無知を取り除くというよりも、単に認知する

2022-09-17
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

アートマンという場合はサット・チット・アーナンダと言われていて、サット(Sat)が存在、チット(Cit)が純粋意識、アーナンダ(Ananda)が満ちていること(満ちているから至福)、という意味になるのですけど、プルシャというと純粋意識のことで、プルシャとプラクリティ(純粋物質)とが対になっています。

瞑想が進むと、やがて、このような意味における純粋意識(プルシャあるいはアートマン)が存在していることが実感できるようになってきます。それこそが「見るもの」であるわけです。

「見るもの」が独立して存在していることが認識できるようになれば、もはや「見られるもの」との同一視はなくなってゆくわけです。そこは認知のお話ですから一気に完全にとはいきませんけど、次第に、段階的に認知が変わってゆくわけです。

そうして、対象と意識とが切り離されてゆくわけです。

実際のところ、見るものである(プルシャあるいはアートマン)と見られるものである純粋物質プラクリティは世界に重なって存在しておりますが、認知として、プルシャを識別するということです。

そして、その説明として、よく仏教あるいはヨーガやヴェーダンタの人は「無知が原因であるから、無知を取り除けば良い」と言います。その無知とはエゴだったり雑念だったりしますので、エゴや雑念を取り除くことが無知を取り除くことだ、というわけです。

それはそれで一般的にはわかりやすい説明で、ある程度の真実を表しているとは思いますが、そういう路線で瞑想や修行をしてある程度進んだときに、それだけでは足りなくなってくると思うのです。

と言いますのも、その無知の説明では、見るもの(プルシャ)と見られるもの(プラクリティ)の説明になっていないからです。見るもの(プルシャあるいはアートマン)が独立して存在していることを認知することが悟りへの鍵であるわけですから、ここは重要なわけです。

最初の段階として一般的に言われているエゴだとか雑念だとかいう意味における無知を取り除くのは重要かとは思いますが、実際のところ、その先の段階においては、そもそも「無知(無明)」という実態は(その段階ではそれほど)なくてそれは単なる認識の状態を表現している言葉に過ぎない(ようになる)わけですので、(その段階において)実態がそもそもない「無知」とやらを取り除くなどということはできないと思うのです。そのような段階があるわけです。

(続きます)