雑念は無くすべきなのかどうか? 対象と意識を切り離す

2022-08-20 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想において、一般的に雑念は良くないものであるように解釈されることが多いです。雑念が多くて瞑想できない、ということはよくあるお話です。

仏教の顕教(分かりやすい言葉による教え)、仏教の密教(秘密の教え)、その他では、各種の雑念に対する対処法が教えられています。

まず一般的な仏教の顕教では、雑念と雑念の間の何も考えていない時間を増やす、と教えます。雑念は良くないものであるから、雑念を避け、何も考えていない部分が増えるように教えられるわけです。何も考えていない瞬間、それは無でもあるのですが、その無の中に安らぎと平穏がある、という教えです。その安らぎが悟りである、と教わることもあります。

一方、仏教の密教では雑念をイメージ等で「変容」させることを教わります。不動明王などの掛け軸に書かれた図を具体的にイメージすることで、雑念をそのイメージに変容させます。最終的にはそのイメージと自身とを一体化させて悟りの境地に導きます。

一方、その他の教え、例えばチベットのゾクチェンあるいはインドのヒンドゥ教のヴェーダンタの教え等では、雑念がある時もない時も同じだ、と教わります。雑念を避ける必要はなく、雑念を変容させる必要はないわけです。何故ならば、意識というものは雑念を超えたものであり、雑念を見ているものであるので、雑念があってもなくても意識というものは存在し、であれば、雑念があろうがなかろうが、雑念が変容しようがしまいが意識にとっては何ら関係がないからです。そのような意識と共にある状態をサマーディ(三昧)と言い、その状態では雑念には(基本的に)影響されないからです。

仏教では身口意(しんくい)あるいは三密ということが言われ、それぞれ身(行動)、口(言葉)、意(心)を意味するわけですが、実際にはそれは体のレベル、エネルギーのレベル、意識のレベルに対応していて、顕教は主に体のレベルに働きかけ、密教は主にエネルギーのレベルに働きかけ、その他の一部の流派は主に意識のレベルに働きかけるわけです。


■身口意の解釈の相違

ですから、顕教では主に「体」のレベルに対応していて、顕教の瞑想ではそれ以上の階層である「口(言葉、エネルギー)」に存在している雑念というものには対処できないわけです。顕教からすれば「口」の階層に属する言葉だとかエネルギーだとか雑念というものは空(くう)あるいは悟りに達するための障害物であり、よって、雑念などを避けようとするわけです。言い換えれば、煩悩は無くすべき、というのが顕教の基本的な考え方になります。

一方、密教は「口(言葉、エネルギー)」のレベルに取り組みますから、雑念や煩悩などを不動明王などの御本尊のイメージに変容させて対処をします。密教においては雑念や煩悩は変容させるべき対象になるわけです。

密教とは言わなくても、瞑想の手法として何かのイメージに変容させてしまう、というのはよく言われていて、例えば、苦しい記憶を楽しいイメージに頭の中で変容させてしまいましょう、ということが瞑想手法あるいは精神分野のカウンセリングの一環として言われていたりします。あるいは、もっと簡単に、例えば山や海のイメージに変えてしまうだけでも実は十分に効果があったりします。綺麗な川をイメージしてそこに苦しい記憶や雑念を流してしまう、という方法もあります。これは密教の手法から派生した方法で、スピリチュアルでもよく使われていたりします。瞑想するときになかなか離れない苦しい雑念に対処する良い方法の1つだと思います。

又、その他の一部の流派は「意(心、意識)」のレベルに取り組みます。それはつまりはサマーディ(三昧)の意識ということですから、その状態においては(理想的なことを言えば、でありますけど)雑念には左右されないわけです。ですから、雑念はあってもなくても同じ、ということになります。

このように、基本的な立場がそれぞれ違うために身(行動)、口(言葉、エネルギー、呼吸)、意(精神、心)の解釈は顕教と密教とその他では解釈が異なっていて、顕教は「行動と言葉と心」だと解釈し、密教でも割と同じですけど密教の場合はこれら3つを統合しようとしていて、一方、その他の一部の流派はそれら3つはそれぞれ3つの全く別の階層に属するものだと考えます。

これら3つを顕教や密教のように「行動と言葉と心」と解釈するよりは、体とエネルギー(感情的なアストラル界の階層)と精神(意識)、と分けるのがスッキリするように思います。


■ゴールのサマーディ(三昧)に至るための相対的な修行

その3つ(身口意)は、ヨーガやスピリチュアルの分類に基づいて以下のように対応付けることができて、主に体のレベルに対応している顕教と、主にアストラル界(そして一部のカーラナ界)に対応している密教、そしてカーラナ以上に対応しているその他の一部の流派、という位置付けになります。

■体(「身」の階層) → 顕教
■アストラル界 (「口」の階層) → 密教
■カーラナ(コーザル、原因)界 → 密教やその他の流派
■プルシャあるいはアートマン(個としての神、個としての分霊、「意」の階層) → その他の流派
■ブラフマンあるいは神

ここまで理解したとして、それでは、少なくともカーラナの階層あるいは理想的にはプルシャあるいはアートマンの階層、それは身口意における意、ということでありますけど、その「意(精神)」のレベルからしたら雑念は下方の「口(エネルギーの階層、感情的なアストラル界の階層)」であるのだから雑念があってもなくても同じ、ということになるわけです。それを本当にその意識状態でいられるのがサマーディ(三昧)の状態であるわけです。

このことを理解したところで、実際にその状態に居られないのであればまだサマーディ(三昧)の状態ではなくて、単に理解しただけ、ということになります。最終的な状態としては、サマーディ(三昧)に至れば雑念を避ける必要はないし雑念を変容させる必要もないわけですけど、理解することと本当にその状態になれることとは違うわけです。

そこで相対的な段階というものがあって、まだサマーディ(三昧)に至っていない場合は、その相対的な段階での対処というものは選択肢がいくつもあって、最終的な段階を理解した上で、相対的な段階の修行を必要に応じて行ってゆくというのは必要ですし有益のように思います。

ただ、修行を選んで行うにしても、流派で行われている何千回とか何万回とかいう決まった修行をこなすことそれ自体が本意ではなくて、まずこのサマーディ(三昧)の境地を(ひとまずの)目的地とみなして、可能であれば師匠からまず一瞬だけでもサマーディ(三昧)の状態に導き入れてもらって、そのサマーディ(三昧)の境地に至るために障害となっている部分を師匠が見極めた上で必要な修行を行う、というのが本意である筈なのです。修行を行うにしても、何を目的としているのかを見極めないとなかなか結果が出にくいわけです。


■雑念を無くしたいと思うなら、そうすれば良い

であれば、顕教や密教で与えられているような修行方法は、必要に応じて、部分的に行えば良いと思うのです。お寺で一時的に受け入れてくれる修行や、瞑想のコースなど多々あるでしょうし、ヨーガのコースでもいいと思います。特に社会人であれば時折そういうのを受けると良いと思います。

その際、あくまでも、最終的な状態としてはサマーディ(三昧)であり、そこでは雑念はなくす必要もないし変容させる必要もない、ということを踏まえながら、それでも、相対的なレベルにおいてはそういう修行もある、ということです。

ですから、相対的な段階において、まだサマーディ(三昧)に至っていないのであれば、顕教のように雑念を避ける修行というものも時に必要で有益になるでしょうし、はたまた、密教のように雑念をイメージ等で御本尊等に変容させるという手法も有用でしょう。そのように、相対的な段階においては各種の、先人たちが残した手法を使えば良いのです。

これはあくまでも途中の段階だと意識した上で、相対的な段階を踏めば良いのです。

ですから、雑念は無くすべきかどうか、という質問に対しての答えとしては、そうしたければすれば良い、ということになります。そうすべきかどうかはご本人がやってみて、それでうまくいけばそうすれば良いし、もはや雑念に影響されないと思えばしなくてもいい、と、それだけのお話なのです。

どちらにせよ、サマーディ(三昧)に至れば雑念には影響されなくなりますけど、途中の過程では色々なことがあって良いのです。

様々な流派や考え方に触れることによって、実に多様な教えをもらうかもしれません。顕教の教え、密教の教え、あるいは、異なる教えなど様々なお話を聞いて、混乱するかもしれません。時に「しっかり理解するだけで修行など不要」と言われたりするかもしれなくて、勉強さえしていればいいのか、などと思って納得するかもしれませんし、あるいは、本当にそうなのだろうか、と疑問に思ったり、あるいは、疑心暗鬼に陥るかもしれません。そのように、スピリチュアルには色々なことを言ってくる人がいて、それらが他の人と矛盾していることもあって、よくわからないこともあります。

ですけど、それでもいいと思うのです。そうして、真実が何かを自分で判断して見極めて探求していくことこそが大切だと思いますし、他人から言われたことを全て鵜呑みにしていたらこの種のスピリチュアルはなかなか成長できないと思います。

自分の目でしっかりと見て見極める、というのはスピリチュアルにせよ仕事にせよ、勉強にせよ、全ての基本になるのかなと思います。

そのうち、それらの全てにそれぞれ真実があることがわかってきます。何も無駄なことはないわけです。


▪️対象と意識を切り離す

意識から対象を切り離すこと。言い換えれば「対象を手放すこと」あるいは「認識の(対象への)繋がりを断つ」ということが純粋な「意識」が立脚して自由になる肝のような気が致します。

その前段階としては、(対象のある)サマーディ(三昧)というものがあって、そこでは、「見るもの、見られるもの、見ること」が一体となるという状態があります。最初は(対象のある)サマーディ(三昧)から始まって、集中により対象と一体化します。そして歓喜の状態になったり対象のことがよく理解できるようになるのですけど、それはそれとして段階としては必要で、それはそれで(仕事などで)有用だったりするわけですけど、そこを超えて、純粋な精神の世界、いわゆる(ヨーガでいうところの)プルシャの世界に行くためには「対象」を切り離して純粋な精神だけになる必要があるように思うのです。

一方、「切り離す」段階においては、これらのうち「見るもの(意識)」だけを切り離すのです。それは、ある意味、本当のサマーディあるいはもっと進んだサマーディの状態に対応しているようにも思います。

その辺りのことを書いてあるのがヨーガ・スートラの2章です。

(2-17) 見られるものと見るものとの結合こそが、除去すべき苦の原因である。
(2-23) 見られるものと見るものとの結合は、臣下たる力(見られるもの)と主君たる力(見るもの)の両方が、各自の実体を把握する原因になる。
(2-24) 両者の結合の原因となるのは無明である。

「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著) 」より


■見るもの(プルシャ)を独立して認知する

無知(あるいは無明、アヴィディヤ)があるからこそ「見るもの(真我、プルシャ)」が対象(見られるもの、プラクリティ)を知りたいという衝動になる。その際、本来は「見るもの(真我、プルシャ)」と「見られるもの(プラクリティ)」は別のものであり、「見るもの(真我、プルシャ)」は独立して存在している筈が、無知の働きにより「見るもの(真我、プルシャ)」が対象(見られるもの、プラクリティ)と同一視されてしまっているわけです。ここで「対象」とすると物体かと思われるかもしれませんけど、それも含まれますけど、もっとざっくばらんに言えば、「この世界(プラクリティ)」と自分(プルシャとしての純粋意識)とを同一視している、ということです。

よって、知覚している自分というものが世界という純物質的世界(プラクリティ)の中にいる、という錯覚、あるいは、やもすると知覚されたものが自分自身(知覚するもの)であるという錯覚が生じるわけで、その理由が無知(無明)、ということになります。

ここでいう「見るもの(真我、プルシャ)」とはざっくばらんに言えば要は(自分の)「精神」あるいは(自分の)「意識」であるわけで、無知がある状態で自分の意識あるいは精神が対象物を認識したときに、認識それ自体が自分自身であるかのように錯覚してしまうわけです。それが無知によって引き起こされていて、悟りの妨げになっているわけです。

瞑想が進んでくると、認識それ自体を識別できるようになってきて、「見るもの(プルシャ)」と「見られるもの(プラクリティ)」が別物だということがわかってきます。「見るもの(プルシャ)」とは、いわゆるアートマンのことです。

ヨーガ・スートラではサンキャ哲学を基にしておりますからプルシャ(純粋精神)という言い方をしますが、ヴェーダンタではアートマンと言います。実のところ概念は違うのですけど、ひとまず似たようなものだと思っておいて差し支えないと思います(きちんと勉強した方がこれを聞くと、いやいや違うんです、と言いたいかもございませんが)。


■無知を取り除くというよりも、単に認知する

アートマンという場合はサット・チット・アーナンダと言われていて、サット(Sat)が存在、チット(Cit)が純粋意識、アーナンダ(Ananda)が満ちていること(満ちているから至福)、という意味になるのですけど、プルシャというと純粋意識のことで、プルシャとプラクリティ(純粋物質)とが対になっています。

瞑想が進むと、やがて、このような意味における純粋意識(プルシャあるいはアートマン)が存在していることが実感できるようになってきます。それこそが「見るもの」であるわけです。

「見るもの」が独立して存在していることが認識できるようになれば、もはや「見られるもの」との同一視はなくなってゆくわけです。そこは認知のお話ですから一気に完全にとはいきませんけど、次第に、段階的に認知が変わってゆくわけです。

そうして、対象と意識とが切り離されてゆくわけです。

実際のところ、見るものである(プルシャあるいはアートマン)と見られるものである純粋物質プラクリティは世界に重なって存在しておりますが、認知として、プルシャを識別するということです。

そして、その説明として、よく仏教あるいはヨーガやヴェーダンタの人は「無知が原因であるから、無知を取り除けば良い」と言います。その無知とはエゴだったり雑念だったりしますので、エゴや雑念を取り除くことが無知を取り除くことだ、というわけです。

それはそれで一般的にはわかりやすい説明で、ある程度の真実を表しているとは思いますが、そういう路線で瞑想や修行をしてある程度進んだときに、それだけでは足りなくなってくると思うのです。

と言いますのも、その無知の説明では、見るもの(プルシャ)と見られるもの(プラクリティ)の説明になっていないからです。見るもの(プルシャあるいはアートマン)が独立して存在していることを認知することが悟りへの鍵であるわけですから、ここは重要なわけです。

最初の段階として一般的に言われているエゴだとか雑念だとかいう意味における無知を取り除くのは重要かとは思いますが、実際のところ、その先の段階においては、そもそも「無知(無明)」という実態は(その段階ではそれほど)なくてそれは単なる認識の状態を表現している言葉に過ぎない(ようになる)わけですので、(その段階において)実態がそもそもない「無知」とやらを取り除くなどということはできないと思うのです。そのような段階があるわけです。


■無知を取り除くというよりも、単に認知する

アートマンという場合はサット・チット・アーナンダと言われていて、サット(Sat)が存在、チット(Cit)が純粋意識、アーナンダ(Ananda)が満ちていること(満ちているから至福)、という意味になるのですけど、プルシャというと純粋意識のことで、プルシャとプラクリティ(純粋物質)とが対になっています。

瞑想が進むと、やがて、このような意味における純粋意識(プルシャあるいはアートマン)が存在していることが実感できるようになってきます。それこそが「見るもの」であるわけです。

「見るもの」が独立して存在していることが認識できるようになれば、もはや「見られるもの」との同一視はなくなってゆくわけです。そこは認知のお話ですから一気に完全にとはいきませんけど、次第に、段階的に認知が変わってゆくわけです。

そうして、対象と意識とが切り離されてゆくわけです。

実際のところ、見るものである(プルシャあるいはアートマン)と見られるものである純粋物質プラクリティは世界に重なって存在しておりますが、認知として、プルシャを識別するということです。

そして、その説明として、よく仏教あるいはヨーガやヴェーダンタの人は「無知が原因であるから、無知を取り除けば良い」と言います。その無知とはエゴだったり雑念だったりしますので、エゴや雑念を取り除くことが無知を取り除くことだ、というわけです。

それはそれで一般的にはわかりやすい説明で、ある程度の真実を表しているとは思いますが、そういう路線で瞑想や修行をしてある程度進んだときに、それだけでは足りなくなってくると思うのです。

と言いますのも、その無知の説明では、見るもの(プルシャ)と見られるもの(プラクリティ)の説明になっていないからです。見るもの(プルシャあるいはアートマン)が独立して存在していることを認知することが悟りへの鍵であるわけですから、ここは重要なわけです。

最初の段階として一般的に言われているエゴだとか雑念だとかいう意味における無知を取り除くのは重要かとは思いますが、実際のところ、その先の段階においては、そもそも「無知(無明)」という実態は(その段階ではそれほど)なくてそれは単なる認識の状態を表現している言葉に過ぎない(ようになる)わけですので、(その段階において)実態がそもそもない「無知」とやらを取り除くなどということはできないと思うのです。そのような段階があるわけです。


■無知とエゴと雑念のお話を切り離した方がわかりが良い

この「無知」について、私はしばらく、この「無知を取り除く」という言葉自体に惑わされていましたけど、この段階に至るとエゴとか雑念とかそういうことではなくて、もう、直接的に、ただ単に「見るもの(真我、プルシャ)」を「見られるもの(プラクリティ)」と同一視しない、というだけのお話なのです。そのことを比喩的に「無知を取り除く」と言おうと思えば言えるかもしれませんけど、この段階での無知には実態があまりありませんから、無知という言葉はこの段階では物凄く語弊のあるお話だと思うのです。この段階においては無知を取り除く、というより、ただ単に、ヨーガ・スートラの文言そのままに「同一視しない」あるいは「両者を結合しない」、というお話なわけです。この無知の克服は段階的に行われ、次第に、完全に無知は克服される、と言います。完全なる解放までは多少の無知と付き合いつつ、少しづつ無知を克服していくわけです。

仏教やヴェーダンタでは伝統的に「厚い無知によって覆われているから認知できない」というお話をしており(本当の真実を個別に伝えているのかもしれませんけど)、そういう説明は比喩としてはそれなりに成り立つとは思いますけど、必ずしもエゴがあるとは限りませんし、同様に、必ずしも雑念があるとも限らないと思うのです。エゴが強いことを比喩的に「厚い無知」と言えるといえば言えますけど、逆に、無知だからといって必ずしもエゴが強いとは限らないと思うのです。同様に、無知だからと言って必ずしも雑念が多いとも限らないわけです。これらのお話でエゴや雑念を前提としてしまうと、窓口が狭くなってしまいます。エゴと無知を結びつけない方がわかりがいいと思いますし、雑念と無知を結びつけない方が同様にわかりがいいと思います。無知だからと言ってエゴが強いとか雑念が多いとかいう扱いをしてしまうと、素直な人たちが戸惑ってしまうことにもなります。

それよりも、ただ単に「同一視している段階」「真実を見出している段階(純粋精神を見出している)」という方がわかりがいいと思うのです。窓口も広がります。この場合「無知」の説明にエゴとか雑念とかはあまり要らなくて、ただ単に、認知の状態の階梯を示しているだけなわけです。

ヨーガ・スートラの文脈そのままに、ストレートに解釈して、「見られるもの」と「見るもの」を結合(同一視)しているかどうか、という点だけで判断するのです。そして、結合(同一視)していたら無明(無知、アヴィディヤ)ですし、結合していなければ無明ではない、というシンプルなお話な訳です。


▪️思考の流れと認知の間に広い空間ができる

認知、あるいは意識、と言っても良いのですけど、思考と認知(あるいは意識)の間に独立性が保たれるようになってきたように思います。

そしてそれは、サハスララにエネルギーが満ちている時に、そうなるようにも思います。

意識とは満ちているものだ、とはヨーガやヴェーダンタでは説明されますけど、その、満ちている意識が認知することと、思考との間に空間ができたような感じになります。

満ちているのに空間ができるとは、一体どういうことでしょうか・・・ と思われるかもしれませんけど、空間と言っているのは物理的な空間ではなくて、認知のない場所、思考のない場所、ぽっかりと空いていて認知とも思考とも離れた空間が「思考」と「認知」の「間」に存在していて、それは何と言っていたら良いのか、良い表現がなかなか思い浮かばないのですけど、とりあえず空間と言えば空間とも言えるかな、という程度のものなのです。

ですから、「隙間」と表現しても良いのですけど、思考と認知の間に「隙間」ができて、その隙間あるいは空間とでも言えるところがある故に思考と認知とが独立していられるのです。

これは、サハスララにエネルギーが満ちるまでは、割とくっついていたように思います。
かなり昔はもっとくっついていて、思考と認知の間に区別ができなかったように思います。

ヨーガでは思考と認知(あるいは意識)とを区別しますけど、それは単なる理屈ではなくて、実際にそのように変化するものだと思います。

そのように、思考と認知(あるいは意識)が離れてきますと思考に対して認知(あるいは意識)が自由になって、人生のさまざまな出来事に悩まされにくくなるように思います。

おそらくは人によっては最初からそれなりに思考と認知が離れていてクリアな思考ができるのかなと思いますし、あるいは、そうではない場合もあるかと思います。それはスピリチュアルな階梯におそらくはそのまま対応していて、思考と認知がくっついていると苦悩の人生になって、離れていると楽で楽しい人生になりやすいのかなと思います。

思考と認知(あるいは意識)が離れることとサハスララにエネルギーが上がることは対応していると思われて、その状態になると思考の流れと認知の間に広い空間ができて、思考が自由に動いていて、それでいて認知を行う意識の方はその後ろの方で見ている状態になります。これは理屈から言ってもその通りでありますし、程度問題でもあるのですけど、その「間の空間」がしっかりと確保された、というのがサハスララにまで上がった違いになります。