無知とエゴと雑念のお話を切り離した方がわかりが良い

2022-09-18
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

この「無知」について、私はしばらく、この「無知を取り除く」という言葉自体に惑わされていましたけど、この段階に至るとエゴとか雑念とかそういうことではなくて、もう、直接的に、ただ単に「見るもの(真我、プルシャ)」を「見られるもの(プラクリティ)」と同一視しない、というだけのお話なのです。そのことを比喩的に「無知を取り除く」と言おうと思えば言えるかもしれませんけど、この段階での無知には実態があまりありませんから、無知という言葉はこの段階では物凄く語弊のあるお話だと思うのです。この段階においては無知を取り除く、というより、ただ単に、ヨーガ・スートラの文言そのままに「同一視しない」あるいは「両者を結合しない」、というお話なわけです。この無知の克服は段階的に行われ、次第に、完全に無知は克服される、と言います。完全なる解放までは多少の無知と付き合いつつ、少しづつ無知を克服していくわけです。

仏教やヴェーダンタでは伝統的に「厚い無知によって覆われているから認知できない」というお話をしており(本当の真実を個別に伝えているのかもしれませんけど)、そういう説明は比喩としてはそれなりに成り立つとは思いますけど、必ずしもエゴがあるとは限りませんし、同様に、必ずしも雑念があるとも限らないと思うのです。エゴが強いことを比喩的に「厚い無知」と言えるといえば言えますけど、逆に、無知だからといって必ずしもエゴが強いとは限らないと思うのです。同様に、無知だからと言って必ずしも雑念が多いとも限らないわけです。これらのお話でエゴや雑念を前提としてしまうと、窓口が狭くなってしまいます。エゴと無知を結びつけない方がわかりがいいと思いますし、雑念と無知を結びつけない方が同様にわかりがいいと思います。無知だからと言ってエゴが強いとか雑念が多いとかいう扱いをしてしまうと、素直な人たちが戸惑ってしまうことにもなります。

それよりも、ただ単に「同一視している段階」「真実を見出している段階(純粋精神を見出している)」という方がわかりがいいと思うのです。窓口も広がります。この場合「無知」の説明にエゴとか雑念とかはあまり要らなくて、ただ単に、認知の状態の階梯を示しているだけなわけです。

ヨーガ・スートラの文脈そのままに、ストレートに解釈して、「見られるもの」と「見るもの」を結合(同一視)しているかどうか、という点だけで判断するのです。そして、結合(同一視)していたら無明(無知、アヴィディヤ)ですし、結合していなければ無明ではない、というシンプルなお話な訳です。