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ゴールのサマーディ(三昧)に至るための相対的な修行

2022-09-13
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

その3つ(身口意)は、ヨーガやスピリチュアルの分類に基づいて以下のように対応付けることができて、主に体のレベルに対応している顕教と、主にアストラル界(そして一部のカーラナ界)に対応している密教、そしてカーラナ以上に対応しているその他の一部の流派、という位置付けになります。

■体(「身」の階層) → 顕教
■アストラル界 (「口」の階層) → 密教
■カーラナ(コーザル、原因)界 → 密教やその他の流派
■プルシャあるいはアートマン(個としての神、個としての分霊、「意」の階層) → その他の流派
■ブラフマンあるいは神

ここまで理解したとして、それでは、少なくともカーラナの階層あるいは理想的にはプルシャあるいはアートマンの階層、それは身口意における意、ということでありますけど、その「意(精神)」のレベルからしたら雑念は下方の「口(エネルギーの階層、感情的なアストラル界の階層)」であるのだから雑念があってもなくても同じ、ということになるわけです。それを本当にその意識状態でいられるのがサマーディ(三昧)の状態であるわけです。

このことを理解したところで、実際にその状態に居られないのであればまだサマーディ(三昧)の状態ではなくて、単に理解しただけ、ということになります。最終的な状態としては、サマーディ(三昧)に至れば雑念を避ける必要はないし雑念を変容させる必要もないわけですけど、理解することと本当にその状態になれることとは違うわけです。

そこで相対的な段階というものがあって、まだサマーディ(三昧)に至っていない場合は、その相対的な段階での対処というものは選択肢がいくつもあって、最終的な段階を理解した上で、相対的な段階の修行を必要に応じて行ってゆくというのは必要ですし有益のように思います。

ただ、修行を選んで行うにしても、流派で行われている何千回とか何万回とかいう決まった修行をこなすことそれ自体が本意ではなくて、まずこのサマーディ(三昧)の境地を(ひとまずの)目的地とみなして、可能であれば師匠からまず一瞬だけでもサマーディ(三昧)の状態に導き入れてもらって、そのサマーディ(三昧)の境地に至るために障害となっている部分を師匠が見極めた上で必要な修行を行う、というのが本意である筈なのです。修行を行うにしても、何を目的としているのかを見極めないとなかなか結果が出にくいわけです。

(続きます)



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