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雑念は無くすべきなのかどうか?

2022-09-11
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想において、一般的に雑念は良くないものであるように解釈されることが多いです。雑念が多くて瞑想できない、ということはよくあるお話です。

仏教の顕教(分かりやすい言葉による教え)、仏教の密教(秘密の教え)、その他では、各種の雑念に対する対処法が教えられています。

まず一般的な仏教の顕教では、雑念と雑念の間の何も考えていない時間を増やす、と教えます。雑念は良くないものであるから、雑念を避け、何も考えていない部分が増えるように教えられるわけです。何も考えていない瞬間、それは無でもあるのですが、その無の中に安らぎと平穏がある、という教えです。その安らぎが悟りである、と教わることもあります。

一方、仏教の密教では雑念をイメージ等で「変容」させることを教わります。不動明王などの掛け軸に書かれた図を具体的にイメージすることで、雑念をそのイメージに変容させます。最終的にはそのイメージと自身とを一体化させて悟りの境地に導きます。

一方、その他の教え、例えばチベットのゾクチェンあるいはインドのヒンドゥ教のヴェーダンタの教え等では、雑念がある時もない時も同じだ、と教わります。雑念を避ける必要はなく、雑念を変容させる必要はないわけです。何故ならば、意識というものは雑念を超えたものであり、雑念を見ているものであるので、雑念があってもなくても意識というものは存在し、であれば、雑念があろうがなかろうが、雑念が変容しようがしまいが意識にとっては何ら関係がないからです。そのような意識と共にある状態をサマーディ(三昧)と言い、その状態では雑念には(基本的に)影響されないからです。

仏教では身口意(しんくい)あるいは三密ということが言われ、それぞれ身(行動)、口(言葉)、意(心)を意味するわけですが、実際にはそれは体のレベル、エネルギーのレベル、意識のレベルに対応していて、顕教は主に体のレベルに働きかけ、密教は主にエネルギーのレベルに働きかけ、その他の一部の流派は主に意識のレベルに働きかけるわけです。

(続きます)



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