エネルギーヴァンパイアと不道徳な人の有り様を理解して、付き合わない

2022-08-24 記載
トピック:スピリチュアル: 呪いとトラウマ

▪️エネルギーヴァンパイアはオーラの防御を破ろうと執拗に攻撃してくる

人は誰でもオーラの防御に基本的には守られていて、ある程度までは他人の攻撃に耐性があります。これは特に何もしなくても生まれた時にそれなりに核ができていて、自分と他人を隔てる壁にもなり、一方、防御壁にもなります。

このオーラの防御の壁が破られると、そこからエネルギーが周囲に拡散するようになります。そして、エネルギーヴァンパイアはそのエネルギーを吸い取ります。

エネルギーヴァンパイアは自分で光(エネルギー)を作り出す能力が弱くて、他人から奪わないとエネルギーが足りなくなってしまいますから常に他人あるいは食べ物でエネルギーを補給するわけですけど、食べ物よりも人間の方が高いエネルギーを持っているわけです。ですから、効率よくエネルギーを補給するために他者を執拗に精神的に攻撃してオーラの防御を破ってくるわけです。

一番最初に狙われるのが家族で、兄弟や親あるいは子供がエネルギーヴァンパイアである場合もあって、いじめそれ自体というよりも、実のところオーラの防御を破ってエネルギーを奪うことが(本人は気づいていないとしても)いじめの目的だったりするわけです。いじめることそれ自体の直接的原因は習慣だったり妬みだったり嫉妬だったりと色々ですけど、そのいじめそれ自体はエゴが拡大して起こるものだとして、その結果としては、エネルギーを奪う、というところに行き着くわけです。

嫉妬や怒り、あるいは妬みなどでフラストレーションが貯まるとオーラが歪んだりオーラの中に黒い雲のようなものが増えてきて、次第にそれは厚い雲のように覆い被さって光(エネルギー)から遮断されていきます。実は周囲にエネルギーは常にあって補給できるのですけど補給できなくなるのでエネルギーが枯渇するわけです。悪くなるとオーラが真っ黒なほどに重くなって、他人から大量のエネルギーを奪わないと生きてゆけなくなってしまうわけです。

エゴが拡大して自分のオーラが歪んだりするくらいならまだ可愛いものですけど、オーラが真っ黒になるとかなり危ないです。

そこまで行かなくても中間くらいの場合でも十分に虐めやエネルギーヴァンパイアは発生して、それは人と人との間のエネルギーのレベルの差によるもので、エネルギーが高いところからエネルギーを奪おうという欲求が虐めという形を取り、その結果として、オーラの防御を破ろうとしてくるわけです。


▪️オーラの防御を破られるとどうなるか
オーラの防御を破られると、破られた方はかなり大変です。

・他人の精神的な攻撃に対してかなり弱くなります。
・オーラの防御を修復するのに(通常)数十年はかかります。一生修復できない人も多いです。
・周囲にエネルギーを拡散するので、かなり疲れます(周囲にいる人は元気になります)。
・霊媒体質になって、悪霊が取り憑くだけでなく、体内に入り込んでくるようになります。オーラの触覚みたいなものがチャクラにまで入り込んできて、チャクラから直接的にエネルギーを継続的に奪われたりします。

他人とかの場合ですとここまで行かないことが多いのですけど、一番気をつけるべきは家族と仕事で常に近くにいる人たちで、次に気をつけるのが親戚や近所の人などですね。

家族で毎日執拗に攻撃を受けているとオーラの防御が破られて、家族が元気になる一方で自分が疲れたり霊媒体質になって悪霊に取り憑かれてエネルギーを奪われ続ける日々になるわけです。そして、オーラの防御を回復するにはそれらのエネルギーヴァンパイアから離れて安全な環境になってから更に(通常は)数十年かかります。

実のところこういう人は世の中に多くいて、仕事で疲れている人の多くはオーラの防御が破られていて、上司や同僚に常にオーラを吸われている状態になっていたりします。本人が知らないだけです。オーラを奪っている方も自覚はなくて、元気がない人を見て「なんてダメなやつなんだ」と言ったりしますけど、実のところ、オーラを奪っている人は他人のオーラに依存していますから、そうして「ダメな人」と思っていた人が部署移動あるいは退職するとそのエネルギーヴァンパイアのエネルギーが枯渇するようになって他の獲物を探し始めるわけです。なんとなく職場にそれらしき人の心当たりがあったりするのではないでしょうか。


▪️家族であってもエネルギーヴァンパイアとは付き合わない
家族がエネルギーヴァンパイアであれば、仏教やヨーガで言われているように「不道徳な人とは付き合わない」というのが基本です。家族や仕事などではそうも行かない場合も多いでしょうが、虐めやいじりなどに対しては早くから察知して、家族であっても付き合いを最小限にすることです。細かいことでいちいちゲラゲラ笑ってきてイラつかせたり、食事の時に食べ物を取ってゲラゲラ笑って済ませたり、何回も言って言動に従わせようとしたり、家族ですから時間をかけて防御を少しづつ破ってくるわけです。近所のしつこい人も同様です。

こういうことを言うと「家族と付き合わないなんて、なんて酷いことを言う人なんだ」と思うかもしれませんけど、エネルギーヴァンパイアでオーラが重苦しくて近くに寄るだけでこちらが疲れるような人と親しく付き合うのは間違っている場合もあるわけです。本来なら、そう言う場合は子供であれば施設や団体などに保護されて然るべきで、家族の元でエネルギーを奪われる方が数十年単位でその人を苦しめる結果になるわけです。

本来、叱咤されるべきはエネルギーヴァンパイアである筈なのに、被害者の方が「なんて酷い人なんだ」とか言われて自分が悪いかのように思い込まされていて、エネルギーを奪う側の立場が正当化されているわけです。そんな状況は間違っていますので、エネルギーを奪われている人は「逃げる」努力をして、まずは環境を変えることです。その最初の「逃げる」一歩すら足が重くて動かせない場合も多いかもしれませんけど、流石にその最初の一歩は自分の足で動く必要があって、その後は他人の助けを借りてもいいですけど自分の意志としてまずは「これは間違っている」という(うっすらとでも良いので)判断をして、動いてみることです。時にマインドコントロールされていますので「これは正しいのだろうか」と自分の行動を疑問視するかもしれなくて、そういう場合は、しっかりと考えてみることです。実際、本当に動くのであれば、誰にどのようなことを言われたのか、ノートにメモをつけたり録音して記録を取ることです。そうすることで客観的な事実になります。

何が正くて何が正しくないのか。他人から言われた「間違ったしつけ」が自分の行動を制限している時もあって、その時は「正しいしつけ」でそれを修正する必要があるわけです。マインドコントロールでエネルギーヴァンパイアの仕組みが正当化されていたとしても、逃げると決めたら動いてみて、そうして人は束縛から解放され、解放されるとようやく「ああ、やっぱり私は束縛されていたのだ」と、抜け出してようやく現実が見えてくるわけです。


▪️自己肯定の2つのループ

愛で生きている人と、エゴで生きている人。

それぞれ自己肯定のループが起こるのですけど、その有り様は全く異なるように思います。一般的な道徳や教養で「自己肯定」は良いこととされておりますけど、エゴの自己肯定ループは悪循環になりがちなわけです。

愛で生きている人は、自己肯定がそのまま他者の肯定に繋がります。自他の区別がない(あるいは区別が薄い)ために、他者をも肯定することができます。

一方、エゴで生きている人は、自己肯定とは他者との区別になります。特に最近テレビやYoutubeで顕著なのがこちらのループで、「拡大解釈(あるいは日本語を間違えて解釈) → 自己肯定できるものが1つでもあれば一点突破する」と言う自己肯定ループが目立つように思います。

愛で生きている人は真実が見えます。

一方、エゴで生きている人は自分の「想像」の世界に生きています。ですから、真実よりも、自分の想像の世界で何がしか自分を肯定できればそれで良いのです。

昔ならこういう人は相手にされなかったものですけど、最初はテレビで「面白い」とされる論舌で人々を混乱させ、その路線を強調したYoutuberが自己肯定のために何がしか自分が正しいと思われる論舌を「それだけ強調」して何度も繰り返し主張し、視聴者が「そうだそうだ」と思うことで一般大衆がそうであると思い込むわけです。

愛で生きていると、そもそも、論舌で自己肯定をする必要すらなくて、そもそも、勝ち負けとかあまり関係ないですし、大切なのは真実であって勝ち負けではないわけです。

愛の自己肯定ループは、自己肯定すればするほど愛が深まって自己肯定も高まります。自己とは他人とほぼ同じようなものですから、自己肯定と他者への肯定とが共に高まって、愛も高まるわけです。そのループがどんどんと続いて、愛が強まってゆくわけです。これが愛のループです。


▪️エゴによる自己肯定のループ

一方、エゴによる自己肯定のループは他者との区別及び溝が深まる方向に作用し、愛が減り、他者との分離が強まり、自分と他人を比べて自分が優位に立つために拡大解釈や捻じ曲げ解釈を駆使して真実よりも想像を優先させ、認知を歪ませ、緊張が深まり、その結果、優越感の表情が極まって(時に下品になり)、エゴの自己肯定が深まり、エゴが強くなる、という負のループを繰り返すわけです。人によってはこう言う人を「立派」と言ったりしますけど、それは蓼食う虫も好き好きということですので、好きにすればいいと思います。いわゆる立身出世型というものですね。エゴが拡大すれば出世できますから、それもまた人生です。

私は別にこう言う人生を否定しているわけではなくて、全ては選択ですから、このような人生を生きたければ他者と分離をし続ければエゴが拡大して自尊心が深まって、世間で言う、いわゆる「立派」な人生を送ることができます。そうしたければそうすればよくて、自由が保障されているこの宇宙で、自分が目指すものに誰しもがなれるわけです。

ただ、私が目指すところとは違いますけど、これが良いと思うなら好きにすればいいわけです。

経営者とかですと多少は見えっぱりでホラ吹きの方が金持ちになったりします。ですけど、それがスピリチュアル的に成長しているかどうかとはほとんど関係がないか、あるいは、全くの逆だったりするわけです。

20年くらい前にNHKの記者と話をしたことがあって、私が「NHKの中には捏造報道や中韓よりの人がいますよね」みたいなことを言ったら、その記者は「NHKの人全員が捏造報道をするとか全員が中韓寄りだなんていう貴方はおかしなことを言う人」みたいに言われたことがあります。そもそもNHK記者は日本語のプロである筈で、私が「NHKの中にはそう言う人がいる」と言ったのは全員ではなくて一部の話をしているだけなのに、その言葉を拡大解釈あるいは捻じ曲げて解釈して「全員が中韓寄りだとか言う人はおかしい」と言うお話にすり替えて、そのことでエゴの自己肯定をしたわけです。認知がねじ曲がっているわけですね。

素人ならばともかく、マスコミの業界関係者で、しかもNHKに勤めているのですから「言語のプロ」である筈でしょう。その、言葉のプロである記者がこのように意味を捻じ曲げてすり替えの論舌をしているわけです。偏差値が高い学校を出て自尊心が強くて、現実を捻じ曲げてでも自己肯定しなければ自我が崩壊してしまうのでしょう。

まあ、私もその頃は若かったですし、記憶も曖昧なところはありますが。私の態度が相手をイラつかせたかもしれませんし、NHKに対する多少の偏見もあったかもしれませんし、その時は言説の各所からそういうニュアンスを出していたことは否定できませんけど、向こうも相応に話を捻じ曲げてきたわけです。

このようなお話は正常化バイアスとして多少は誰しもが持っているものですけど、私も自分のバイアスが他人に投射されてこのような経験をしたのかなぁ、とも今は解釈しています。

瞑想すればするほど認知が歪まないようになってきて、正常化バイアスのようなものも減ってきて、「ありのまま」を認知できるようになります。それはエゴが減ってくる、と言うことでもあるわけです。


▪️エゴを自己肯定するために拡大解釈してドヤる人たち
最近のYoutubeや掲示板は更に酷くて、議論や話あるいはフィードバックをするときに、相手が全く何も言っていないことをいきなり言ってきてドヤ顔で押し付けがましい話あるいは書き込みをする人が最近は多すぎるわけです。

結局、それは、自己肯定するために何か抜け道を探しているだけなのです。

例えば、「ドンキホーテでよく買い物をする」と言ったら、その返事が「ドンキホーテの弁当は危険だから食わない方がいいぞ(ドヤっ)」みたいな、かすっている程度のお話で教師面の上から目線で言ってくる人がいました。ドンキにはいろいろなものが売っているのにドンキホーテと言っただけでどうして弁当の話が出てくるのかも謎ですし、そもそもその人は業務スーパー大好きで冷凍ハンバーグをよく食べているようですので、ドンキホーテの弁当と業務スーパーの冷凍ハンバーグなんて似たようなものだと思うのですけど、それでいてドンキホーテの弁当ネタでドヤってくる頭の悪い人がいるわけです。ちょっと、相手にできないです。

業務をしている会社とかでこう言う話をすると評価が下がったり、出禁食らったり相手をされなくなってもおかしくない話が、なぜかマスコミ業界とYoutubeみたいなところでは人気になっているわけです。

そう言うことがなぜ起こるかというと、視聴数優先ということはもちろんあるでしょうけど、人として自己肯定のループにはまっているからだと思います。たとえ錯覚であっても言っている側が自己肯定できて、それを見る人も自己肯定できたような気になれるわけです。ですから、よくわかっていな人にとっては「言論の天才」だとか「議論の天才」みたいに見えたりします。ですけど、実際は、ただ単に「拡大解釈 → 抜け道を探す」と言うことをして自己肯定できる点を探しているだけなのですよね。

これは、業務などにおいて実際の問題を解決しなくても良い人は口先三寸でこれで十分だったりするわけです。実際の問題は解決していなくても、易々となんとなく自己肯定できてしまうわけです。業務でも、営業とかなら向いているかもしれませんけどそうして取ってきた仕事は実際に遂行する側が苦労しますから、やはり、営業であったとしてもそのような人を入れるべきではないわけです。最近は特にそうだと思います。

これは、うまく回っているような社会や会社あるいはまともなコミュニティでは相手にされませんけど、Youtubeみたいなところですと視聴者にはこの辺りがよくわかっていない人が大量にいますしエンタメ主導ですから次々に術中にはまって「なんだか凄そうな人」が捏造されるわけです。

この種のお話って、自分の頭で考えたことがあまりなくて受験教育や詰め込み教育ばかりされた人ほどハマりやすい気がしますが、どうでしょうかね。


▪️エゴを守るために認知を歪める人
エゴが拡大していて、自己肯定しなければ自我(エゴ)が崩壊してしまう。だから、エゴが肯定できるところを必死になって探すわけです。エゴが抜け道を探す時、残念ながら、その理屈が本当かどうかはあまり関係がないように思うのです。

その時、以下のような法則があるように思えます。

・まず、トピックそのもので肯定できるかを探る。自分がドヤれるかを探る。どこかで聞いたネタがないかどうかを探す。頭の中の検索に引っかかったらそれを言う。
・トピックでドヤれなかった場合、拡大解釈を試みる。そして、その拡大解釈したスコープで何かドヤれる事例を考える。そして、ドヤる。

こうして、エゴの自己肯定が完結するわけです。

これを言われた方からすると拡大解釈されることを想定していませんから「そんなこと言ってないだろ」と言う戸惑いが最初に来て、相手がどのくらい拡大解釈をしてドヤっているのかを見抜く必要があるため、とても疲れるのです。

真面目に返事をするためには

・まず、相手がどの程度、拡大解釈しているのかを見抜く。
・拡大解釈している中で、どの条件に基づいてドヤっているのかを見抜く。
・拡大解釈とドヤりが正しいかどうかを判断する。

と言うことをしなくてはならないので、とてもめんどくさいのです。

拡大解釈というのは当人にとって単なる自己肯定の手段でしかありませんので、こちらが拡大解釈に対して否定しなければ話を戻してくるかもしれませし、そうではなくまた違うお話をするかもしれませんが、相手は自己肯定を模索しているだけですのでその内容はあまり気にする必要はなかったりします。一方、相手の不可解な拡大解釈に対してこちらが少しでも小馬鹿にした態度を出すならば相手の自己肯定感が下がってしまいますので、相手は例えば拡大解釈に固執して自己肯定しようと躍起になったり、あるいは、別の理屈を出して自己肯定という目的を完遂させようとします。結局、議論というよりは拡大解釈が自己肯定のための手段になっているわけですから、そこまで真面目に相手をする必要はないのですけど、かと言って小馬鹿にする態度を出してしまうと更に面倒なお話になるわけです。

それより、そもそも、そんな拡大解釈でドヤる人は、可能ならば最初から相手をしないのが良いのです。

そのような相手には、ブレずに自分の主張を淡々とするのが基本です。元々の自分の視点を維持したまま、相手の話を軽くスルーした上で、自分の元々の主張に立ち返って、自分の主張を少し違う面から表現し直せば良いのです。相手の目的が議題の解決というよりは自己肯定のための主張でしかないのだとしたらそれに付き合う必要はなくて、ブレずに最初の主張をすれば良いのです。

ただ、それすらも面倒なことがありますので、可能であれば最初から相手にしない方が良いわけです。

あるいは、道徳的な一般論だけ返事をするのも手です。拡大解釈の行き着くところは道徳な訳で、中途半端な拡大解釈をするより、何となく自己肯定したいのならば道徳が向いていたりします。そもそも相手は正確な議論を求めていないのは明らかで、ただ単にドヤって自己肯定したいだけですので、道徳でも話してあげれば勝手に自己肯定してくれることもあります。細かな話にしっかりと返事をすると逆に恨まれる可能性もありますので、あまり真面目に相手をせずに、一般的な道徳のお話をしてあげてスルーするのも良いかなと思います。道徳に納得してくれるならばそれで良しですが、もし道徳に対して理屈がおかしいとか言って否定かつドヤるようならばそこでもまた拡大解釈かつ特殊ケースで抜け道を探すというパターンに当てはまったりしますので、そうなったとしたら、その意見に対してあまり否定せず、スルーして「そういうこともあるかもしれませんね」くらい言って、一面を褒めてあげれば良いと思います。業務のように課題や問題を解決することが目的ではなくて、自己肯定すること自体が目的なわけですから、どうとでもして相手を肯定してあげれば良いわけです。

子供の頃はこの種のくだらないドヤりを身近で何度も聞かされてうんざりしましたけど、言う側は飽きずに言い続けるみたいです。そうしてひたすらに他人を馬鹿にして満足するわけです。Youtubeにはそう言う人がいるかもしれません。その目的は、結局、(エゴの)自己肯定な訳です。

選択できるなら、そんな人の映像は見ない。
選択できるなら、そんな人とは最初から関わらない。

多少の関係が必要な場合、最初の自分の主張からブレない。道徳的な態度に徹する。相手の話に付き合わない。
ヨーガや仏教で言われているように、「不道徳な人とは、関わりを持たないこと」が第一なわけです。

そして、もし付き合わなければならない場合があったら、社会通念状の一般常識に従って道徳的な態度を徹底して、それ以上の付き合いをしないことです。相手から何を言われていじられても無視すること。しつこい場合は別ですけど、基本はこれでいいと思います。

あとは、思考停止しないことですね。不道徳な人はゲラゲラ下品に笑ってきて思考停止を誘ってきますから、まず関わりを持たない方が良いわけですけど、関わってしまった場合でも、思考停止しないのが大切であるわけです。


▪️ひねくれている人を理解したい、という前世からの衝動

私の(グループソウル経由の)過去の記憶によると、これまで何世にも渡って私が疑問だったのが「どうして、特に貧乏人の一部の人はこうも認知がひねくれているのだろうか」と言う点でした。これは当時、私のグループソウルの分霊が住んでいた場所、ヨーロッパが多かったかと思いますが、その場所で貧乏人の多くがひねくれていた、と言うことです。今世でどうこう、と言うことではありませんけど、似た面はあるかと思います。

今回の人生の前までは、そのほぼ全てにおいて、おそらくはそれぞれの人生において生まれた時のスピリチュアルな状態が「今くらい」だったかなぁ、と自覚しています。と、言うことは、(特に貧乏人の)一般人が雑念に悩まされていたり認知が歪んでしまったり、エゴが拡大して自己肯定のループに入ってしまったり、と言うような症状は、今世の前までは、私(のグループソウル全体)は全く理解できなかったわけです。何故なら、そう言う経験がまるでなかったからです。

今世の目的としてはカルマの解消と悟りへの階梯を確かめることの2つが主なものとしてあるわけですけど、そのために、自分自身をどん底の環境に叩き落として一般人の階梯から上がってくる階梯を一つ一つ理解するように努めました。・・・とは言いましても、今世の私としてはただ単に自分の人生を生きているだけですけど、グループソウルが私を分霊として作り出して送り出した意図としては、スピリチュアル階梯が下層の人がどうしてこうもひねくれているのかを理解したい、という意図もあったようです。

それ故に、本来ならば単に捨ててしまったり浄化するだけで済ませていた未浄化のオーラをわざわざ残して実体化させ、分霊として地上に送り出したようです。元々、私の魂というのは火の儀式で浄化されて無に返す筈だった不浄なオーラの集まりだったわけですけど、ふと、儀式を行なっているとある存在がオーラの中に意識の目覚めのようなものを感じ取って儀式をやめたのでした。そして、そのオーラだけではあまりにも光が足りないので、とある存在が自分のオーラを加えることで私という分霊の元となったのでした。そうして、普段行わないようなことをしたので他の存在たちは驚いていたのですけど、こうして、火の儀式のために汚れた未浄化のオーラを分離させたものと、意識の目覚めのためにオーラを追加で分けてもらったものが私の魂の原型になっているわけです。


▪️ひねくれている人たちは認知が歪んでいる
貧乏人を理解するためにそれほどお金のない家庭に生まれて、家族にしても認知がひねくれている両親や兄弟および親戚の元に生まれました。そうして、どうして貧乏人の認知が歪んでいてひねくれているのかを学ぼうとしたわけです。

最初はよくわからず、葛藤だけが膨らんで、自分も同調してしまったりもしましたけど、「本当の私」はそうではない、ということはわかっていました。

そうして、その後、家族や親戚からも離れて、思い返したり他の場所で色々と学んだ結果、ようやく腑に落ちたのが、そういうことでした。

それまでは、理屈では納得できると言えば一応できましたし、なんとなくはわかっていたわけですけど、どうも、腑に落ちなかったわけです。

ですけど、今世を生きてみて、ようやく腑に落ちました。

ひねくれている人は、エゴが拡大化していて、自己肯定のループに陥っているが故に認知が歪んでいるのです。そう言う、割と単純なお話でした。

そのために、今から思えばつまらない人たちとも付き合ったり趣味を真似たりしてみましたけど、結局、根本を辿ると、そんな単純なお話でしかなかったわけです。エゴが拡大化しているために色々とものやネタを探して他者と区別化するという自己肯定のループにはまり込んでいて、エゴというものは常に満足し続けないと気が済みませんから、一つのネタが終わったら次のネタ、あるいは時に拡大解釈したり認知を歪めて更にエゴが自己肯定できるところを探し続けているわけです。

わかってしまえば、なんてつまらないお話なんだろうか、と思います。ですけど、そうして自己を他者と比較してアピールしている人たちにとってみればおそらくは一大事で、色々と「違い」を出して他者との差別化を図ろうとしていますけど、そう言うもの全てがつまらない衝動に根ざしていたわけです。

「理解」と言う意味では、長年の疑問が解けたので良かったわけですけど、そこで得たものといえば、「なんだ、そんなことか・・・」と言う、その程度のものだったわけです。見た目で他者と区別したり、言動で他者と区別したり、ドヤったり、なんてくだらなくてつまらないのだろうかと私は思うのですけど、エゴの拡大ループにはまっている人にとってはそれこそが重要で一大事であるわけです。

スピリチュアル的にみれば何も否定するものはなくて、人生の目的は色々ですので、自分が求めるものに自分はなるわけで、どのような人生を送ろうがそれはそれで個人の自由ではあります。ですけど、認知を歪めたりエゴが拡大するために時間を使うような人生はつまらない、と個人的には思います。これは個人的な意見でありますので、他者は好きにすれば良いと思いますけど、目的があるのにも関わらずエゴの自己肯定ループにはまって本来の目的を果たせないというように、エゴが目的の障害になっているのであればその障害は取り除くべきかなとは思います。私が見たところ、エゴの拡大それ自体が目的で人生を生きようと思っている人はほとんどいなくて、ほとんどの場合、エゴの拡大ループにはまってしまっていて、それがあたかも人生の目的かのように誤認しているだけの場合が多いようにも思いますけど、どうでしょうかね。本人に自覚は全くないかもしれませんけど。


▪️不道徳な人の言論パターン

不道徳な人のドヤりパターンとしては、まず、以前に述べましたように拡大解釈(あるいは論理の飛躍)で特殊なケースを言って相手を混乱あるいは黙らせます。

その後、相手がその論理の飛躍に飛び付いてきた場合は特殊ケースだけを扱って、特殊ケースが如何に正しいかを論じます。特殊ケースですから、それほど異論はないわけです。

あるいは、相手が論理の飛躍そのものに対して指摘してきた場合、その言説は無視します。この場合でも同様に、如何に自分の特殊ケースが正しいかを論じるかドヤります。

「話の繋がり」「論理の飛躍」みたいなところが話題に出たら何某かで誤魔化してきます。例えば「(ゲラゲラ笑いながら)何を訳のわからないことを言っているのか」と馬鹿にするパターンが1つ、あるいは「こんな簡単なこともわからないのか」と言って、特殊ケースだけを論じさせようとしながら馬鹿にするパターンが1つ。他のパターンとしては、(話が繋がっていなくても)一般論をとうとうと語って如何に自分が正しいかを納得させる、というパターンなどがあります。

このように、一見すると正しい論舌のように見えて何かおかしい、違和感のある場合において、議論の土台に対し、以下のような話の展開をするパターンが見て取れる訳です。

・議題の前提条件 → 特殊ケースによる否定あるいは肯定(自分の立場に基づく)→ 一般化

一般の話になった時には議題の前提条件は既に忘れ去られていて、あまり関係なくなっていて、既に話題は一般化の話になっていますから、特殊ケースも否定することは難しくて(だから特殊ケースである訳ですけど)、更には、一般的なお話というのも否定するのが難しい訳です。

こういうお話を聞くと、特に若い人は「なんて頭のいい人なんだ」と思ってしまうかもしれませんけど、割とこの種のパターンは詐欺師がよく使う手法だったりします。

そもそも、最初の議題は全く解決していませんよね。

なんとなくわかった気になって、結局、問題は先送りあるいは全く解決できていないのです。

それでいて印象としては「何か凄い議論をした気がする」と錯覚させられる・・・。自分もその凄さを目の当たりにしてる錯覚が生まれて、何か自分が特別な知識を知ったかのように思わされる・・・。だからYoutubeでその種のドヤり番組が人気になる訳です。

ですけど、繰り返しになりますけど、全く問題が解決されていないことも多い訳です。

結局、仕事とか、問題をしっかりと解決しなくてはどうしようもない場面ではこの種の手法は全く使えなくて、Youtubeみたいに娯楽の場(あるいは詐欺の交渉術)でしか使い道はない訳です。

仕事の場でこの種のお話をする人は、結局最後は誤魔化して逃げてしまうか、あるいは、「それはもう解決しています」(解決していないのに)とか言ってうやむやにしてしまいます。仕事だと出禁になってもおかしくないお話なわけです。普通の会社なら、こんなの許さないですよ。

議論というのは問題の解決のためにあるのに、Youtubeでは議題の立て方もおかしかったりします。問題解決というよりは好みの選択みたいなものだったりします。Youtuberは「人生は時間潰し」みたいなことも言ったりしますけど、それなら最初から議論なんてしない方が人々を惑わせなくて良いと思います。物理的に危害を加える人はカルマを背負いますけど、精神的に他人を操ったり混乱させる人はもっと強い深い業を背負うことになります。本人は呑気で気にしていないかもしれませんけど。

それで、そんな不道徳な人に対して我々はどうすればいいかというと、もう、同じ対処しかなくて、結局は「不道徳な人とは、付き合わない」「不道徳な人は、無視する」、これしかないわけです。単純なお話です。


▪️問題が起きていなければ物事に良い悪いも存在しない
スピリチュアル的に言えば、問題が起きていないのであれば物事はどちらだって良いとも言える訳です。議題があったとして、どちらが正しいかとかどちらが正しいかということは基本的には存在しなくて、時と場合に応じて良い悪いは変化するわけで、問題が生じていなければどちらでも良いわけです。それを、わざわざ良い悪いを作り出した上に他人の言説をあげつらって自分を他人より優位に立たせようとする一部の論者がいて、結局、そういう人とは付き合わないのが良いのです。

物事に対して、どちらの方がより問題が少なくて社会がうまく回るのか、というお話はありますけど、何にでも特殊ケースというのはあって、特殊ケースがあるから基本的な道徳やルールが間違っているかというと、もちろんそうではないわけですけど、特殊ケースを挙げて基本ルールがおかしいと指摘する人たちは、結局、自己肯定したいがためにそう言っていたり、あるいは、不道徳な人たちなわけですから、相手にしなければ良いわけです。


▪️環境問題も拡大解釈の1パターン(余談)
エゴが自己肯定するために拡大解釈してドヤるというパターンを見てきましたけど、実は、環境問題も同じ拡大解釈のパターンだったりします。

・温暖化 → 一部の特殊ケースを取り上げる(ツバルの海面上昇、グレートバリアリーフの珊瑚礁の消滅、異常気象等) → CO2が温暖化の原因だと一般化する
・ごみ問題 → 一部の特殊ケースを取り上げる(発展途上国のゴミの山など、海のマイクロプラスチック問題) → 温暖化の原因だと一般化する

詐欺師パターンに見事に一致しています。

温暖化は温暖化のお話ですし、海面上昇は海面上昇のお話です。珊瑚礁の消滅は温暖化が原因だとして、それはそのお話です。異常気象とか言っていますけど、そもそも地球の気候は数百年とか1000年の単位で大きく変わってきました。たった100年の間だって大きく変わるのです。それを、原因を「温暖化」みたいに単純に一般化するのは詐欺師がすることです。

現実は現実です。現実を受け入れることは大前提です。温暖化にせよ、気温が上昇していたり、というのはあるでしょう。その、事実のお話と、「原因と結果」という論理関係・相互関係のお話は別なのです。現実は正しいとしても、論理関係が正しいかというと、必ずしもそうではないわけです。

擬似相関というお話があって、たまたま相関関係があるように見えて実は全く関係がない、というお話はそこら中にあるわけです。

もしかしたら本当に温暖化が二酸化炭素が原因かもしれません。その可能性は排除できません。しかし、必ずそれが原因だということは言えないわけです。その、よくわからないことに対して宣伝をして、まるで現実かのように人々が認知をしているわけです。太陽が地球の周りを回っていると思っていた中世の人と、現代の二酸化炭素&温暖化信者が、どのくらい違うというのでしょうか。

ゴミ問題にしても、ゴミはゴミの問題です。リサイクルはリサイクルの問題です。マイクロプラスチック問題はその問題です。何故かゴミの話から「温暖化の原因」みたいに一般化がされています。

さすがにこの現代で、宣伝している側までもが本気でそれを信じてやっているとは思えません。となると、これはもう、温暖化を宣伝したい詐欺師がいるということです。温暖化をいうことで利益を享受する人たちがいて、温暖化を宣伝したいということです。本気で二酸化炭素が原因とは思っていなくても、利益のためにそう宣伝している人がいると仮説を立てた方がすっきりします。あくまでも仮説です。

実のところYoutubeだけでなくこの種の詐欺師は多くいて、温暖化みたいな「わかりやすいお話」は、実は全く論旨が繋がっていなかったりします。それでいて世界的に宣伝されているということは、世界的に宣伝したい何かの団体が背後で動いているということです。そのように推測できます。

排出権取引なんて馬鹿馬鹿しいでしょう。そもそも評価式すらまともに出せないところに金額をつけるなんて、詐欺師のやることです。

もちろん、リサイクルはリサイクルそれのみで成り立ちますのでそれは普通に必要ですけど、私が言っているのは、論旨を拡大解釈して温暖化みたいに無理やり結び付けるのが詐欺師のすることだ、ということです。

こんなお話が、世間には蔓延しているわけです。

社会活動家であればこのような状況を改善するとか色々あるのでしょうけど、スピリチュアルの立場としては基本は「不道徳な人とは、付き合わない」でありますので、自分に大きな不利益を被らない限りは、基本は無視するのが良いわけです。


▪️認知が歪むのとキレるのと鬱はセット
エゴの自己肯定のパターンに入ると認知が歪むのですが、そうして歪んだ認知がますます歪みを強めた時、歪んだ認知は本人にとってはあたかも真実のような幻想になっているのですが、そうして出来上がった歪んだ認知としての本人にとってだけの真実を他者から否定された時、それはつまり実は否定ではなくて真実を伝えられただけなのですが、そのように、本人にとっては否定という形を持って真実を伝えられた場合、本人にとっては歪んだ認知の否定としてではなく真実の否定として受け止められるわけです。

そこまで行かなくて本人が自分の認知の歪みに気づいている場合もありますけど、それなりに酷い場合は認知がかなり歪んでいて、それを真実だと思い込んでいたりします。

その認知の歪みを他人から指摘された場合、歪んだ認知を肯定し続けるために拒否反応が体に出るわけです。

そしてそれは、他者との関係性でどのような反応が出るのかが決まって、相手よりも自分が立場的に強い場合は切れて怒鳴ったりする行動に出ますし、相手の方が強い場合は鬱になったりします。

怒鳴る場合は(酷いことを言われたから怒鳴っているのだという理屈で)被害者面しますし、鬱になる場合も同様に(なんて酷いことを言う人なのだと言う理屈で)被害者面します。実際、本人は本当に自分が被害者で、自分の認知を否定してくる他者はとても酷い人だと思い込んでいたりします。めんどくさいでしょう。

このような人に、何を言っても大抵は無駄ですし、指摘してあげたのにも関わらずキレられたりして加害者にされかねないので、助け損なわけです。

ここでも、対処法は同じです。不道徳な人とは、関わりを持たないこと。それだけのことです。

歪んだ認知を正そうとしてもキレたり鬱になって被害者だと言うのであれば、もはや助けようがありません。と、言いますか、本人に自分の歪んだ認知を治すつもりがないのにわざわざ他人がそれを指摘してあげて真実を突き付けるなど、時に余計なお世話だったりするわけです。そうして余計なお世話をした結果、被害者面されて逆に攻撃の対象にされたりしますから、結局、そのように不道徳な人とは付き合わない方が良いのです。

認知が歪んでいる人は、時にキレて、時に鬱になったりを繰り返します。自己肯定のループの中に組み込まれていると言っても良いかもしれませんけど、順番があるわけでもなくて、不意にキレたり鬱になったりします。

ちょっと当人の認知と違うことを言ったりするとキレるという行動に出るわけですけど、その沸点は基本的に非常に低くて、他者からするとどこがキレるポイントかがとてもわかりにくい状態なわけです。他者からすると当人の認知のどこが歪んでいるかなんてなかなかわかりませんから、慣れないと対処のしようがないわけです。

そのような人とは付き合わないのが一番ですけど、社会通念上の付き合いがあるのであればキレられない程度に社交辞令するくらいがいいかなと思います。そういう人は時に全てを「はい。そうです。」と完全肯定されて甘やかされて更に認知を歪ませることで更に怒りの沸点を下げてきますから、最初から付き合わない方が良いのです。

誰かがこうしてキレたり鬱になったりすると被害者として振る舞うことがあるのですけど、そうして、逆に、その原因になった他者が加害者扱いされたりしてしまうわけです。真実を伝えた筈の人が加害者扱いされてしまうという状況になるとすれば、そうして損な役回りをしたいという人がそれほどいるわけもなく、めんどくさがられて、認知の歪みは放置されてしまうわけです。

こういう例はどこにでもありますけど、地域差はあるかなと思います。


▪️少し怒鳴る、とりあえず褒める、酒、人情はその中間
完全にブチギレるとまでは行かなくても、少し怒鳴ったり、酒、あるいは人情というのは実はその中間だったりします。多少は社交辞令に則っていつつも、実のところ、根本というところは同じだったりします。このくらいですと会社での付き合い程度ではよくあることで、あまり深い付き合いをせずに社交辞令をしていればいいかなと思います。

人情というと良いような印象を受けるかもしれませんけど、スピリチュアル的に言えば「感情」というものは肉体の次の段階で、いわゆるアストラル界に属していて、そこまで高いレベルのお話ではないのです。とは言いましても物理的な唯物論的なお話から一歩進んでいますので、それよりはレベルの高いお話になります。ですから、物理的な唯物論に比べるとそこまで悪いものではないのですけど、その次の段階であるコーザル(原因、カーラナ)の段階(あるいは更に次のプルシャ)ですともっと光に溢れて愛が深まりますので、その前段階の「感情」としての表現は、まだまだ最初のステップなわけです。

物理的なものしか見えていなくて認知を歪ませて真実を違って捉えている段階から、人情によって多少は真実を見ようと足掻いているのですよね。キレる人たちが完全に闇落ちしているかというとそういう場合だけでもなくて時に何故か人情話のことは好きだったりしますけど、実のところ、こういうことだったりします。ですから、当人にとっては人情は無駄ではないのですけど、自分がその段階にいないのであれば、わざわざ他人の人情話に付き合ってあげる必要もないわけです。

スピリチュアルに生きている人からしたら、誰かが人情話をしているからと言っても、完全にいい人だと思って油断しないことです。次の段階に行けばそれなりにトータルなワンネスの愛になりますけど、人情というものは感情をベースにしていて、愛としては不完全なわけです。

キレるなんてのは割とわかりやすいですけど、これは別バリエーションになるわけです。

また違ったバリエーションとして、「(とりあえず)相手に同意をする」「(とりあえず)相手を褒めておく」「(とりあえず)相手を認めておく」みたいなパターンもあって、これは場合によりけりですけど、結局は自分のエゴを正当化して守るために自分の歪んだ認知を変えずにとりあえず相手と距離を取るための手法として用いられています。ですから、ちょっとでも違和感のある相手から「褒められた」からと言って油断しないことです。同様に、何か認められたからと言って、油断しないことです。意見に(一見すると)同意されたかのように見えたところで、油断しないことです。それは当人のエゴを守るために(とりあえず)同意したに過ぎないかもしれないからです。結局、話に一貫性がない、ということになりますので、いくら同意されたり褒められたりしても、また話が堂々巡りになったりして、話が進んでいかなかったりするわけです。であれば、違和感のある相手とは、そもそも付き合わない方が良い、ということになります。

この時の順番としては「拡大解釈の元、特殊ケースで相手の主張を否定」→「一般化で自分の主張を肯定」までは大体同じですけどその後、うまく反論されたりして言い返せなくなたら上記のいずれかの選択を取るわけです。それは本当に同意しているわけではなくて、ただ単に自分のエゴと自己肯定のループを継続させるために相手の主張を「範囲外(スコープ外)」にしてしまうわけです。相手の主張を否定するために「そんなの知らない」という態度に出ることもありますけど、とりあえず肯定しておいて実は態度で「よくわからない」みたいな感じで蚊帳の外に置いたりします。

本当に問題を解決しなくてはならないのだとしたらこんな言説は通用しませんけど、Youtubeで言葉遊びをしているだけでしたら全然これで「なんだか凄い議論」「議論の天才」かのような錯覚を生み出し、かつ、本人のエゴは守られ、(その本人のエゴの)自己肯定のループは継続されるわけです。そういう場合、相手の主張なんて本人は覚えていなくて、何もそこには「同意」はなくて、ただ単に、言説をかわす為だけに上記のような選択をとるわけです。結局、「結果」「結論」がないのですよね。それでいて、何か凄そうな印象だけを与えることができるので本人はご満悦なわけです。これが詐欺的手法だと気がつかない人たちが周囲から持ち上げて、本人のエゴが益々強まるわけです。自信300%で「自分は完璧」と思う「成功者(かのように見える)」人が生まれたりします。

そんなのと付き合うのは時間の無駄ですし、基本である「不道徳な人とは付き合わない」、という原則ではここでも生かされるわけです。話が通じない人、と言い換えても良いと思います。

やっぱり、見る目ですよね。何事も、見る目。特に、人を見る目がないと人生を棒に振ります。

あるいは、それほど頭が良くない場合はただ単にゲラゲラ理由なく笑ってけなして蚊帳の外に置こうとします。これはわかりやすいですので、あまり悩まずに済みますけど、学校の教室とか田舎のコミュニティ等でなかなか逃げにくい環境にいる時はこれが一番厄介だったりします。理屈が全く通用しないで「うるせえ!!!」と怒鳴ってくるのも同じたちですね。付き合わないのが一番なのです。


▪️歪んだ認知に執拗に同意を迫られても決して同意しないこと
この種の人には注意が必要で、他者をも自分の歪んだ認知の世界に巻き込もうとします。マインドコントールもこの類で、歪んだ認知を他者に押し付けるわけです。そしてそれは「感情」に属するアストラル界というよりももう1つ上のコーザル界(原因、カーラナ)の段階で押しつけられることがあって、そうなると、なかなかその歪んだ認知から抜け出すのが困難だったりします。感情だけなら同意するかどうかのお話でその場限りのことが多いのですけど、その上のコーザルはスピリチュアル的には一応は一般的に良い方向ではあるのですけどこの種の歪んだ認知を持っている人には注意が必要で、執拗にあれこれ言って同意を迫ったりする際にコーザル(原因)によって「同意」が他者との間でなされてしまうと、歪んだ認知が他者へと流れ込んでゆくことになり、他人をも巻き込んで歪んだ認知の世界に生きることになります。

こうなると、巻き込まれた方は数十年単位でその歪んだ認知に苦しめられるようになります。一方、その「同意」によって「まともな認知」を注ぎ込まれた、元々歪んだ認知を持っている人は、そのエネルギーヴァンパイアの行為によって「ちょっと元気」になって「ちょっと良い人」になったりします。巻き込まれた方はたまったものではなくて、あれこれ執拗に迫ってきて無理やり歪んだ認知に同意させられた挙句に、汚いオーラの始末役にもさせられて、全くいいことがないのです。

執拗に迫られれたとしても拒否するか、そもそも付き合わないのが良いのです。

例えば「怒鳴る」「キレる」→「(一見)人情(実は偽善だったりもします)」→ 「執拗に同意を迫る」というループを繰り返して、同意するまでしつこくつきまとってきます。

結局、人情などで一見すると良い人に見えたとしても、そこにキレたり鬱の前兆が見えたとしたらあまり深い付き合いをしないことです。やはり、「不道徳な人とは、関わり合いを持たないこと」という法則がここでも適用されるわけです。可能なら、全く付き合わないという選択肢もありです。

執拗に迫られて、だんだん疲れてきたりして、ついつい「同意」したりしてしまうと、そこに「エネルギー・ルート」が細い線あるいはパイプのように繋がれてしまって、そこから汚いオーラが流れ込んできて、逆に、向こうにこちらのオーラを渡してしまうことになります。

そうなると、自分の認知が歪んでしまって相手の言うことが(実は歪んだ認知だったとしても)正しいかのように思ってしまうようになったり、自分には全く心当たりのなかったことで不意にキレたり鬱になったりするようになってしまいます。相手と自分とのオーラが、一部、交換されてしまったわけです。エネルギー・ヴァンパイアはエネルギーを吸うときに自分の汚いオーラを他人に押し付けてきますから、単にエネルギーを奪われるだけでなく、葛藤やトラウマの後始末まで押し付けられるわけです。

エネルギー・ヴァンパイアにやられてしまうと数十年単位で苦しめられることを考えれば、気づいたらすぐにでも「逃げる」ことが重要です。エネルギー・ヴァンパイアは他者からエネルギーや「良い人オーラ」を常に奪っていないと生きていけませんから、奪う相手に逃げられ続けたらエネルギーが枯渇して破滅しますから、そんな人は放っておけばいいのです。

迷える人を救わないなんて、なんて酷いのか、と思われるかもしれませんけど、そもそもこの世界は「自由」が保障されていますし、自分の意志としてスピリチュアルを高めようと思ってもいない人を助ける必要はないわけです。往々にしてそういうエネルギー・ヴァンパイアは偽善者だったりしますし、偽善者を助けても全くいいことがないわけです。

キリストくらいに愛が強ければ助けられるかもしれませんけど、普通はそんな人を助けるのは無理なわけですから、逃げて付き合わなければ良いのです。逃げて非難してくるのはエネルギー・ヴァンパイア本人あるいは古い価値観に縛られている人くらいなものですので、気にすることはないわけです。


▪️認知が歪んでいる人たちを浄化する

最近、瞑想をしていると認知が歪んでいて他人を虐めたりする人が日本中にいることが伝わってきます。私の住んでいる地域ではそんなに目立ちませんけど、きっと、隠れてそういうことは多くあるのかな、と思います。

私の生活の範囲ではそういう、認知の歪んでいる人というのはそれほどいなくて、せいぜいYoutubeで見かけるくらいですけどそういうチャンネルは非表示にしますので特に影響はないのですけど、瞑想をしていると、いじめや認知が歪んで他人にちょっかいを出している人が日本中にいることが感じられます。

そのような状況ですので、最近は、日本列島をイメージして、そこに浄化の結界を張るようなイメージで光を注ぎ込んでいます。

そうすると、洗剤のコマーシャルで見たように、日本の各地の地面から、黒い油のようなものが滲み出てきて空中に浮かび上がってくるのを感じます。土地に怨念が染み付いているのですよね。何度やっても何度も出てくるので、そうそう簡単に浄化はしきれないのかなとも思いますが、少しづつ日本列島の全てを浄化できるのかな、と思っております。

そうして瞑想をしていると伝わってくるのが、こうして瞑想をして日本列島の全てを浄化することで、認知が歪んだ政治家なども居づらくなってくる、その反応が出てくる、とのことでした。そうして、海外から見て日本列島が透明になって海外から見えにくくなる、ということも伝わってきました。

この日本列島の浄化はなかなか大変なお話で、どうやら、神社を建て替えた上、「光の柱」をそれぞれに立てることで結界が強固なものになる、とのことです。お寺のことは言われたことがなくて、対象は神社のようです。もしかしたら私が何かするよう指示が来るのかな、という気もしますが、どうでしょうかね。

光の柱を立てるイヤシロチ計画というものがあって、日本列島がまずその対象で、その後、太平洋にも範囲を広げるイメージがありますけど、どうでしょうかね。まずは日本列島が優先ですよね。

そうして浄化してゆけば認知が歪んでいる人が減ってゆくのかな、と思います。

日本列島が浄化されてゆけば、エゴが拡大化してひねくれている人は日本に居づらくなると思います。「海外の方が気楽」みたいに言っている人のうち一定数はその人たちで、自分達のオーラの状態およびスピリチュアルの階梯に沿った土地に人は住むわけです。

日本列島が土地売買で静かに侵略されている、というのも、根本から言うと日本列島の浄化が行き届いていないが故に未浄化の土地を狙われて買われてしまっているわけです。と言いますのも、エゴが拡大化した人は未浄化の汚れた土地にしか住めないからです。例えるなら綺麗な川の中に入ると死んでしまう魚もいるようなもので、綺麗な水で生きられない人もいるわけです。

そうして日本が変わってゆくには30年はかかるのかなぁ、という気がしていますけど、どうでしょうかね。


▪️感謝をして、恨まない

これは道徳のように思われるかもしれませんけど、スピリチュアルの階梯が進んできた時に自動的に現れる性質のように思います。ですから、道徳でこのように振る舞うかどうかとはあまり関係なしに、ふと、とある階梯においてこのような状態になるのです。

何かお世話になったことに対して感謝をして、それだけが心に残る状態なわけです。

何か、とても辛いことをされたとしてもあまり気にせずに、そういうこともあるかな、とは思ったりもしますけどあまり悩まずにスルーします。もちろん恨みません。

このような性質は、そもそもスピリチュアルがそれほど進んでいない場合は逆の性質を帯びているわけですけど、その場合、何かお世話になってもスルーして、辛いことがあるとひたすらに恨んだりするわけです。これは波動の低い人の特徴です。

お互い、波動階層が違う相手のことは理解できません。

ですから、波動の低い人は「なんで貴方は怒らないのか。怒るのが普通。怒らない貴方はおかしい」みたいに言ってくるかもしれませんけど、それを間に受けて、試しにでも怒ったりして見ないことです。試しであろうが何であろうが怒りというものは低い波動に属していますから、それで自分のスピリチュアルが破壊されます。

この感謝は、波動が高くなればなるほど比率が高まっていって、倍返しでのお礼、10倍返しでのお礼、というようにどんどんとお礼が増えていきます。

もちろん逆もあって、波動が低くなればなるほど倍返しの仕返し、10倍返しの仕返し、となるわけです。

感謝とお礼のループは何重にも深まっていって、お礼返しが繰り返されてお互いに豊かになる、ということは普通に起こります。

もちろん、その逆の仕返しの繰り返しループもあるわけです。

今の社会は色々な人がごちゃ混ぜになっていますけど、本来、自分と同程度のスピリチュアルの階層の人とだけ付き合うべきなわけです。そうしないと波動が高い方が迷惑を被って不幸になります。

ここでも定番の法則が成り立っていて、「不道徳な人とは、付き合わない」という原則はこのような場合でも生かされるわけです。