雑念は無くすべきなのかどうか?(同テーマ&時系列の前記事)

身口意の解釈の相違

2022-09-12
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

ですから、顕教では主に「体」のレベルに対応していて、顕教の瞑想ではそれ以上の階層である「口(言葉、エネルギー)」に存在している雑念というものには対処できないわけです。顕教からすれば「口」の階層に属する言葉だとかエネルギーだとか雑念というものは空(くう)あるいは悟りに達するための障害物であり、よって、雑念などを避けようとするわけです。言い換えれば、煩悩は無くすべき、というのが顕教の基本的な考え方になります。

一方、密教は「口(言葉、エネルギー)」のレベルに取り組みますから、雑念や煩悩などを不動明王などの御本尊のイメージに変容させて対処をします。密教においては雑念や煩悩は変容させるべき対象になるわけです。

密教とは言わなくても、瞑想の手法として何かのイメージに変容させてしまう、というのはよく言われていて、例えば、苦しい記憶を楽しいイメージに頭の中で変容させてしまいましょう、ということが瞑想手法あるいは精神分野のカウンセリングの一環として言われていたりします。あるいは、もっと簡単に、例えば山や海のイメージに変えてしまうだけでも実は十分に効果があったりします。綺麗な川をイメージしてそこに苦しい記憶や雑念を流してしまう、という方法もあります。これは密教の手法から派生した方法で、スピリチュアルでもよく使われていたりします。瞑想するときになかなか離れない苦しい雑念に対処する良い方法の1つだと思います。

又、その他の一部の流派は「意(心、意識)」のレベルに取り組みます。それはつまりはサマーディ(三昧)の意識ということですから、その状態においては(理想的なことを言えば、でありますけど)雑念には左右されないわけです。ですから、雑念はあってもなくても同じ、ということになります。

このように、基本的な立場がそれぞれ違うために身(行動)、口(言葉、エネルギー、呼吸)、意(精神、心)の解釈は顕教と密教とその他では解釈が異なっていて、顕教は「行動と言葉と心」だと解釈し、密教でも割と同じですけど密教の場合はこれら3つを統合しようとしていて、一方、その他の一部の流派はそれら3つはそれぞれ3つの全く別の階層に属するものだと考えます。

これら3つを顕教や密教のように「行動と言葉と心」と解釈するよりは、体とエネルギー(感情的なアストラル界の階層)と精神(意識)、と分けるのがスッキリするように思います。

(続きます)



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