対象と意識を切り離す(同テーマ&時系列の前記事)
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見るもの(プルシャ)を独立して認知する

2022-09-16
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

無知(あるいは無明、アヴィディヤ)があるからこそ「見るもの(真我、プルシャ)」が対象(見られるもの、プラクリティ)を知りたいという衝動になる。その際、本来は「見るもの(真我、プルシャ)」と「見られるもの(プラクリティ)」は別のものであり、「見るもの(真我、プルシャ)」は独立して存在している筈が、無知の働きにより「見るもの(真我、プルシャ)」が対象(見られるもの、プラクリティ)と同一視されてしまっているわけです。ここで「対象」とすると物体かと思われるかもしれませんけど、それも含まれますけど、もっとざっくばらんに言えば、「この世界(プラクリティ)」と自分(プルシャとしての純粋意識)とを同一視している、ということです。

よって、知覚している自分というものが世界という純物質的世界(プラクリティ)の中にいる、という錯覚、あるいは、やもすると知覚されたものが自分自身(知覚するもの)であるという錯覚が生じるわけで、その理由が無知(無明)、ということになります。

ここでいう「見るもの(真我、プルシャ)」とはざっくばらんに言えば要は(自分の)「精神」あるいは(自分の)「意識」であるわけで、無知がある状態で自分の意識あるいは精神が対象物を認識したときに、認識それ自体が自分自身であるかのように錯覚してしまうわけです。それが無知によって引き起こされていて、悟りの妨げになっているわけです。

瞑想が進んでくると、認識それ自体を識別できるようになってきて、「見るもの(プルシャ)」と「見られるもの(プラクリティ)」が別物だということがわかってきます。「見るもの(プルシャ)」とは、いわゆるアートマンのことです。

ヨーガ・スートラではサンキャ哲学を基にしておりますからプルシャ(純粋精神)という言い方をしますが、ヴェーダンタではアートマンと言います。実のところ概念は違うのですけど、ひとまず似たようなものだと思っておいて差し支えないと思います(きちんと勉強した方がこれを聞くと、いやいや違うんです、と言いたいかもございませんが)。

(続きます)



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