サハスララのブラフマンの門を開く

2022-08-19 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

サハスララから光の柱を立てるためには、ヨーガでブラフマンの門と言われているサハスララのルートを開拓しないといけなかったように思います。これはヨーガ的にはただ1つしかありませんが、本山博先生によるとこの種のチャクラあるいはルートではそれぞれ気の次元、アストラルの次元、カーラナ(コーザル)の次元、プルシャの次元とでそれぞれあって、感覚や経験もそれぞれ異なるとのことです。ヨーガではただ開いたかどうかだけが問われますけど、本山博先生のようにどの段階で開いたのかをきちんと確認することは重要のように思います。

まず基本として、まだ気の次元でも門が開いていない場合はクンダリーニが上昇してきた時に「熱」に変わる、と説明されています。ブラフマンの門(サハスララ)からエネルギーが抜けることができないので頭の中で詰まってしまい、熱のエネルギー、それは物理次元でクンダリーニが動いているだけだから、大したことがない、と言います。

ヨーガの説明においては、クンダリーニ覚醒と「熱」の関係がよく説明されていて、背骨沿いにあるスシュムナが十分に浄化されていないとその抵抗が「熱」になる、と言われています。ですから、ヨーガ的には、きちんと浄化されているのであれば「熱」は出ないのです。あまりにも浄化が足りないとクンダリーニ覚醒後に40度の熱が続いて、極端な場合にはそのまま亡くなってしまう場合もあるようです。ですからインドではクンダリーニは危険なものとされていますけど、浄化をせずにクンダリーニだけを覚醒しようとするからその手法、例えばクンダリーニ・ヨーガなどが危険になるのであって、用法を把握した上で適切に浄化をしてクンダリーニを覚醒させれば危険なことはないのです.とは言いましても本人にその判断はつかないでしょうから、このような行法をするときは適切な師匠が必要になる、とは一般的にいわれていることです。ただ、そのような適切な指導ができる師匠がなかなかいない、という悲しい現実もありますが。施設はあっても、何かあったときに対処もできずに本人の浄化(クリア)が足りないだけだ、みたいに言われてしまうような団体も意外に多くあったりします。指導ができない人が師匠になっていたりするのですよね。このあたりはもう、仙縁とでも言いましょうか、適切な師匠に巡り合えることは幸せだ、という古代からの言い伝えが正しくも思います。

そのように、気の次元でもサハスララあるいはそれに繋がっているスシュムナがきちんと開けていない場合は熱として物理的な現象になって現れます。


■自分から自由になるとブラフマンの門が高い次元で開く

気の次元の次はアストラルの次元ですが、これはいわゆる幽体離脱のことです。

本山博先生によれば、それはそれで高次の世界を垣間見るという点において見解が広がって有益ではありますが、アストラル次元で外に出たとしても、それは死んだ後の状態と同じだから何にも偉くなくて、浄化法をして気の次元あるいはアストラルの次元では外に出られるようになったり見えたり聞こえたりする霊能はできるかもしれないが、それだけだと本当の解脱はできない、とのことで、それはそうだな、と思います。

ふと、私が属するグループソウルから出たとある魂が転生した一生を思い出したのですけど、その分霊が中世のパリでスピリチュアル・カウンセラーの夫のメンター的な立ち位置だったことがあって、実は夫は全く霊能がなくてその分霊が幽体離脱して前日に翌日の相談者のことを調べて知らせていたのですけど、そういったことって、死ねば幽体だけになって割と誰でもできてしまうことなのですよね。アストラル次元で外に出られるからといって、それは割と技術的なお話であって、そこまで大したことでもないように思いますし、アストラル次元における幽体離脱は悟りに必須ではないように思います。

アストラルの次元を超えて、カーラナあるいはプルシャの次元でブラフマンの門が開く条件としては、「自分からある程度自由になって、いつでも心がけて自分を反省できるように、自分を外から眺められるようになっていないと、ブラフマンの門はなかなか高い次元では開きにくいのです。」(「本山博著作集5」より)とのことです。

サハスララに関して言えばやはりプルシャと繋がって神様と繋がるかどうかが重要であって、そこが肝のように思います。

同書では「自分から自由になってサハスララが目覚めてくる」と言う説明がありますが、個人的に思うのは、サハスララが目覚めてくると自由になる、と言うこともできるかと思います。

ブラフマンの門が開けてくるとより自由になって、一つの限界をまた一つ超えたように思います。


■サハスララが開くことで聞こえる「こだま」

神様とそれなりに一体になってきたものの、神様とまだ分かれているときは、「遠くから、こだまが、響いてくる」感じで神様の声を聞くと言います。言い方を変えれば、神様の声と自分の間に薄い膜がある、という感じとのことです。

これと似たお話があって、私の場合、何とも聞こえにくい、小さな音の、少し薄れたような声で「ボソッと」急に声が聞こえたりしますので、このことを「こだま」かと言われると、まあ、そう言えなくもないかな、とも思いますけど、おそらくは本山博先生がおっしゃっている「こだま」とは別物かなと思います。こだま、と言われればそうかもしれませんけど、この、とても聞こえにくい、意識が散漫にしていると聞こえにくい声は特に修行していない時からずっと聞こえていたようにも思いますし、修行していないときは雑念が多くてスルーしてしまっていたり、かなり聞きにくかったり、自分の思考と混同してしまっていました。今は明らかにそれとわかる、という違いはありますけど、何かが聞こえるというのはそこまで特別なことではないと思いますし、同書にも、アストラル次元でも色々と見たり聞こえたり、というのはある、となっていますので、特に珍しいことではないようにも思います。霊能という観点ではアストラルやカーラナの段階でもありますが、神様のところに行くとそういうのは無くなる、と言います。言い方として、そういう経験が無くなるわけではなくて、そういうこともあるけれども、見たり聞こえたりというのは神様ではない、ということかなと思います。それぞれあって、階層が違う、と言いますか。

その前提の上で、本山博先生がおっしゃっている「こだま」とは小さな声のことではなくて、響き渡るようなオームあるいは幅広い神のバイブレーション(振動)のことをおっしゃっているのではないかな、と思うのです。

向こうの方からこだまが、大きな力強い言葉でウーンと響いてくる、ああいう感じの声が聞こえるのです。やさしいのではない。でも、荒々しいのではなくて、力強い、非常に強い音が、直接ではなくて、向こうからこだまのような音に聞こえてくる。これが、神様の声が聞こえる特徴のようです。ふつう皆が聞いているような声ではなくて、どこか遠いところからウーンというように響いてくるのです。(同書より)

であれば、普段言葉で私が聞いているのは私の近くにいる守護霊や様子を見に来ている親類や元妻の言葉であって、ここでいう神様の声ではないわけです。

どちらかというと「耳鳴り」と言った方が近いのかもしれません。

私は普段からナーダ音の高周波は常に聞こえているわけですけど、それに加えて、時折キーンという一過性の高周波がすることがあって、それのことかもしれないですけど、まだそれとはっきりとはわからない状況です。