自己肯定の2つのループ


愛で生きている人と、エゴで生きている人。

それぞれ自己肯定のループが起こるのですけど、その有り様は全く異なるように思います。一般的な道徳や教養で「自己肯定」は良いこととされておりますけど、エゴの自己肯定ループは悪循環になりがちなわけです。

愛で生きている人は、自己肯定がそのまま他者の肯定に繋がります。自他の区別がない(あるいは区別が薄い)ために、他者をも肯定することができます。

一方、エゴで生きている人は、自己肯定とは他者との区別になります。特に最近テレビやYoutubeで顕著なのがこちらのループで、「拡大解釈(あるいは日本語を間違えて解釈) → 自己肯定できるものが1つでもあれば一点突破する」と言う自己肯定ループが目立つように思います。

愛で生きている人は真実が見えます。

一方、エゴで生きている人は自分の「想像」の世界に生きています。ですから、真実よりも、自分の想像の世界で何がしか自分を肯定できればそれで良いのです。

昔ならこういう人は相手にされなかったものですけど、最初はテレビで「面白い」とされる論舌で人々を混乱させ、その路線を強調したYoutuberが自己肯定のために何がしか自分が正しいと思われる論舌を「それだけ強調」して何度も繰り返し主張し、視聴者が「そうだそうだ」と思うことで一般大衆がそうであると思い込むわけです。

愛で生きていると、そもそも、論舌で自己肯定をする必要すらなくて、そもそも、勝ち負けとかあまり関係ないですし、大切なのは真実であって勝ち負けではないわけです。

愛の自己肯定ループは、自己肯定すればするほど愛が深まって自己肯定も高まります。自己とは他人とほぼ同じようなものですから、自己肯定と他者への肯定とが共に高まって、愛も高まるわけです。そのループがどんどんと続いて、愛が強まってゆくわけです。これが愛のループです。


エゴによる自己肯定のループ


一方、エゴによる自己肯定のループは他者との区別及び溝が深まる方向に作用し、愛が減り、他者との分離が強まり、自分と他人を比べて自分が優位に立つために拡大解釈や捻じ曲げ解釈を駆使して真実よりも想像を優先させ、認知を歪ませ、緊張が深まり、その結果、優越感の表情が極まって(時に下品になり)、エゴの自己肯定が深まり、エゴが強くなる、という負のループを繰り返すわけです。人によってはこう言う人を「立派」と言ったりしますけど、それは蓼食う虫も好き好きということですので、好きにすればいいと思います。いわゆる立身出世型というものですね。エゴが拡大すれば出世できますから、それもまた人生です。

私は別にこう言う人生を否定しているわけではなくて、全ては選択ですから、このような人生を生きたければ他者と分離をし続ければエゴが拡大して自尊心が深まって、世間で言う、いわゆる「立派」な人生を送ることができます。そうしたければそうすればよくて、自由が保障されているこの宇宙で、自分が目指すものに誰しもがなれるわけです。

ただ、私が目指すところとは違いますけど、これが良いと思うなら好きにすればいいわけです。

経営者とかですと多少は見えっぱりでホラ吹きの方が金持ちになったりします。ですけど、それがスピリチュアル的に成長しているかどうかとはほとんど関係がないか、あるいは、全くの逆だったりするわけです。

20年くらい前にNHKの記者と話をしたことがあって、私が「NHKの中には捏造報道や中韓よりの人がいますよね」みたいなことを言ったら、その記者は「NHKの人全員が捏造報道をするとか全員が中韓寄りだなんていう貴方はおかしなことを言う人」みたいに言われたことがあります。そもそもNHK記者は日本語のプロである筈で、私が「NHKの中にはそう言う人がいる」と言ったのは全員ではなくて一部の話をしているだけなのに、その言葉を拡大解釈あるいは捻じ曲げて解釈して「全員が中韓寄りだとか言う人はおかしい」と言うお話にすり替えて、そのことでエゴの自己肯定をしたわけです。認知がねじ曲がっているわけですね。

素人ならばともかく、マスコミの業界関係者で、しかもNHKに勤めているのですから「言語のプロ」である筈でしょう。その、言葉のプロである記者がこのように意味を捻じ曲げてすり替えの論舌をしているわけです。偏差値が高い学校を出て自尊心が強くて、現実を捻じ曲げてでも自己肯定しなければ自我が崩壊してしまうのでしょう。

まあ、私もその頃は若かったですし、記憶も曖昧なところはありますが。私の態度が相手をイラつかせたかもしれませんし、NHKに対する多少の偏見もあったかもしれませんし、その時は言説の各所からそういうニュアンスを出していたことは否定できませんけど、向こうも相応に話を捻じ曲げてきたわけです。

このようなお話は正常化バイアスとして多少は誰しもが持っているものですけど、私も自分のバイアスが他人に投射されてこのような経験をしたのかなぁ、とも今は解釈しています。

瞑想すればするほど認知が歪まないようになってきて、正常化バイアスのようなものも減ってきて、「ありのまま」を認知できるようになります。それはエゴが減ってくる、と言うことでもあるわけです。


エゴを自己肯定するために拡大解釈してドヤる人たち


最近のYoutubeや掲示板は更に酷くて、議論や話あるいはフィードバックをするときに、相手が全く何も言っていないことをいきなり言ってきてドヤ顔で押し付けがましい話あるいは書き込みをする人が最近は多すぎるわけです。

結局、それは、自己肯定するために何か抜け道を探しているだけなのです。

例えば、「ドンキホーテでよく買い物をする」と言ったら、その返事が「ドンキホーテの弁当は危険だから食わない方がいいぞ(ドヤっ)」みたいな、かすっている程度のお話で教師面の上から目線で言ってくる人がいました。ドンキにはいろいろなものが売っているのにドンキホーテと言っただけでどうして弁当の話が出てくるのかも謎ですし、そもそもその人は業務スーパー大好きで冷凍ハンバーグをよく食べているようですので、ドンキホーテの弁当と業務スーパーの冷凍ハンバーグなんて似たようなものだと思うのですけど、それでいてドンキホーテの弁当ネタでドヤってくる頭の悪い人がいるわけです。ちょっと、相手にできないです。

業務をしている会社とかでこう言う話をすると評価が下がったり、出禁食らったり相手をされなくなってもおかしくない話が、なぜかマスコミ業界とYoutubeみたいなところでは人気になっているわけです。

そう言うことがなぜ起こるかというと、視聴数優先ということはもちろんあるでしょうけど、人として自己肯定のループにはまっているからだと思います。たとえ錯覚であっても言っている側が自己肯定できて、それを見る人も自己肯定できたような気になれるわけです。ですから、よくわかっていな人にとっては「言論の天才」だとか「議論の天才」みたいに見えたりします。ですけど、実際は、ただ単に「拡大解釈 → 抜け道を探す」と言うことをして自己肯定できる点を探しているだけなのですよね。

これは、業務などにおいて実際の問題を解決しなくても良い人は口先三寸でこれで十分だったりするわけです。実際の問題は解決していなくても、易々となんとなく自己肯定できてしまうわけです。業務でも、営業とかなら向いているかもしれませんけどそうして取ってきた仕事は実際に遂行する側が苦労しますから、やはり、営業であったとしてもそのような人を入れるべきではないわけです。最近は特にそうだと思います。

これは、うまく回っているような社会や会社あるいはまともなコミュニティでは相手にされませんけど、Youtubeみたいなところですと視聴者にはこの辺りがよくわかっていない人が大量にいますしエンタメ主導ですから次々に術中にはまって「なんだか凄そうな人」が捏造されるわけです。

この種のお話って、自分の頭で考えたことがあまりなくて受験教育や詰め込み教育ばかりされた人ほどハマりやすい気がしますが、どうでしょうかね。


エゴを守るために認知を歪める人


エゴが拡大していて、自己肯定しなければ自我(エゴ)が崩壊してしまう。だから、エゴが肯定できるところを必死になって探すわけです。エゴが抜け道を探す時、残念ながら、その理屈が本当かどうかはあまり関係がないように思うのです。

その時、以下のような法則があるように思えます。

・まず、トピックそのもので肯定できるかを探る。自分がドヤれるかを探る。どこかで聞いたネタがないかどうかを探す。頭の中の検索に引っかかったらそれを言う。
・トピックでドヤれなかった場合、拡大解釈を試みる。そして、その拡大解釈したスコープで何かドヤれる事例を考える。そして、ドヤる。

こうして、エゴの自己肯定が完結するわけです。

これを言われた方からすると拡大解釈されることを想定していませんから「そんなこと言ってないだろ」と言う戸惑いが最初に来て、相手がどのくらい拡大解釈をしてドヤっているのかを見抜く必要があるため、とても疲れるのです。

真面目に返事をするためには

・まず、相手がどの程度、拡大解釈しているのかを見抜く。
・拡大解釈している中で、どの条件に基づいてドヤっているのかを見抜く。
・拡大解釈とドヤりが正しいかどうかを判断する。

と言うことをしなくてはならないので、とてもめんどくさいのです。

拡大解釈というのは当人にとって単なる自己肯定の手段でしかありませんので、こちらが拡大解釈に対して否定しなければ話を戻してくるかもしれませし、そうではなくまた違うお話をするかもしれませんが、相手は自己肯定を模索しているだけですのでその内容はあまり気にする必要はなかったりします。一方、相手の不可解な拡大解釈に対してこちらが少しでも小馬鹿にした態度を出すならば相手の自己肯定感が下がってしまいますので、相手は例えば拡大解釈に固執して自己肯定しようと躍起になったり、あるいは、別の理屈を出して自己肯定という目的を完遂させようとします。結局、議論というよりは拡大解釈が自己肯定のための手段になっているわけですから、そこまで真面目に相手をする必要はないのですけど、かと言って小馬鹿にする態度を出してしまうと更に面倒なお話になるわけです。

それより、そもそも、そんな拡大解釈でドヤる人は、可能ならば最初から相手をしないのが良いのです。

そのような相手には、ブレずに自分の主張を淡々とするのが基本です。元々の自分の視点を維持したまま、相手の話を軽くスルーした上で、自分の元々の主張に立ち返って、自分の主張を少し違う面から表現し直せば良いのです。相手の目的が議題の解決というよりは自己肯定のための主張でしかないのだとしたらそれに付き合う必要はなくて、ブレずに最初の主張をすれば良いのです。

ただ、それすらも面倒なことがありますので、可能であれば最初から相手にしない方が良いわけです。

あるいは、道徳的な一般論だけ返事をするのも手です。拡大解釈の行き着くところは道徳な訳で、中途半端な拡大解釈をするより、何となく自己肯定したいのならば道徳が向いていたりします。そもそも相手は正確な議論を求めていないのは明らかで、ただ単にドヤって自己肯定したいだけですので、道徳でも話してあげれば勝手に自己肯定してくれることもあります。細かな話にしっかりと返事をすると逆に恨まれる可能性もありますので、あまり真面目に相手をせずに、一般的な道徳のお話をしてあげてスルーするのも良いかなと思います。道徳に納得してくれるならばそれで良しですが、もし道徳に対して理屈がおかしいとか言って否定かつドヤるようならばそこでもまた拡大解釈かつ特殊ケースで抜け道を探すというパターンに当てはまったりしますので、そうなったとしたら、その意見に対してあまり否定せず、スルーして「そういうこともあるかもしれませんね」くらい言って、一面を褒めてあげれば良いと思います。業務のように課題や問題を解決することが目的ではなくて、自己肯定すること自体が目的なわけですから、どうとでもして相手を肯定してあげれば良いわけです。

子供の頃はこの種のくだらないドヤりを身近で何度も聞かされてうんざりしましたけど、言う側は飽きずに言い続けるみたいです。そうしてひたすらに他人を馬鹿にして満足するわけです。Youtubeにはそう言う人がいるかもしれません。その目的は、結局、(エゴの)自己肯定な訳です。

選択できるなら、そんな人の映像は見ない。
選択できるなら、そんな人とは最初から関わらない。

多少の関係が必要な場合、最初の自分の主張からブレない。道徳的な態度に徹する。相手の話に付き合わない。
ヨーガや仏教で言われているように、「不道徳な人とは、関わりを持たないこと」が第一なわけです。

そして、もし付き合わなければならない場合があったら、社会通念状の一般常識に従って道徳的な態度を徹底して、それ以上の付き合いをしないことです。相手から何を言われていじられても無視すること。しつこい場合は別ですけど、基本はこれでいいと思います。

あとは、思考停止しないことですね。不道徳な人はゲラゲラ下品に笑ってきて思考停止を誘ってきますから、まず関わりを持たない方が良いわけですけど、関わってしまった場合でも、思考停止しないのが大切であるわけです。