いのです。

認知が歪んでいる人は、時にキレて、時に鬱になったりを繰り返します。自己肯定のループの中に組み込まれていると言っても良いかもしれませんけど、順番があるわけでもなくて、不意にキレたり鬱になったりします。

ちょっと当人の認知と違うことを言ったりするとキレるという行動に出るわけですけど、その沸点は基本的に非常に低くて、他者からするとどこがキレるポイントかがとてもわかりにくい状態なわけです。他者からすると当人の認知のどこが歪んでいるかなんてなかなかわかりませんから、慣れないと対処のしようがないわけです。

そのような人とは付き合わないのが一番ですけど、社会通念上の付き合いがあるのであればキレられない程度に社交辞令するくらいがいいかなと思います。そういう人は時に全てを「はい。そうです。」と完全肯定されて甘やかされて更に認知を歪ませることで更に怒りの沸点を下げてきますから、最初から付き合わない方が良いのです。

誰かがこうしてキレたり鬱になったりすると被害者として振る舞うことがあるのですけど、そうして、逆に、その原因になった他者が加害者扱いされたりしてしまうわけです。真実を伝えた筈の人が加害者扱いされてしまうという状況になるとすれば、そうして損な役回りをしたいという人がそれほどいるわけもなく、めんどくさがられて、認知の歪みは放置されてしまうわけです。

こういう例はどこにでもありますけど、地域差はあるかなと思います。


少し怒鳴る、とりあえず褒める、酒、人情はその中間


完全にブチギレるとまでは行かなくても、少し怒鳴ったり、酒、あるいは人情というのは実はその中間だったりします。多少は社交辞令に則っていつつも、実のところ、根本というところは同じだったりします。このくらいですと会社での付き合い程度ではよくあることで、あまり深い付き合いをせずに社交辞令をしていればいいかなと思います。

人情というと良いような印象を受けるかもしれませんけど、スピリチュアル的に言えば「感情」というものは肉体の次の段階で、いわゆるアストラル界に属していて、そこまで高いレベルのお話ではないのです。とは言いましても物理的な唯物論的なお話から一歩進んでいますので、それよりはレベルの高いお話になります。ですから、物理的な唯物論に比べるとそこまで悪いものではないのですけど、その次の段階であるコーザル(原因、カーラナ)の段階(あるいは更に次のプルシャ)ですともっと光に溢れて愛が深まりますので、その前段階の「感情」としての表現は、まだまだ最初のステップなわけです。

物理的なものしか見えていなくて認知を歪ませて真実を違って捉えている段階から、人情によって多少は真実を見ようと足掻いているのですよね。キレる人たちが完全に闇落ちしているかというとそういう場合だけでもなくて時に何故か人情話のことは好きだったりしますけど、実のところ、こういうことだったりします。ですから、当人にとっては人情は無駄ではないのですけど、自分がその段階にいないのであれば、わざわざ他人の人情話に付き合ってあげる必要もないわけです。

スピリチュアルに生きている人からしたら、誰かが人情話をしているからと言っても、完全にいい人だと思って油断しないことです。次の段階に行けばそれなりにトータルなワンネスの愛になりますけど、人情というものは感情をベースにしていて、愛としては不完全なわけです。

キレるなんてのは割とわかりやすいですけど、これは別バリエーションになるわけです。

また違ったバリエーションとして、「(とりあえず)相手に同意をする」「(とりあえず)相手を褒めておく」「(とりあえず)相手を認めておく」みたいなパターンもあって、これは場合によりけりですけど、結局は自分のエゴを正当化して守るために自分の歪んだ認知を変えずにとりあえず相手と距離を取るための手法として用いられています。ですから、ちょっとでも違和感のある相手から「褒められた」からと言って油断しないことです。同様に、何か認められたからと言って、油断しないことです。意見に(一見すると)同意されたかのように見えたところで、油断しないことです。それは当人のエゴを守るために(とりあえず)同意したに過ぎないかもしれないからです。結局、話に一貫性がない、ということになりますので、いくら同意されたり褒められたりしても、また話が堂々巡りになったりして、話が進んでいかなかったりするわけです。であれば、違和感のある相手とは、そもそも付き合わない方が良い、ということになります。

この時の順番としては「拡大解釈の元、特殊ケースで相手の主張を否定」→「一般化で自分の主張を肯定」までは大体同じですけどその後、うまく反論されたりして言い返せなくなたら上記のいずれかの選択を取るわけです。それは本当に同意しているわけではなくて、ただ単に自分のエゴと自己肯定のループを継続させるために相手の主張を「範囲外(スコープ外)」にしてしまうわけです。相手の主張を否定するために「そんなの知らない」という態度に出ることもありますけど、とりあえず肯定しておいて実は態度で「よくわからない」みたいな感じで蚊帳の外に置いたりします。

本当に問題を解決しなくてはならないのだとしたらこんな言説は通用しませんけど、Youtubeで言葉遊びをしているだけでしたら全然これで「なんだか凄い議論」「議論の天才」かのような錯覚を生み出し、かつ、本人のエゴは守られ、(その本人のエゴの)自己肯定のループは継続されるわけです。そういう場合、相手の主張なんて本人は覚えていなくて、何もそこには「同意」はなくて、ただ単に、言説をかわす為だけに上記のような選択をとるわけです。結局、「結果」「結論」がないのですよね。それでいて、何か凄そうな印象だけを与えることができるので本人はご満悦なわけです。これが詐欺的手法だと気がつかない人たちが周囲から持ち上げて、本人のエゴが益々強まるわけです。自信300%で「自分は完璧」と思う「成功者(かのように見える)」人が生まれたりします。

そんなのと付き合うのは時間の無駄ですし、基本である「不道徳な人とは付き合わない」、という原則ではここでも生かされるわけです。話が通じない人、と言い換えても良いと思います。

やっぱり、見る目ですよね。何事も、見る目。特に、人を見る目がないと人生を棒に振ります。

あるいは、それほど頭が良くない場合はただ単にゲラゲラ理由なく笑ってけなして蚊帳の外に置こうとします。これはわかりやすいですので、あまり悩まずに済みますけど、学校の教室とか田舎のコミュニティ等でなかなか逃げにくい環境にいる時はこれが一番厄介だったりします。理屈が全く通用しないで「うるせえ!!!」と怒鳴ってくるのも同じたちですね。付き合わないのが一番なのです。


歪んだ認知に執拗に同意を迫られても決して同意しないこと


この種の人には注意が必要で、他者をも自分の歪んだ認知の世界に巻き込もうとします。マインドコントールもこの類で、歪んだ認知を他者に押し付けるわけです。そしてそれは「感情」に属するアストラル界というよりももう1つ上のコーザル界(原因、カーラナ)の段階で押しつけられることがあって、そうなると、なかなかその歪んだ認知から抜け出すのが困難だったりします。感情だけなら同意するかどうかのお話でその場限りのことが多いのですけど、その上のコーザルはスピリチュアル的には一応は一般的に良い方向ではあるのですけどこの種の歪んだ認知を持っている人には注意が必要で、執拗にあれこれ言って同意を迫ったりする際にコーザル(原因)によって「同意」が他者との間でなされてしまうと、歪んだ認知が他者へと流れ込んでゆくことになり、他人をも巻き込んで歪んだ認知の世界に生きることになります。

こうなると、巻き込まれた方は数十年単位でその歪んだ認知に苦しめられるようになります。一方、その「同意」によって「まともな認知」を注ぎ込まれた、元々歪んだ認知を持っている人は、そのエネルギーヴァンパイアの行為によって「ちょっと元気」になって「ちょっと良い人」になったりします。巻き込まれた方はたまったものではなくて、あれこれ執拗に迫ってきて無理やり歪んだ認知に同意させられた挙句に、汚いオーラの始末役にもさせられて、全くいいことがないのです。

執拗に迫られれたとしても拒否するか、そもそも付き合わないのが良いのです。

例えば「怒鳴る」「キレる」→「(一見)人情(実は偽善だったりもします)」→ 「執拗に同意を迫る」というループを繰り返して、同意するまでしつこくつきまとってきます。

結局、人情などで一見すると良い人に見えたとしても、そこにキレたり鬱の前兆が見えたとしたらあまり深い付き合いをしないことです。やはり、「不道徳な人とは、関わり合いを持たないこと」という法則がここでも適用されるわけです。可能なら、全く付き合わないという選択肢もありです。

執拗に迫られて、だんだん疲れてきたりして、ついつい「同意」したりしてしまうと、そこに「エネルギー・ルート」が細い線あるいはパイプのように繋がれてしまって、そこから汚いオーラが流れ込んできて、逆に、向こうにこちらのオーラを渡してしまうことになります。

そうなると、自分の認知が歪んでしまって相手の言うことが(実は歪んだ認知だったとしても)正しいかのように思ってしまうようになったり、自分には全く心当たりのなかったことで不意にキレたり鬱になったりするようになってしまいます。相手と自分とのオーラが、一部、交換されてしまったわけです。エネルギー・ヴァンパイアはエネルギーを吸うときに自分の汚いオーラを他人に押し付けてきますから、単にエネルギーを奪われるだけでなく、葛藤やトラウマの後始末まで押し付けられるわけです。

エネルギー・ヴァンパイアにやられてしまうと数十年単位で苦しめられることを考えれば、気づいたらすぐにでも「逃げる」ことが重要です。エネルギー・ヴァンパイアは他者からエネルギーや「良い人オーラ」を常に奪っていないと生きていけませんから、奪う相手に逃げられ続けたらエネルギーが枯渇して破滅しますから、そんな人は放っておけばいいのです。

迷える人を救わないなんて、なんて酷いのか、と思われるかもしれませんけど、そもそもこの世界は「自由」が保障されていますし、自分の意志としてスピリチュアルを高めようと思ってもいない人を助ける必要はないわけです。往々にしてそういうエネルギー・ヴァンパイアは偽善者だったりしますし、偽善者を助けても全くいいことがないわけです。

キリストくらいに愛が強ければ助けられるかもしれませんけど、普通はそんな人を助けるのは無理なわけですから、逃げて付き合わなければ良いのです。逃げて非難してくるのはエネルギー・ヴァンパイア本人あるいは古い価値観に縛られている人くらいなものですので、気にすることはないわけです。



(同テーマ&時系列の次記事)認知が歪んでいる人たちを浄化する